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放課後になって、巡は職員室に顔を出した。
朝比奈に言われた通り、両手に持つ箱の中にはクラスメイトたちが採集してきた植物の残りが入っている。のはいいのだが、こんなものを集めて担任が何をしようとしているのか、巡には今イチわからない。捨てるのならそのまま焼却炉行きでも構わないと思う。
それとも、巡に説教するための大義名分だろうか。それならただ職員室に呼び出せば良いだけの話だ。
「先生、持って来ました」
巡が朝比奈の机に向かうと、担任は事務椅子をグルリと回転させてにこやかに巡を迎えた。何気に巡の足許にくっついて来ているかぼの方には、視線さえも投げかけない。気付かれることはない、とかぼは言っていたが、なんだか不思議な感じがする巡。すでにかぼの存在から不思議なのだから仕方がないのだが。
「おお、ごくろーさん」
巡から受け取った箱の中を、早速ガサガサとあさり出す朝比奈。
「それ、どうするの?」
「んー、採るだけ採って無駄にするのも、こいつらに申し訳ないからな。使えるものは使おうと……ああ、これとかな」
朝比奈が取り出したのは、どうやらよもぎの一種。使い切れなかったが、結構な人数がこれを持ち帰っていた。
「よもぎは色々と使い道あるからな~。っと、この辺は押し葉にでもしといて、栞でも作らせるか……」
朝比奈、新たな案が浮かんだらしい。
「ところでな、成瀬。お前今日はどうした? 何か悩み事か?」
押し葉にするらしい雑草を選別しながら、朝比奈は巡へと視線を投げかけた。
急にトイレには立つし、実習中もやたら挙動不審だったし、教室では突然怒鳴り出す。詰問されても仕方のない今日一日の巡だ。
「勉学の態度がなっとらんの~」
お前にだけは、言われたくない!!
腕を組んでうんうんと頷くかぼを怒鳴りつけそうになるが、ちらりと横目で睨みつけるだけに留め、巡は何とか言葉を飲み込んだ。今このタイミングでそんなことを叫んだら、本当にシャレにならない。
「すみませんでした。悩み事とかじゃないです」
少々しおらしい口調で否定してみると、朝比奈はハハハと軽快に笑った。
「まあなあ、成瀬だって男だもんなー。他人に言えない悩みのひとつやふたつ、あったっておかしくないけどな!」
そんなんじゃない、と言いかけたが、巡は一瞬躊躇した。男だからかどうかはわからないが、確かにこれも人に言えない悩みと言えなくもない……かもしれない。このままでは血管のひとつも切れてしまいかねない勢いだし。
「話せることなら聞くぜ? けど言えないモンを無理に聞き出す趣味はないからな。ひとりで悩むってのもアリだ。が、人と共有できれば色々ちがうもんだ」
かぼや魔の刻のことを誰かと共有。
確かにそうできれば、自分の精神状態も大分違うだろうと巡は思う。ひとりで抱えていたら、途方にくれてしまうだろう。そういう意味では、母や姉は共有者といえるかもしれなかった。かぼの存在を知っているというだけのもので、それ以外のことを話し合えるかどうかはわからないが、話してみて、まるで相手にされない相手ではないだろう。
魔の刻とかそういう話はよくよく考えてみれば深刻なことなのかもしれないが、けれど実際のところ目下の巡の悩みといえば、かぼがひょいひょいと巡の行き先についてきてしまうことくらいだ。いちいち挙動不審なのだって、ひとりで何かに対し悩みに悩みぬいた末の奇行というわけではなくて、うっかりかぼに反応してしまったゆえだ。
自分にだけ見える存在というのは、本当に面倒くさい。
「ひとりでいると、後ろ向きになりやすい。一緒にいる人間が多くなればなるほど、気持ちは前に向きやすい。そんでまあ、前向きに生きてさえいれば、取り返しのつかない事態までにはそうそう進まんもんだ。あまり深く考え込まんでもな。でもって、誰かのフォローがあるのとないのとでは、いろいろな面で格段に差が出る。見たところ、お前さんはそういうのに不自由してなさそうだけどな」
巡にも、友人はそこそこにいる。クラスで嫌い合っている人間もいない。家族とも仲がいい。けれど今の状況は、おいそれと周りに広めていい問題でもないような気がする。しかしそれはそれとして。
「本当に、悩みとかじゃないです。その、さっきのは、パセリのことで家族にうるさく言われたばかりで、先生に文句を言いたかったわけじゃなくて、うっかり……」
一応矛盾がないように、さっき友人にした言い訳と同じように言っておいてみる。朝比奈は「そっか」と言って笑った。彼が自分で言うように、深入りするつもりはないらしい。少し安心した。
「ま、悟られたくなければ冷静に対処できるようにするんだな。そうでないと周りに心配かけちまうぞ」
