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『母が私を捨てた日、私は母の好きな林檎を焼いていました』

掲載日:2026/11/06

『母が私を捨てた日、私は母の好きな林檎を焼いていました』


第一話 五年越しの焼き林檎


 アニエスは、母に嫌われたのだと思うより、母が自分を忘れてしまったのだと思うほうが、ずっと怖かった。十五歳の誕生日を迎えたばかりの彼女は、台所の大きな窓から馬車の音を聞きながら、焼き林檎の入った皿を両手で抱えていた。母の誕生日だからと、朝から料理長に頼み込んで作らせてもらったものだった。


 薄紅色の絹のドレスには、母が昨年縫ってくれた白いレースの襟がついている。普段なら汚すことを恐れて台所へは着てこないが、今日は母に見せたかった。母の好きな赤い林檎をくり抜き、蜂蜜と砕いた胡桃、少しの肉桂を詰めて焼いた。表面には飴色の艶があり、甘酸っぱい香りが湯気とともに立ち上っている。


「ねえ、マルタ。お母様はまだかしら」


 料理長のマルタは、いつもならよく動く手を止めた。


「お嬢様、その……奥様は、もうお発ちになりました」


「どちらへ?」


「それが、私にも……」


 アニエスは皿を持ち直した。林檎の熱が陶器を通して指先に伝わる。


「弟のリュシアンも一緒なの?」


「はい」


「では、療養に行かれたのね。どうして私を呼んでくださらなかったのかしら」


 マルタは答えなかった。その沈黙が恐ろしくて、アニエスは皿を置くこともできずにいた。


 そこへ父のエドモン侯爵が入ってきた。黒い上着に銀糸の刺繍を施し、いつもどおり隙のない身なりをしている。


「アニエス、母のことは忘れなさい」


「お父様?」


「あの女は家を捨てた。病弱な息子を連れて、私に何も告げず出ていったのだ」


「そんなはずはありません。お母様はリュシアンのお薬を探していたのでしょう?」


「言い訳をするな。あれは自分勝手な女だ」


 アニエスの胸に、怒りより先に悲しみが押し寄せた。


「でも、お母様は昨日、私の髪を梳いてくださいました。明日も一緒にお茶を飲みましょうって……」


「もうその話は終わりだ」


 父が立ち去ると、アニエスはようやく皿を卓上へ置いた。焼き林檎の皮には小さな亀裂が入り、蜂蜜がゆっくりと流れ出している。


「マルタ、お母様は私を嫌いになったの?」


「いいえ、お嬢様。そんなことは……」


「だったら、どうして私にさようならを言ってくださらなかったの?」


 マルタはアニエスを抱きしめた。温かな腕の中で、少女は声を殺して泣いた。林檎は冷め、母の誕生日は終わった。


 それから五年、アニエスは母を悪く言う者たちの声を聞きながら育った。


「奥様は薄情な方だった」


「ご病気の若君まで連れていくなんて」


 使用人たちの囁きに、アニエスはいつも同じ言葉を返した。


「お母様は、そんな方ではありません」


 けれど二十歳になった今でも、なぜ自分だけが残されたのかは分からなかった。


 秋のある日、アニエスは母の部屋を整理していた。深緑の長袖ドレスに生成りの前掛けを重ね、窓を開けると、庭の林檎の木から熟した実の香りが流れ込んできた。


 書棚の奥で、古い料理帳を見つけた。茶色い革表紙には母の筆跡で「家族の食卓」と書かれている。頁をめくると、幼い頃に食べた蜂蜜入りの菓子や、弟の好きだった鶏肉の煮込みが載っていた。


