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掃除も済ませて終礼も終わった放課後。
放課後はクラブ活動のある児童以外は速やかな帰宅を推奨する『私立藤乃木小学校』の校庭は、今はサッカークラブの活動で賑わっている。その面々を時々横目で見ながら、彼は教室で本を広げていた。
物静かな文学少年。
に見えなくもないが、実際に机の上に広げていたのは「山菜・野草」のミニ図鑑だ。
「なんだー、お前らまだ残ってたのか? 用事がないならさっさと帰れ」
教室で無駄話に盛り上がりを見せていたクラスメイト数人は、のんびり教室に入ってきた担任教師を見とめて「はーい」とお行儀良く返事をしてみせ、仕方ないとばかりに教室を後にする。さよーならー、と間延びした挨拶がお決まりだ。
「で、成瀬。お前はなにやってんの」
歳若い担任教師に広げていた本を覗き込まれて、成瀬巡はパタンとそれを閉じた。
「山菜~?」
首をひねるような仕草を見せた担任、朝比奈高之は、ああ、と思い出したように屈めていた背筋を伸ばす。
「もしかして、来週の実習のか」
言われて巡は素直に頷く。
「予習を」
しゃあしゃあと言い放つ少年に、朝比奈は微妙な苦笑いを返す。
「予習結構だが、それはむしろあんちょこってヤツだろが」
来週の実習、と朝比奈が言ったのは、週明けにある家庭の授業での実習だ。
誰にも聞かず頼らずそこいらにある草や木の実を自分の判断で持ち寄り、極力食べられるものは食べる。食せるものが何割あるかというちょっとした実験でもある。
このおかしな実習案を出したのは、朝比奈本人だ。
巡の通う藤乃木小学校では、授業案は担任に一任されている。一任と言っても、もちろん主任、教頭の検閲は入る訳だが、よほどやる気のない案以外は、するりと通ってしまうゆるい校風だ。良い案に関しては、学年を通して採用されたりもする。
それなりに自由だが、教師の技量が試される環境でもある。
もっとも検閲を通ったこの実習、せっかくの家庭の授業でもっと華やかなそれらしい料理を作りたい女子には大変不評だが。菓子だの洋風料理だのを実習で作りたいお年頃、六年生だ。食えるんだかそうでもないんだかわからない葉っぱや木の実を煮たり焼いたりしたい生徒はそれほど多くない。
将来的に役に立ちそうなことほど、子供たちにはつまらないものなのは、世の定説。
まあともかく、今回の実習に関して言えば、予習をするというのはつまりカンニング行為にあたるという訳で。
「別に、実習で見たりしないよ」
「そーゆう問題か」
実習では、二時限連続である時間割の、最初の一時限を校外での収穫に当て、あとの一時限で調理をする計画になっている。せっかくだから、食べられるものを収穫したいと考える者がいるのももっともで、巡のように放課後の教室で堂々とではなくとも、隠れて下調べをする熱心な生徒は他にもいるだろう。だから朝比奈も、深くは突っ込まない。
「まあいいや、お前もさっさと帰れよ」
授業が終わったら、用事のない者は居残り寄り道せずにまっすぐに帰る。これはこの学校でなくとも、普通にありがちなルールだ。
仕方がないから、巡も読んでいた本を鞄にしまって席を立った。
「先生、さようなら」
「はいさよーなら。下見とか言って寄り道するんじゃねーぞ」
ぎくり。巡、図星をつかれた。
「夕方ってのは、魑魅魍魎や妖怪どもと出遭いやすい時間帯だって言われるからなー」
にこやかに言う担任教師に、巡はなんとも微妙な視線を送る。魑魅魍魎という言葉はよくわからないが、妖怪はわかる。それがいわゆる、フィクションの物語の中でしかお目にかかったことがない存在であることも。
「怪しいヤツを見る目つきをするな」
怪しいヤツを見てるんだから仕方がない。
「昔から言われてることだぜ。まあ、夕暮れ時ってのは、人の心が狂う、犯罪の起きやすい時間でもあるってこった。変な事件に巻き込まれないように、とっとと帰りなって話。オレはまだマスコミに退路をふさがれたくはねーぞ」
人の心が狂うとかはいまいちわかりにくいが、言いたいことは何となくわかった。
