…… 3 ……
言っている意味がわからない。
そう呟いた巡に、少女はやれやれと苦笑しつつ左右に首を振った。
「物わかりが悪いの~」
その言葉に、いささかムッとする巡。
「人間じゃないって言うなら何なんだ」
どこからどう見ても人間にしか見えないじゃないか。まあちょっと運動能力が高かったり、木にぶら下がったりはしていたけど。
少女は、一瞬フッと遠くを見るような目を見せる。こういう見た目に似合わない大人びた仕草も、巡のカンに障るというか、馴染めないというか。おおよそこの年頃の少女がやりそうにない振舞いを自然とやられてしまうと、彼の感性が追いつけない。大人びた仕草を好む、ちょっとおませな女の子とかいうのとは、まるで違うのだ。余裕のありそうな笑みとあいまって、その様子を例えるなら「老獪」という言葉が似合うだろうか。もちろんそんな単語は巡は知らないが。
「さあ、何なんだろな。人間にはよく、魔物だの鬼だのと言われておったがの」
これのどこが魔物だ。それに、鬼なら角でも生えていそうなものだ。
巡は、ごくごく一般的に魔物だの鬼だのと呼ばれる架空の姿を思い描いた。もっとも、魔物とひと括りにしてしまうと、それは曖昧すぎて良くわからない。けど少なくとも、魔物というのは恐ろしく人とは違う姿をしているものというのが巡の認識だ。
「ああ、妖怪とも言われたな。わちは、遺伝子を継承してこの世に『生きる』存在ではないからの。生きてもいないし死ぬことも出来ん。そんな存在だ」
つきあってられない。
魔物だの生きてないだの、意味不明な言動を臆面も無く言い募る幼児の相手など、これ以上していられない。
「妄想なら自分の頭の中だけにしてくれ。僕は帰る」
クルリと振り返って、歩き出す。
「そうだの。立ち話もナンだし、ぬしの住処へ連れて行け」
「冗談じゃない!!」
巡は年相応に大人気なく、マジで少女を睨みつけた。絶対にそれは許さないと、その表情で語っている。しかしあれだけ全力で走る巡に取り付いてきた少女だ。本気で家まで来る気なのだとしたら、それを止める対策は無いように思える。
「いやいやそれはぬしが困る。わちの話は聞いておいた方がいいと思うがの~」
「聞きたくない!」
何が一番苦手って、話の通じない相手が一番苦手だ。
巡はここに来て痛感する。今までそういう相手に出会ったことが無かった。否と申し立ててもスルリとかわされてしまうような経験など無いのだ。いやもちろん、違う嫌だと思うことを聞き入れてもらえなかったことは何度だってあるが、それにはちゃんと、それなりの理由というものがある。今回相手にしている少女は、そういうケースからはかけ離れているのだ。
何を言っても、のれんに手押し。
理解しようがしなかろうが、おとなしく従おうが反抗して怒鳴ろうが、目の前の少女は好きなことを言い、好きなようにする。きっとそのニヤニヤした笑みを顔に張り付かせたままで。巡には、彼女の電波話を聞く以外の選択肢が与えられていないらしい。
もしもちゃんとした理由があるのだとしても。
それは今、巡の理解の範疇外だ。
結局巡は、その場から脱兎のごとく逃げ出した。
再び追いつかれてしまうのかもしれないが、今の巡には、他の方法を思いつくことが出来ない。こういうのとちょっとでも係わったら、絶対にろくな結果が待っていない。
誰かに教わったわけじゃない。そう"思った"のだ。本能と呼べるかもしれない部分で。
「仕方のない奴だの……」
その場に立ち尽くしたままの少女は、その場から巡を追いかけるでもなく、ただ走り去る彼の姿を見送っていた。
何なんだ、あの幼児は。
巡がそう思ったのは、今日何度目だろう。
家に駆け戻る間にも、時折ちょっと道を変えてみたりして、何度も振り返ったり、あたりを見回したりした。背後にも気を遣う。また気付かないうちに背中にぶら下がっているかもしれない。
そんなこんなしながら、いつもの倍以上疲労して、巡は家の前までたどり着いた。
あがった息を整えながら、何かの気配がないか、キョロキョロと家の周りを見回す。そして大きく振り返って、背後も確認した。よし。誰もいないことを確認して、家の門へと向き直った。
「ここがぬしの家かの」
「──、…………ッ!」
目の前の開いたままの門の内側、ちょっとした庭ともいえる芝生にはめ込まれている、玄関へと続く石畳の上に、少女が立っていた。
「どッ……」
どうして、とか、どうやって、と言いたかったのかもしれない。けれど動転した巡の口からそれらの言葉は出てこなかった。
「一度話をした人間の気配を追うのは簡単だ。それにわちはこう見えて、ぬしらのように確たる器は持たん存在だからの。重力の束縛から逃れることも可能だし、形を変えることだってできなくはないのだぞ。まあわちはちと、変化の類いは苦手だが」
ぬしは今いち信じられんようだからの、と、少女は勢いをつけることも無く、その場からヒョイと小さな門の上に飛び乗った。直立の姿勢を崩しもせず、スッと飛び上がって音も無く一メートル以上の高さがある狭い門構えの上に、ストッと揃えた両足で立ったのだから、それは尋常な能力ではない。
驚愕で目を見開く巡を尻目に、さらに少女はトンとその足場を蹴った。
一瞬後には、五メートルほど続く石畳の奥にある玄関の遥か上、二階建ての屋根の上に、その姿があった。
「な……ッ!」
「どうだ? 人間にはなかなかできることじゃなかろ?」
ストーンと放物線を描いて、少女は再びこともなげに巡の目の前に飛び降りた。
驚いて一歩後退した拍子に、巡は体勢を崩して尻餅をついてしまう。少女は続けざま、そんな彼の傍にスッと近寄り、その身体をこともなげにひょいと抱き上げてみせた。
「ちょ、あ、……ぅ、……ッ」
支えられるような安心感がない。
まるで宙を浮くような感覚に、巡は身体を硬くしてただ呻いた。
物理的に、彼女の小さな身体で倍ほどの身長がある巡の身体を支えきるのは難しい。土台も小さければ、リーチも短かすぎる。けれど彼女は、純粋にふたつの掌だけで、巡の身体を"持って"いた。
「ぬしの身体がバランスも崩さずにわちのちぃ~ちゃな手の上に収まっておるのは、わちの『魔』の部分の力ゆえよ」
ニヤーっと笑ったあとで、少女は巡の身体をほいっと地面へと戻した。いささか気遣いのない降ろし方だったが、それに対する感想を持つ余裕すらも、今の巡にはない。
本格的に、それは幼児に出来ることではない。いや、大人だって、多分。
人間じゃない、なんてそんなありえない話を、本気で信じろというのか。いや、人間だって、何か特別な訓練でも受ければ、そのくらいのことはできないわけじゃない。いや絶対できるはずだ。できなくちゃいけない。そうでなければ、目の前にいるこれはなんなんだ?
巡はぼんやりと座り込んだまま、目の前で胸を張る少女を眺めることしか出来なかった。