 焼き林檎の頁で、アニエスの手が止まった。


 余白に、小さな文字がびっしりと書き込まれていた。


『リュシアンの病には、北方の修道院にいる医師の治療が必要。費用は莫大で、侯爵はこれ以上の支出を認めない。私の持参金を使うには、婚姻を解消しなければならない』


 次の行は、インクが滲んでいた。


『アニエスまで連れていけば、あの子の将来を奪う。侯爵家の娘として残すしかない。どうか、私を憎んでくれますように』


「……お母様」


 アニエスは椅子に腰を落とした。


 母は弟を救うために出ていったのだ。自分を嫌いになったのではなかった。


 それが分かった途端、胸が軽くなると思っていた。けれど実際には、五年間押し込めてきた寂しさが一度に溢れ出した。


「どうして……どうして、私に話してくださらなかったの」


 頁に涙が落ちた。


 その日の夕食は、焼いた鴨肉と茸の煮込み、温かな麦のパンだった。アニエスは父と向かい合いながら、ほとんど料理に手をつけられなかった。


「お父様、リュシアンの治療について伺いたいことがあります」


 父の銀の食器が止まった。


「今さら何だ」


「お母様は、弟を救うために家を出たのですね」


「誰から聞いた」


「お母様の料理帳に書いてありました」


 父はしばらく黙り、それから葡萄酒を飲んだ。


「あの女は、私の決定に逆らった」


「それだけですか」


「侯爵家には体面というものがある」


「では、お母様が悪女だというお話は?」


「勝手に家を出たことに変わりはない」


 アニエスは父を見つめた。五年前なら、その冷たい声に怯えていただろう。けれど今は、恐ろしさよりも悲しさが勝った。


「私は、お母様に会いに行きます」


「許さん」


「もう二十歳です。私が会いたい人を、私が決めます」


 翌月、アニエスは北方の小さな町へ向かった。


 石畳の道には落葉が積もり、家々の煙突から白い煙が上がっている。修道院に隣接する家の前で馬車を降りると、冷たい風が灰青色の外套の裾を揺らした。


 扉を開けたのは、背の高い青年だった。


「姉上……?」


「リュシアン?」


 かつて細い腕で自分の袖を掴んでいた弟が、目の前に立っている。頬には健康な赤みがあり、声もしっかりしていた。


「本当に姉上なのですか」


「ええ。大きくなったのね」


 弟はアニエスを抱きしめた。


「母上! 姉上が来てくださいました!」


 奥から足音がした。


 現れた母は、記憶の中より少し痩せていた。栗色の髪には白いものが混じり、質素な灰色の衣の袖をまくっている。


「アニエス……」


 母の声を聞いた瞬間、アニエスは十五歳の少女に戻ったような気がした。


「お母様」


 駆け寄りたいのに、足が動かない。


 母も同じだった。数歩離れたところで立ち尽くし、震える手を胸元に当てている。


「ごめんなさい。あなたに、何と謝ればいいのか……」


「会いたかったです」


 アニエスの声が震えた。


「ずっと、お会いしたかった」


「私もよ。毎日、あなたのことを考えていたわ」


「だったら、どうして一通もお手紙をくださらなかったのですか」


 母は唇を噛んだ。


「あなたが私を忘れて、新しい暮らしを送れるようにと思ったの」


「忘れられるはずがありません」


 アニエスの頬を涙が伝った。


「会いたかった。でも、寂しかったことまでなかったことにはできません」


「ええ……そうね」


 母は涙を拭おうともせず、頷いた。


「あなたを守ったつもりで、ひどく傷つけてしまったのね」


「お母様がリュシアンを救ってくださったことは、嬉しいです。でも、私にも本当のことを知る権利がありました」


「そのとおりよ。あなたを信じて話すべきだった」


 母が差し出した手を、アニエスはすぐには取れなかった。それでも、しばらくしてからそっと指先を重ねた。


 その夜、三人は小さな台所で夕食を作った。野菜と鶏肉を煮込んだ温かなスープに、焼きたての黒パン、山羊のチーズ。窓の外では冷たい雨が降り始め、炉の薪がぱちぱちと音を立てていた。


「姉上、母上の焼き林檎を覚えていますか」


 リュシアンが尋ねた。


「もちろん。私も作れるわ」


「では、今夜は姉上にお願いしようかな」


 母が小さく笑った。


「私も手伝っていいかしら」


 アニエスは少し考えてから頷いた。


「ええ。でも、胡桃を砕くのはお母様にお願いします。私は林檎の芯を抜きますから」


 二人は並んで台所に立った。


 母が胡桃を砕き、アニエスが林檎に蜂蜜と肉桂を詰める。五年前と同じ甘い香りが、少しずつ部屋に満ちていった。


「アニエス、あの年の誕生日に、あなたが林檎を焼いてくれていたことを、あとでマルタから聞いたの」


「そうだったのですか」


「食べたかったわ。あなたの焼いた林檎を」


 アニエスは手を止めた。


「私は、あの日の林檎を一口も食べられませんでした」


「……そう」


「でも、今日は食べられると思います」


 母は静かに頷いた。


 焼き上がった林檎を三つの皿に分けると、黄金色の蜂蜜が果肉から溢れ、肉桂の甘い香りが湯気とともに立ち上った。


 アニエスは匙を入れ、柔らかな果肉を口へ運んだ。熱く、甘く、少し酸っぱい。懐かしい味だった。


「おいしいわ」


 母が言った。


「あなたが作ってくれたから、なおさら」


 アニエスは微笑んだが、まだ胸の奥には小さな痛みが残っていた。


「お母様、明日は私が侯爵家で過ごした五年間のお話をしてもいいですか」


「ええ。全部聞かせてちょうだい」


「楽しいことばかりではありませんよ」


「それでも聞きたいわ。あなたが泣いた日も、笑った日も」


 アニエスは温かな林檎をもう一口食べた。


 失われた五年間は戻らない。母をすぐに許せるかどうかも、まだ分からなかった。それでも、明日話したいことがある。明後日も、その次の日も、きっと話は尽きないだろう。


「では、お母様のお話も聞かせてください。リュシアンが元気になるまでのことを」


「もちろんよ」


 炉の火が柔らかく揺れた。


 母と娘は向かい合い、冷めないうちに焼き林檎を食べた。今度は、誰も席を立たなかった。



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