…… 13 ……
巡が出て行ってすぐ、かぼは部屋の窓を開けて、外に身を乗り出していた。
「雨、止まんの……」
かぼは昔から、雨に当たるのを極端なくらいに避ける。
振り落ちてくる雨粒がその身体に当たるたびに、その内側にある温かさが失われていくような、そんな感覚があった。
そんな雨の中、巡は出て行ってしまった。
怒られるからついて行くことはできなかったけれど、でも一番に見えるところで待っているのなら構わないかなと。そんな風に思って、窓から外に出る。
雨は嫌いだけど。
少し当たるくらいなら、大丈夫だろう。
雨に当たることよりも、巡がそこにいてくれないことの方が。
だって巡は、かぼが目覚めたときに最初に見つけた、真っ直ぐな瞳だから。かぼに名前をつけてくれたり、何も言わなくても黒猫を家に連れ帰ってくれたり。かぼに世話を押し付けるのは、これからも、かぼが巡の家で暮らしていいって、そう言ってくれているのだ。とても、優しい子なのだ。
だから早く巡を見つけられるように、雨の当たる玄関先に、かぼは座り込んだ。
それでもやっぱり雨は冷たくて。
流れ落ちる水と一緒に、自分の中の何かもこぼれ落ちていくようで。
早く巡を見つけようとする意志と裏腹に、かぼの瞼はゆっくりと、閉じていった。
天笠和菓子店は、巡の家の近所ではあるけれど、それでも数百メートルは離れている。家を出てからむっつりと歩いて雨に濡れてしまった道を、巡は今度は走って帰った。
あの時、結局買ってやらなかったシュークリーム。これを見たら、かぼは喜ぶだろうか。知ってはいても、食べたことのないような素振りではあったし。そしてかぼが喜んだとしたら、やっぱり自分も嬉しかったりするんだろうか。それはどうだかわからないけれど、今、巡はかぼの喜ぶことをしようとしている。
喜ばせたいと思った訳ではないけれど、喜ぶだろうな、とは考えた。
そしたらまた上機嫌で、魔物のウンチク語りなんて始めるだろうか。そうすれば、巡はもっとかぼやあの黒猫のことを知ることが出来る。それは案外、悪くないことなのかもしれない。
巡は、その勢いのまま、家の小さな門に駆け込んだ。
その足が、止まる。
かぼが、いた。
門から少しだけ離れた玄関先で、うつ伏せになって倒れていた。
「……かぼ?」
返事はない。
雨の中、雨の中なのに、かぼはその場にうつ伏せになったまま、ピクリとも動かなかった。
身体に当たる雨のしずくが、何の抵抗もなしに流れ落ちる。まるで石の上でも滑り落ちるように。
こんな光景を、巡は以前にも目にしたことがある。
あれは確か、車にひかれて道路で死んでいた、小さな猫だ。
硬くなった身体の上を、冷たい水がただただ流れていたあの光景。
かぼは、何と言っていた?
雨は嫌いだと、言っていなかったか。
――そいつは水に当たっただけで消えてしまう。
かぼのあの時の声が、今聞こえた。
そんな物の怪がかぼのことではないと、誰も、言っていない。
動かないかぼを見つめたまま、巡は手に持っていたシュークリームの袋を、バサリと取り落とした。
なんだよ。
「なんだよ……」
なんで、雨の中待ってたりするんだよ。
こんな短時間の間に、そんな姿になってしまうくらいなら、なんで。
命を懸けてまでやらなきゃいけないようなことじゃないだろう!?
雨に当たるだけで死んでしまうような身体だったら、それを本人が知らないはずがない。でももし、もし、知らなかったら? ただ本能で嫌っていたのが、実は命に関わることだからだって、本人が知らないことだって、あるかもしれない。
だけど、嫌いだって言ってたのに。
嫌いだけど、それでも巡を待つために、こんなところで、ずっと。
だけど死んでしまったら、何の意味もないのに!
「ばっかじゃないのか、お前!!」
雨の中、立ち尽くしたまま。
巡は動かないかぼに向かって叫んだ。
悪態をついても文句のひとつも返ってこないことが、こんなにも胸に衝撃を与えるなんて。喧嘩なんかしたって。文句を言い合ってたって良かったのだ。こんな風に、動かなくなるより、ずっと、ずっと良かった。
どうして、もっと前に気付けなかったのか。
失くすのはあっという間だって、さっき聞いたばかりだ。もっと前に聞いていたら。でももっと前に聞いていたとしたって、きっとその時の自分には、やっぱりわからなかっただろう。
絶対に戻ってこないものなんて、この世にはいくらだってあるのだ。
バカじゃないのか。バカじゃないのか。
こんなにあっさりといっちまうくらいなら、最初から付きまとったりするな。
自分から付きまとってきたのだから、勝手に死ぬな!
