…… 2 ……
とりあえず、だ。
未知との遭遇を果たした巡、思いつく選択肢はふたつあった。
とにかく少女を枝から下ろしてやるか。もしくは、見なかったことにするか。
迷わず後者を選びかけた。別に枝に絡まって難儀している訳でもなさそうだし、むしろ幸せそうな顔で眠っているのを、起こすのも申し訳ない。
そうだ。知ったことではない。
しかし、微笑む寝顔で逆さ吊りになっていた少女が、うっすらと瞼を開き始めた。
手遅れだ。逃亡失敗。
いや、その場で踵を返せばまだ間に合ったのかもしれないが、開きかけた少女の瞼をうっかり注視しているうちに、数秒にも満たない機会を逃してしまった。
間をおかずにパカンと開ききった大きな瞳は、逃げ腰だった巡の姿をしっかりと捉えていた。
「おお~」
逆さ吊りの少女。ニヤリと満面の笑みを作った。
「ひさしぶりだのぉ~」
ひさしぶり?
お前なんか見たことも会ったこともない。
声にできずに心の中だけで反論する巡にはまるで構わずに、少女は下半身に絡まっていた枝から、実に簡単にスルリと抜け出した。今までずり落ちなかったのが不思議なくらいの滑らかさだ。
そのままクルンと半回転して、ストンと地上に着地する。
幼児のクセに器用な。いや、何でも体得するのが早い幼児なら、これ位のことは朝飯前なのか。そうなのか?
着地した時に巡に背を向ける形になった少女は、元気にクルリと振り返った。
「元気にしていたかの」
ニコニコと巡を見上げる満面の笑顔。
「……」
返事をしていいものかどうかも判断できない。
「元気じゃなかったのかのー?」
笑顔のままでこくりと首をかしげる仕草はまったくもって普通の少女のそれだが。普通の少女が林の中で逆さ吊りになっているのを見たことはない。つまりは普通でないということでいいのか。色々なことがおかしいと認識しつつも、どういう反応が正しいのか、巡にはわからない。
「誰だ、お前」
結局、ひねりも何もないそんな一言が口をついて出た。
見た通り自分は元気だが、見たこともない幼児に、そんなお伺いを立てられるいわれはない。木の枝に絡まって逆さで熟睡する知り合いなどいないはずだ。心当たりがない。
「なんだ、冷たいな。……まあそうか、人間はいちいち面倒くさいからの」
齢十年に満たなそうな少女、まるでこの世を悟ったような口調だ。
「人間と話をしたのは、実に久しぶりだ。ぬしという個人に会ったのは、初めてかもしれんがの。どうだ。人間は元気かえ?」
「……」
言動が、ヤバいような気がする。というか、何かを言われてもそれが意味のある言葉として頭の中にまで届かない。
朝比奈先生、怪しいヤツ扱いしてしまってごめんなさい。
言いつけを守らなかったせいで、本当に怪しいヤツに出遭ってしまいました。
巡は、ジリ、と足を後退させた。
こんなおかしなヤツと、係わり合いになるのはマズい気がする。
巡は、クルリと踵を返すと、物も言わずにその場から駆け出した。
見なかったことにするのは手遅れになったが、とりあえず気持ちが逃げを打った。走りにくい雑木林だが、全力で逃げれば幼児ごときに追いつかれるはずはない。ここで逃げてアレの視界から外れることさえできれば、きっともう会うこともないだろう。そう思いたい。家や学校の近所というのが少々の不安要素だが。
「急に走り出すとは何事だ」
耳元で、声が聞こえた。
「うわああああ!!」
少女が、いつの間にか自分の背中におぶさるように張り付いている。巡は自然の成り行きで急停止した。
「せっかく会えたのに、話もしてくれんのか。大体、今逃げても困るのはぬしなんだがの」
どうやって追いついたのか。どうやって走る巡の背中に飛びついたのか。まるで気付きもしなかった。
さっぱりわからない。気味が悪い。普通じゃない。
「お前、誰だ! お前なんか知らない!」
「だーから、ぬし個人と会うのは初めてだとちゃんと言っておるだろ。永い時間を眠って過ごすしかなかったわちを、少しくらい歓迎してくれても良さそうなものだ」
何を言われても、頭の中に浸透してこない。ちゃんと日本語でひとつひとつの言葉は聞き取れるが、少女の言い回しが、ひとつの流れで理解できない。こういうのを電波というのだろうか。
「何を言ってるのかわからない! はなれろ!」
自分を背負ったまま怒鳴る巡に、少女はうーんと困った顔を見せる。
「そりゃあ、きちんと話も出来なければ理解のしようもあるまいよ。まだ先駆けのこの時代、ぬしがわちと出会ったのも、その力ゆえの縁なのだからして、話くらいしても損はないと思うぞ」
言いながらも、少女はフウとやけに大人びたため息をもらす。
「もっとも、いつの世も人間というのは、他のものを受け入れがたい性質をしておるがの~。そうでなければ、いくら魔の刻が過ぎたとはいえ、こんなにわちらが隅に追いやられることもなかったろうに」
さっきから、巡には言っていることがまるでわからない。
どこぞのオカルトマニアが喜びそうな単語が聞こえなくもないが、それを普通の小学生である巡が理解するのは難しい。
ストンと、少女は巡の背から飛び降りて、素早く彼の正面に回った。
「ぬしにもわかりやすいように、結論から言ってやろう」
相変わらずの、満面の笑顔。しかしこの状況では、つられて笑い返すこともできない。
「わちは、人間ではないよ」
きた。
きたきたきた、来ました。
私は宇宙人ですとか異世界から迷い込んだついでに世界を救うとか、そういう発言が得意な人種か。もちろん巡はそういった世界に明るいわけではないが、自分の交友範囲に存在しない怪しいタイプであること位はわかる。余計な心配だが、この子の親は自分の娘がそういう発言をすることを知っているのか。それとも親兄弟が伝説の戦士か。
「世も末だ……」
つい、つられるように難しい言葉で呟いてしまった。
「そうだの。生きる者の全盛の世は終わり、これからは魔の刻となる。その移り変わりの時代。今はまさに、逢魔が時、なのだよ」
巡の言葉を受けて正体不明の少女がにこやかに答えたらしいが、彼はそれをやけに遠くで聞いている感覚があった。
結局やっぱり巡には、言葉の意味はさっぱりわからなかった。