軽い口調だが、朝比奈、何気に子供に難しい注文を出す。それともひとりの人間としての意志を尊重しているということだろうか。
「手ぇ出しな」
「?」
言われて素直に手を出すと、朝比奈は巡の掌の上に、小さな茶色の塊をふたつ転がした。
「何これ……」
「キャラメル。オレが作ったの。それでも食って機嫌直せ。……あ、学校では食うなよ。それと、みんなには内緒な」
巡はしげしげと、オブラートにくるまれたそれを眺める。
いちいち小器用な担任だ。
「メグの先生は優しいの~。かぼに飴をくれたぞ」
帰り道、巡に渡されたキャラメルを口の中で転がしながら、かぼは上機嫌で両頬を押さえる。
「お前にくれた訳じゃないよ……」
むしろ自分が今あげたんじゃないかと、憮然とした面持ちで、巡はもうひとつのキャラメルを口に入れる。帰り道だが、学校では食べるなと言われたのだから、まあいいとする。へ理屈だと文句をつける人間は、ここにはいない。
キャラメルは、当然だが甘い。
口に広がる甘さで、ここ数日の疲れが何となく取れていくように感じるのは、あまりにジジくさすぎるだろうか。けれど、心身共に疲れていたのは事実で。
キャラメル効果だろうか、何だか色々考えすぎるのが面倒に思えてきた。
ありのままを受け止めてみた方が、建設的なんじゃないか、と。
あまり深く考え込まなくてもと、朝比奈は言った。どうせ考えようがそうでなかろうが、巡ひとりで変動する世界をどうこうできるわけではないのだから、その波に上手く乗ったほうが楽なのは確かだ。
けれどやはり、かぼに学校に来られるのは困る。じっとしてないし、いつ誰に見られるかもわからないし。巡が持つという逢魔の力とかいうのを、持っている人間だっているかもしれない。
「もう、メグの学校には用がなければ行かんよ」
思っていたことに、そのまま返答されて巡は驚いた。
「わちが行くと、メグは困るようだからの。わちはメグと仲良くしたいだけだ。嫌われてしまったら、意味がないからのー」
散々やってくれた後で、よく言う。
「逢魔が時など、そう深く考えることもあるまいよ。どうあがいたところで、なるようにしかならんし、なるようになる。でも、案外世界は優しいぞ」
「優しい?」
眉を寄せて聞き返す巡に、かぼはいつものごとく笑いかけた。
「世界は命ある者にもなき者にも、平等に存在する力を与えてくれてるだろ。ほれ、こんなに小さい者にもな」
かぼの視線の先に、いつの間にか真っ黒な猫が座っていた。
いつからいたのか。
道の端にいた猫は、ふたりの視線を受けてゆるりと立ち上がると、音もなく歩み寄ってきて、巡の脚に頭を擦りつけフニャンと澄んだ声で鳴いた。子猫と言うには大きいが、近所で見かける飼い猫よりは小ぶりだ。きれいな毛並みなのに、首輪のような「飼い猫」の証は見当たらない。
「そやつも、わちらの仲間よ」
「え?」
ニャーとなく声も、翡翠みたいな目の色も普通の猫とまったく変わらないが――長い尻尾が、半分ほど二股に分かれている。
「!?」
かぼがそれを抱き上げた。
「こやつも魔の刻の住人だ。見たことのないヤツだが……こんな風に、至極本物に近く、力のない者もいる」
ペロペロとかぼの顔を舐める黒猫は、尻尾が二股に分かれている以外はどこからどう見ても普通の猫で、突然人間の言葉をしゃべりだしたり、飛んだり消えたりする様子は見せない。
これも、他の人間には見えないのだろうか。
「ぬし、この辺の者か? 帰る場所はあるのかの。ないならウチに来るか」
「お前のウチじゃないだろ」
巡は、かぼからその猫を受け取って抱き上げた。
人懐こく、巡の顔も舐め出す黒猫。ゴロゴロという喉の音が、巡の胸の辺りに振動となって伝わる。こうやって抱き上げているのを他の人間に見られたら、この猫の姿も見えてしまうのだろうけど、この猫くらいなら、きっと問題はないだろう。
「な、優しいだろう? 生きる気さえあれば、何とかなるんだものな。そんでもって、そうやって猫を抱き上げるメグも優しい子なんだって、わちは勝手に信じておるのだがの」
「……」
一瞬目を見開いて、すぐに巡はかぼから視線を外した。
急に持ち上げられて多分少し赤くなってしまった頬を、あまり見られたくはない。
「優しくなんかないよ。この猫、かぼが面倒見るんだからな」
ぷいと顔を背けて歩き出した巡に、かぼはグルグルとまとわりついた。
「なんだ、ケチんぼだの、メグは! 共同作業でいいじゃないか!」
「かぼがやるんだよ」
誰の声に反応しているのか、黒猫はニャーンと鳴く。
「かぼがやれって言ってる」
「違う! メグも世話しろと言っておるのだ!」
やいやいと騒ぐ、かぼの声ばかりがうるさい帰り道を。
少しだけ。
ほんの少しだけ楽しいと感じたのは――ひとりはしゃぐかぼには。
まだ、秘密にしておくことにする。