…… 13 ……
別れるくらいなら、出会わないほうが良かった?
死ぬことがつらいなら、生まれてこないほうが、良かった?
でも、ミズは幸せだったよ。
せっかくお話できるようになったおじいさんとお別れするのが悲しくて悲しくて、ミズはそれを認めようとしなかったよね。
だけど、それを悲しんでちゃいけなかったんだ。
だって、最後におじいさんと一緒に暮らせたことが、ミズにとっては幸せ。
存在を知られないままで消えていったとしたら、今ほど悲しくはなかったかもしれないけど、今ほどの幸せも知らないままだった。
幸せの裏には、悲しみがある。
悲しみの裏には、幸せがある。
大きければ、片方も大きく。小さければ、片方も小さく。
振り子みたいなものだね。
明かりを落とした真夜中の和室の中。
水盤の傍で眠る荘二郎の掛け布団に身体を預けて、ミズはずっと囁くような声で話し続けていた。
「ミズは幸せ。だってミズがこうしているのは、ミズの水盤が、人にとてもとても愛されてるってことの証明だもんね」
愛が、自分を生み出した。
自分はなんと幸福な存在であることか。
愛されたまま消え行くことの出来る自分は、この上なく、幸せだ。
「おじいさんがまだ小さかった頃、みんなに荘ちゃんって呼ばれてたよね。ミズも、そう呼んでれば良かったなあ」
呼んでも気付くことなく、振り返らない人間に対して、ミズは一度も名前で呼びかけたことはなかった。呼びかけたって意味がないような気がしていたから。
「沢山名前を呼んでいたら、もっと早く気付いてもらえたのかもね」
もう、確認する術はないけれど。
「荘ちゃん……にゃは、なんか照れるなあ。やっぱおじいさん、でいいや」
ポリポリと、ミズは頭をかく。
「メグちゃんも、かぼちゃんも優しい子だよねぇ」
かぼにはしこたま怒られたけれど。
荘二郎や巡を傷つけないための、精一杯の優しさだったのだろう。ミズがわがままを言わずに、全て納得して運命を受け入れられるように。誰かが、言わなければならないことで。
それをかぼは、自分が引き受けたのだ。
「ミズのために作ってくれたシュークリーム、凄くおいしいから、あの子達にもわけてあげてね。あ、でもそしたら、お金儲けられなくなっちゃうかあ。う~ん……でもでも、メグちゃんやかぼちゃんと、ずっと仲良くしていてね。そしたらおじいさんだって、寂しいことなんてないもんね。それに」
そうしたらきっと、ずっとミズのことも忘れないでいてくれるだろうし。
「忘れないでね。ミズのこと……なんて、言わなくてもきっと、おじいさんはミズのこと忘れたりしないと思うけどね~」
ミズは、掛け布団の上から荘二郎の身体を抱きしめた。傍から見えたとすればそれは、荘二郎の身体の上に張り付いているようであったろうけれど。
「あったかい……眠いなぁ。とっても眠い。今日はここて寝ていいよねー……?」
大好きな荘二郎の上で、あたたかな、やすらかな。
なんて幸せなまどろみ。
「恥ずかしいけど、明日おじいさんが起きたら、うふふ、言ってみようかな。言っちゃおうかな~。ミズは、おじいさんのこと」
コトン。
静かな音を立てて、床の間に置かれた水盤が、綺麗にふたつに割れた。
長い年月を経て刻み込まれていた亀裂が、己の重みに耐えられなくなって、無理に繋がっていることを、今、やめたのだ。
器を失って、そこにたたえられていた水が床の間の上に広がり、音もなく畳の上に流れ落ちた。
活けられていた水蓮の花だけが、割れた水盤の上に静かに佇んでいる。
荘二郎の身体の上から、ミズの姿はあとかたもなく消えていた。
これまでのことが、まるで夢であるかのように。
荘二郎は、そっと閉じていた目を開けた。
暗闇の中、水に濡れた床の間の上で、ふたつに割れたまま役目を終えた水盤を静かに見つめる。
――悲しいことなど、何もない。
そう、すぐに、自分も行くのだから。
それまではそう、老いぼれは老いぼれなりに、この世界で満足いくまで生き抜かねば。悔いのない人生を歩んでいかなければ、ミズに合わせる顔がない。
きっと幼いあの少年は、泣いてしまうかもしれないし。
そうしたら、泣くなと肩を叩いてやらねばならないだろう。
もしも泣かずに耐えることが出来たら、強い子だと褒めてあげよう。
あの物の怪の少女には――ありがとうと。
明日はこんなにも、忙しい一日になる。
大丈夫だ。悲しんでいる暇もなさそうだ。
ミズの言葉だって、ちゃんと聞くことが出来た。
「お前の言葉、しかと、最後まで……」
荘二郎は、再びそっと目を閉じた。
『明日おじいさんが起きたら言っちゃおうかな。ミズは、おじいさんのこと』
ミズは、おじいさんのこと。
おじいさんのこと、だーいすき。