…… 5 ……
二人きりの和室で、巡と荘二郎は、しばし無言で向き合っていた。
再び天笠和菓子店を訪ねた巡だが、今日はかぼはつれてきていない。というよりは、かぼ自身がついて来ることを辞退した。
「どうせ、黙って聞いていることしかできないからの」
というのは、かぼの談。おそらく、これから巡が荘二郎から聞きだそうとしている話の大筋を、かぼはもう理解しているのだろう。そしてそれがどんな内容であれ、かぼは反抗する気も意見する気もない。ならば、巡が自分で聞いて、自分で判断した方がいいだろうと、そう考えたのかもしれない。
巡の方にも、確信できていることが少なくともひとつはあった。
「なんで、嘘をついたの?」
巡の言葉に、荘二郎は無言のまま見返してくる。
ミズは今、巡の家でかぼたちと遊んでいて、ここにはいないから直球での会話が出来る。正確には、巡が心置きなく話を進められるように、かぼがミズを家に呼び出したのだが。
「天笠さんがミズを良く思ってなくて、それで水盤をいい加減に扱ってミズを消そうとしているなんて、嘘だ」
「……」
だって、ミズはシュークリームが好きだと言っていた。
天笠和菓子店が、洋菓子であるシュークリームを店頭に置き始めたのはいつだ。巡の考えが間違っていないなら、それはちょうど、荘二郎がミズと出会った頃ではないのか。
巡がシュークリームをもらったとき、荘二郎は言った。シュークリームが食べたいと言っている子がいると。それはミズのことだろう。だから、いつでも彼女に食べさせてやれるようにと、むしろそれが一番の目的ではなかったのか。
ミズは、シュークリームの存在をテレビで知ったとも言っていた。どんな形でかは知らないが、ちゃんとテレビだって見させていたということだ。ミズのことを、その魂ですらどうでもいいと思うくらいにうとましく思っているのなら、そんなことをするだろうか。
「なんで、そんな嘘をつくのかが知りたい」
荘二郎の言を嘘だと決め付けて、巡は話を進めた。
多分、間違いではないだろうと。
「……」
荘二郎は、一瞬だけ目を閉じる。
「あまり深入りをさせて、嫌な思いをさせるのもどうかと思っていたのだがな……あれから考えたが、お前さんも物の怪と共にある身、あまり子供扱いして隠すのも良くないのだろうな」
物の怪というものの性質を知っておくのも悪くないだろう、と、荘二郎は前置きした。
「私の水盤の扱いは、以前も今も変わってはおらん」
「……え?」
「変わったのは、ミズの方だ」
言いながら、荘二郎はほんの少しだけ、ため息をついたように見えた。
「どういうこと?」
「水盤に張る水も、活ける花も、これまでとなんら変わってはおらん。水盤で花を活けるのに最良であるはずの水を、そうでないように感じるようになったのは、ミズの方だ」
荘二郎は、再び目を伏せた。
「寿命なのだよ。ミズのな」
荘二郎の率直な一言に、巡は目を見張った。
「……寿命?」
荘二郎が本当のことを言っていないというのはわかってはいたが、今のその言葉は予想外だった。というか、巡にはその言葉のちゃんとした意味が、上手く頭の中に浸透してこない。
荘二郎は、床の間に飾られた水盤を見やった。
「我が家に伝わるこの水盤はな、随分長いこと大切に扱われてきたが、これといった名品ではない。銘もない数物のひとつだ。むしろあまり出来のよくないものでな。焼きも上薬も甘いものを、見た目が気に入ったという理由だけでタダ同然で譲り受けたというのが真相だ。これまで良くもったものだとさえ思える」
それは、つまり?
「限界なのだよ。ミズの本体である水盤は、もう壊れかけておる」
大切にとは言うが、誤って畳の上に落としたことだって、荘二郎が生まれる遥か前からの長い長い時間の中で一度や二度ではない。そういった衝撃だって、その場ではなんともなく見えても、疲労がたまって行く原因になる。
焼きも上薬も甘いといういわゆる不良品であるなら、水など注がずに、ただ飾っておいたほうが良かっただろう。けれど天笠家はその水盤に水を張り、花を活け続けた。本来そうであるべきものとして。そういう意味でも、大切に扱ってきたと言えるかもしれない。
だが、つまり。
「本体である水盤が壊れたら、ミズの魂も、保ってはいられまい」
「……」
人間が年を取っていくのと同じように。
そしていつかはその生涯を終えるのと同じように。
形のある物はいつかは朽ち、その役割を終えるときが来る。
「知っての通りであろうが、ミズは水盤そのものの物の怪ではなく、うちにある水盤のそれだ。その水盤が壊れれば、ミズはミズとして生きてはいられないということだ」
「……そんな」
ミズは、年老いて生涯を閉じようとしている存在なのだと。
荘二郎は、そう言っている。
「物には必ず寿命がある。今が、ミズのその時なのだ。だから、どんなに大切に扱ってやろうが、朽ちかけているミズの身体は、それを正常には感じ取れなくなっているのだよ」
美味しいと言っていた水を、美味しく感じられなくなってしまったのは。
壊れかけた水盤が、その身に無遠慮に水を注がれているから。
ミズの魂そのものが、老いて壊れて消えかけているから。
「それを薄々感じ取ってはいるはずなのだがな。ミズは表面上認めようとはしていない。だから、多くを言えないでいたのだが……うちの水盤は、もういつ壊れてもおかしくはない状態だ」
「ミズが……」
消えようとしている。
そして彼女は、それを認めようとはしていない。
だから、美味しくなくなった水を、おじいさんの体調不良のせいにしようとしている。
語られたことの意味を悟るのに、頭が追いついてこなくて、どう反応していいのかもわからないまま。
巡は、俯いた視界に広がる畳を、ただ意味も無く見つめていた。