しかし「まだ」って、いつか未来ならいいんだろうか。ていうか、建前でももう少し自分の生徒を心配する発言は出来ないだろうかと巡はぼんやりと思う。
「気をつけます」
それだけ言い置いて、巡は鞄を肩からぶら下げて教室を出た。
「メーグー、帰ろ~」
誰もいなくなった六年一組の教室に、ひょっこりと顔を出した少女がひとり。
くるりと見回す教室には、もちろん、だーれも残っていなかった。
「あれえ? 部活ないから一緒に帰ろうって言っておいたのに……」
巡のふたつ上の姉、芽衣だ。
暇な日を見つけては、わざわざ隣の敷地の中学校から顔を出す、弟大好きブラコン姉。
完全エスカレーターではないが、小中高と隣接した場所に立つ藤乃木学園グループにおいて、その中学に通う多くの生徒はこの小学校の卒業生だが、卒業して二年も経つのに、未だに我が校のような顔でほっつき歩くのは、この芽衣くらいのものだ。
まとめても、すぐに解けてしまいそうなサラサラのストレートヘアを指にクルクル巻きつけながら、芽衣は唇を尖らせる。
「最近メグって冷たいよねえ。寂しいなあ」
いじける素振りで不満を漏らしてみたところで、他に誰もいないから意味がない。
独り言の多発には気をつけろ。
そしてそんな姉との約束などキレイさっぱり忘れている弟、巡の方はというと。
担任の注意など聞くはずもなく、学校の裏山の雑木林へと足を運んでいた。
別に、実習にそんなに真面目に取り組みたいという情熱があるわけではないのだが、やはりせっかくむしり取って行くのなら、食べられるものの方がいい。自分の選んだものが食えない部類に分類されるのは、ちょっとシャクに障る。一応彼にも、なけなしのプライドのようなものはあるのだ。ウケ狙いに走れる性格だったなら、世渡りの面で将来有望なのだが。
夕方とは言っても、夏も間近な6月の放課後は、まだ太陽が眩しい。今日は天気がいいから、ちょっと暑さも感じるが。
朝比奈の言った、人の心も狂わせがちだという夕暮れ時。
それを俗に、逢魔が時、と言うのだが。
今のこの明るさが、そんな怪しげな雰囲気など、まったくと言っていいくらい感じさせない。もう少し日が落ちなければ。雑木林の中はそれなりに薄暗いが、それは夕闇のせいではなくて、単に木々の作る日陰のせいだ。
一度は鞄にしまった図鑑を取り出しながら歩く。
腰のあたりの高さにある鞄をあさっていたせいで、目の高さくらいの空間をふさぐ細い木の枝に気付くのが遅れた。
危ない、とギリギリでかがみこんで、その枝をくぐり抜けた後に背筋を伸ばして。
次の瞬間、バサリと目の前に降ってきた何かに驚く余裕も無く、巡はその物体にボスンと顔を埋めてしまった。
「ぶっ……」
柔らかい、枕のような布の感触。
二秒ほど固まってしまった後で、慌てて半歩退いた。が、目の前にある物体が何なのか、目視できない。
さらにもう半歩下がってから『それ』をマジマジと眺めた。上から下まで。
なんだ、これは。
見たままを言うなら、それは、少女。というか幼女。
そこいらの幼稚園にでも通っていそうな幼い少女が、絡み合った枝に器用に下半身を支えられて、逆さまにぶら下がっていた。
芽衣のようなまっさらストレートではなく、ふわふわで茶がかった長い髪。
その髪をゆらゆらと揺らしながら、少女は幸せそうな顔で眠っている。ように見えた。逆さ吊り状態で、その顔は微妙に笑っている。
「パンツ丸見え……」
真っ白な肌着らしきものは重力にしたがって盛大にめくれ、巡がこれまで実際に目にしたことのない形状の、ふっくらとギャザーの入った下着──いわゆるかぼちゃパンツ──が丸出しになっていた。
なんでこんなところに女の子が。
なんで幸せそうにぶら下がってるんだ。
大体、いくらちょっと余所見をしていたからって、コレに気付かない訳あるか。ずり下がって来たにしたって、こんなのが進行方向のそう高くもない木の枝に絡まってたら、もっと早くに気付くはずだ。さっきまで確かにいなかったと思うのに。雑木林のマジックだろうか。
というか自分は今、このパンツに顔面から突っ込んだのか。
いやパンツはともかく、何が何だかわからない。
巡の思考の回転は続く。
そう、往々にして変化とは、唐突にやってくるものだ。
──これが、巡と『少女』との出逢いだった。