文句を言ったって、何を願ったって、失ってからでは、何もかも遅い。
一番バカなのは、自分だ……。
この時。
この、一見普通の少女と変わらない、陽気な物の怪との騒がしい出会いと、突然の別れが。
巡のこれからの人生を、大きく変えることになる――。
――なんて訳はなくて。
「……しゅーくりーむ!!」
ガバリと、少女が頭を持ち上げた。
「……………………ッ!!」
巡、唖然。
「しゅ、しゅーくりーむがあ、水溜りにいいい!!」
うつ伏せになったまま顔だけ上げたかぼは、まるで脂ぎった羽と長い触角を持つ黒い悪魔のごとくに、カサカサとほふく前進でシュークリームの袋に這い寄った。
「もったいないじゃないか! このかぐわしき匂い、これはしゅーくりーむだろう!?」
……何が起こった。
「お、お……」
「お?」
「お前、死んでたんじゃないのかよ!?」
巡の叫びにポカンとしたかぼは、さすがに仰天の表情を作った。この少女には珍しい現象。
「何を言うか、失礼な!!」
「だって!!」
ついさっき頭の中を駆け巡った様々なことを、取りとめもなくわめき散らす巡に、かぼはますます目を見開いた。
「メグ……ぬし、案外慌て者だの」
「なんだよ……」
バツの悪そうな巡に、かぼは這いずった格好のまま、呆れたようなため息をつく。
「生きるか死ぬかの問題だったら『好き嫌い』で済むわけがなかろうよ」
それはそうだが、巡は、かぼが無自覚なんじゃないかとまで考えたのだ。難しく考えすぎだと言われたとしても、家の中にいたはずの者が雨の中で倒れていたら、誰だってまずは驚く。
「それになあ、わちら物の怪は、魂が消えれば身体も残らんよ」
「そんなことを知ってるわけがないだろ!!」
そりゃそうかと、かぼはナハナハと笑う。楽しそうな瞳が、巡に向けてさらに細められた。
「そういうことも含めて、思いついたときに話してやるぞ。わちらの色々なことはな」
一度に全てを話すには、情報量が大きすぎるのだ。
しかしそうか、とかぼはニヤつく。かぼが死んだら、巡は慌てるか、と。そう考えたら、自然と笑みがこぼれてしまうかぼだ。まだ、嫌われているわけじゃなかったと。
「ていうか」
巡は一度、大きく息を吸った。
「大体なんでこんなところで倒れてるんだ、お前は!!」
もっともな意見だ。
「あー……わち、雨は嫌いだからの。当たっているうちに、ついつい眠気がきてしまったのだ」
巡には意味がわからない。
「それも追々な」
かぼが雨の中で眠気を来たしてしまったのは、完全な逃避の表れだ。彼女が何かから逃避するには眠るのが一番良いのを、かぼの本能は一番良く知っている。自分を追いやる生の刻を、ただただ眠ってやりすごしたように。
そして、彼女が雨を嫌うのも、ちゃんと理由があってのことなのだが。
それもいつか、話す時もあるだろう。
「そのうち話してやるから、まずはこれを食べていいかの」
ずっと抱えているシュークリームの袋を、かぼはきらめく眼差しで見つめる。
「その前に風呂に入れ」
かぼの首根っこを捕まえて起き上がらせると、巡はその手からシュークリームを奪い取った。しかしはたしてこのシュークリームは、まだ食べられるのだろうか。
「メグのケチんぼ!!」
その言葉も何度聞いたことか。
なんと言われても、こんな濡れ鼠のまま菓子を食うことを優先させるのは許さない。
ケチと罵られても――生きてて、良かった。
正確には、彼ら魔物は生きてはないらしいけど。
動いてしゃべっているのだから、それはそれで良しとしよう。
手遅れにならなかったことを、自分は心から安堵しているのだから。
手足をバタつかせて抗議するかぼを引きずって、巡は雨の当たらない家の中へ入って行った。
二人が住む、雨の届かない場所へ。
<第一話・了>