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巡の目の前であぐらをかく少年は、さっきまで確かに黒猫だったはず。
巡は、マジマジとその少年を眺めてしまった。
「……ホントに、あの黒猫?」
目の前で変身した姿を見ても、にわかには信じがたい。かぼやミーシャを散々見た後でも、こうもありえない光景を見せ付けられてしまうと、やはり頭は追いついてこないものだ。
「そだよ」
こともなげな黒猫。
「しっかしなー、いつまたこの姿になれるかわからなかったから、ミーシャがいてくれて助かったわ」
廊下にあぐらをかいたまま、両手を後ろについてリラックスする元黒猫。
「あらあ……人なら、プリン食べても大丈夫かしら……」
そして、相変わらず天然な発言をかます母。
「あ、おかまいなくー。いちいちこの人数分おやつ用意してたらキリがないでしょ、ママさん」
「ま、いい子ね。心配しなくても大丈夫よ」
猫のくせに気遣いのできる彼にいたく感心した母は、いそいそとプリンを取りに台所に向かってしまった。
「どうなってんだ……」
そんな母と確かに血は繋がっているはずなのだが、この事態にひとりついていけない巡。それが普通の感覚というものだが、往々にして状況というものは、多数決で動いて行くものだ。この光景に疑問を抱く巡に同調してくれる存在は、今ここには無い。
「なんだ、ぬしは人型になれたのか。なぜ今まで隠しておったのだ?」
かぼが呆れたように腕を組んで見せたが、もちろんこの状況そのものはすっかり受け入れてしまっている。まあ、彼女はもちろん人間ではないのだから当然だ。
シンと呼ばれた元黒猫の少年は、疲れたように首を振った。
「いや、隠してた訳じゃないんだけどな……」
見ての通り、彼は猫が変化した物の怪だ。猫と人と、ふたつの姿を持ち合わせる。が、その仕組みに問題があった。
「一応オレ、基本形は猫なんだよ。人でいるよりは猫でいるほうが楽は楽なんだけど、困ったことに、猫でいる時のオレは、マジで猫なんだよなあ」
言われている意味が、巡にだけはわからない。
つまり、彼は。
人でいる時は、人の言葉も解するし、人と同じ行動パターンを持つ。故に、人としての常識や理性も理解する。猫でいたときの自分の行動も憶えている。
が、ひとたび猫に戻ると。
彼は、本当に猫なのだ。
たとえば人間相手に機嫌を読んだりはできるが、基本的には人の言葉を解さない。猫として生き、猫としての本能を持つ。まるっきり存在が猫。だから、自分の意志では人間型に変化することはできないし、また、しようとも思わない。彼は、猫だから。
日向ぼっこをしたり遊んだり、犬と張り合って走り回ったり。人型でいれば減らない腹も猫の時は減るし、もちろんご不浄だって人目をはばかることなく砂場でカリカリやったりする。物の怪でありながら、しつこいようだが、まるっきり本物の、猫。ただしかぼたちと同じように、通常、生の刻の生物には見えにくい。
「さっきミーシャが言ったキーワードで他人から命令されないと、オレは人になれないんだよ」
「キーワード?」
巡とかぼは、同時に首をかしげる。
「変化しろ、ってな意味合いの言葉だな」
訳知り顔で、ミーシャが呟いた。
「こいつは先の魔の刻の終わり頃に生まれた若い物の怪でな。オレがシンと初対面のときはこいつ人型だったからこういう性質だってのも知れたが、生の刻ではまったく顔を合わせてなかったからな。久しぶりだろう、人型になったのは」
ミーシャの言葉に、シンはうんうんと頷く。
「ミーシャ以外に知り合いがいないわけじゃないけどな。生の刻でみんな篭っちまってたし、実際人型になったのは数百年ぶりだ」
進んで人間の姿になりたい訳ではないが、猫の姿の時は、他の誰ともコミュニケーションが取れないから、そういう意味では苦労することになる。もちろん、猫でいるときの彼はそんな苦労を感じることもないわけだが。
「不便だの……」
げんなりするシンに向かって、かぼは同情の目を向けている。
実際、物の怪というのは基本的に、この世に存在するありとあらゆるものの思考を理解できるものだ。たとえば動物と人間では思考形態も違うわけだが、それすらもおおよそ理解することが出来る。人間のように言葉でコミュニケーションを取る訳にはいかない動物でも、相手が今どんな気持ちでいるのかとか、その相手の立場で理解することが可能なのだ。だから、それと同じように、人間とも人間特有の言葉でのコミュニケーションを取ることができる。時代が流れて言葉や社会が変わっても、その時代に瞬時に馴染むことができる、器を持たない魂の存在。それが物の怪なのだが。
時々、シンのような物の怪も存在する。
人型になってさえいれば、他の物の怪と変わらない能力を有するのだが、猫の姿をしている時の彼は、本当に猫でしかない。ゆえに、物の怪の中では、かぼの言うようにかなり不便な部類に入る。
魔の刻の社会も色々複雑なようだ。
「道理でどんな名前で呼んでも反応しないはずだ。ちゃんと名前を持っていたのだな」
かぼは妙な方向で納得している。
実際、拾ってから名前をつけようとしなかった訳ではないのだが、どんな名前をつけても、それに関してだけは、黒猫はまったく反応を示さなかったのだ。むしろ、ただ「猫」と呼んでやった方が、まだ反応があった。
なるほど名前があったのなら仕方がないと、かぼは合点がいったような顔をする。
そして説明を聞くうちに少々落ち着いてきた巡は、言っていいものかと悩みつつ、シンを眺めた。
「でもそれって……人型になった時、かなり恥ずかしかったりしない?」
それでも言ってしまった巡の言葉に、シンはガックリと首を垂れる。
「恥ずかしいなんてモンじゃないぜ……」
猫であるシンは、猫以外の何者でもないから、人間であった頃のことなど何一つ憶えてはいない。だが人型になったシンは、猫であったときの自分の状況をいちいち覚えている。
例えば人に腹を撫でられて伸びている姿や、用を足すためにバリバリと地面を引っかく姿、追いかけているうちに切れたトカゲの尻尾にはしゃぎまくる自分。その他もろもろの、猫として過ごした時間を、全て覚えているのだ。そんな姿を、惜しげもなく他にさらしていたという事実を。
恥ずかしくない訳がない。
シンは猫の物の怪なのだから、猫でいる自分やその習慣を自ら否定する気もないのだが、いかんせんこうして人の形をとり、人間のように振舞える人型バージョンのシンからしてみれば。猫でいるときの自分はこう、無邪気で何の罪もない幼い子供の姿を晒しているような、そんな気分になってしまうのだ。
「で、まあ、ずっと人の姿でいるのは正直疲れるんでさ。やっぱり猫でいることが多いんだけど、ぶっちゃけ猫でいる時は何もすることがないから、用事ができたときはいつでも変化させて構わないぜ」
人から猫への変化は自力でできるらしく、くったくなくそんなことを言うシンだが。
「そうか。では今度、母上か芽衣の膝の上でくつろいでいる時にでも、変化させてみようかの」
楽しそうにからかい混じりで提案するかぼの一言に、シンはブルブルと首を振りまくった。
「そ、それはちょっと!!」
由美香と芽衣の膝の上は居心地がいいだけに、一番発生しやすいシチュエーションだ。
本当にかわいそうだから、それだけはやめてやれ。
巡は早々に、シンに対して同情の眼差しを向けるようになっていた。