『母が私を捨てた日、私は母の好きな林檎を焼いていました』
『母が私を捨てた日、私は母の好きな林檎を焼いていました』
第一話 五年越しの焼き林檎
アニエスは、母に嫌われたのだと思うより、母が自分を忘れてしまったのだと思うほうが、ずっと怖かった。十五歳の誕生日を迎えたばかりの彼女は、台所の大きな窓から馬車の音を聞きながら、焼き林檎の入った皿を両手で抱えていた。母の誕生日だからと、朝から料理長に頼み込んで作らせてもらったものだった。
薄紅色の絹のドレスには、母が昨年縫ってくれた白いレースの襟がついている。普段なら汚すことを恐れて台所へは着てこないが、今日は母に見せたかった。母の好きな赤い林檎をくり抜き、蜂蜜と砕いた胡桃、少しの肉桂を詰めて焼いた。表面には飴色の艶があり、甘酸っぱい香りが湯気とともに立ち上っている。
「ねえ、マルタ。お母様はまだかしら」
料理長のマルタは、いつもならよく動く手を止めた。
「お嬢様、その……奥様は、もうお発ちになりました」
「どちらへ?」
「それが、私にも……」
アニエスは皿を持ち直した。林檎の熱が陶器を通して指先に伝わる。
「弟のリュシアンも一緒なの?」
「はい」
「では、療養に行かれたのね。どうして私を呼んでくださらなかったのかしら」
マルタは答えなかった。その沈黙が恐ろしくて、アニエスは皿を置くこともできずにいた。
そこへ父のエドモン侯爵が入ってきた。黒い上着に銀糸の刺繍を施し、いつもどおり隙のない身なりをしている。
「アニエス、母のことは忘れなさい」
「お父様?」
「あの女は家を捨てた。病弱な息子を連れて、私に何も告げず出ていったのだ」
「そんなはずはありません。お母様はリュシアンのお薬を探していたのでしょう?」
「言い訳をするな。あれは自分勝手な女だ」
アニエスの胸に、怒りより先に悲しみが押し寄せた。
「でも、お母様は昨日、私の髪を梳いてくださいました。明日も一緒にお茶を飲みましょうって……」
「もうその話は終わりだ」
父が立ち去ると、アニエスはようやく皿を卓上へ置いた。焼き林檎の皮には小さな亀裂が入り、蜂蜜がゆっくりと流れ出している。
「マルタ、お母様は私を嫌いになったの?」
「いいえ、お嬢様。そんなことは……」
「だったら、どうして私にさようならを言ってくださらなかったの?」
マルタはアニエスを抱きしめた。温かな腕の中で、少女は声を殺して泣いた。林檎は冷め、母の誕生日は終わった。
それから五年、アニエスは母を悪く言う者たちの声を聞きながら育った。
「奥様は薄情な方だった」
「ご病気の若君まで連れていくなんて」
使用人たちの囁きに、アニエスはいつも同じ言葉を返した。
「お母様は、そんな方ではありません」
けれど二十歳になった今でも、なぜ自分だけが残されたのかは分からなかった。
秋のある日、アニエスは母の部屋を整理していた。深緑の長袖ドレスに生成りの前掛けを重ね、窓を開けると、庭の林檎の木から熟した実の香りが流れ込んできた。
書棚の奥で、古い料理帳を見つけた。茶色い革表紙には母の筆跡で「家族の食卓」と書かれている。頁をめくると、幼い頃に食べた蜂蜜入りの菓子や、弟の好きだった鶏肉の煮込みが載っていた。
焼き林檎の頁で、アニエスの手が止まった。
余白に、小さな文字がびっしりと書き込まれていた。
『リュシアンの病には、北方の修道院にいる医師の治療が必要。費用は莫大で、侯爵はこれ以上の支出を認めない。私の持参金を使うには、婚姻を解消しなければならない』
次の行は、インクが滲んでいた。
『アニエスまで連れていけば、あの子の将来を奪う。侯爵家の娘として残すしかない。どうか、私を憎んでくれますように』
「……お母様」
アニエスは椅子に腰を落とした。
母は弟を救うために出ていったのだ。自分を嫌いになったのではなかった。
それが分かった途端、胸が軽くなると思っていた。けれど実際には、五年間押し込めてきた寂しさが一度に溢れ出した。
「どうして……どうして、私に話してくださらなかったの」
頁に涙が落ちた。
その日の夕食は、焼いた鴨肉と茸の煮込み、温かな麦のパンだった。アニエスは父と向かい合いながら、ほとんど料理に手をつけられなかった。
「お父様、リュシアンの治療について伺いたいことがあります」
父の銀の食器が止まった。
「今さら何だ」
「お母様は、弟を救うために家を出たのですね」
「誰から聞いた」
「お母様の料理帳に書いてありました」
父はしばらく黙り、それから葡萄酒を飲んだ。
「あの女は、私の決定に逆らった」
「それだけですか」
「侯爵家には体面というものがある」
「では、お母様が悪女だというお話は?」
「勝手に家を出たことに変わりはない」
アニエスは父を見つめた。五年前なら、その冷たい声に怯えていただろう。けれど今は、恐ろしさよりも悲しさが勝った。
「私は、お母様に会いに行きます」
「許さん」
「もう二十歳です。私が会いたい人を、私が決めます」
翌月、アニエスは北方の小さな町へ向かった。
石畳の道には落葉が積もり、家々の煙突から白い煙が上がっている。修道院に隣接する家の前で馬車を降りると、冷たい風が灰青色の外套の裾を揺らした。
扉を開けたのは、背の高い青年だった。
「姉上……?」
「リュシアン?」
かつて細い腕で自分の袖を掴んでいた弟が、目の前に立っている。頬には健康な赤みがあり、声もしっかりしていた。
「本当に姉上なのですか」
「ええ。大きくなったのね」
弟はアニエスを抱きしめた。
「母上! 姉上が来てくださいました!」
奥から足音がした。
現れた母は、記憶の中より少し痩せていた。栗色の髪には白いものが混じり、質素な灰色の衣の袖をまくっている。
「アニエス……」
母の声を聞いた瞬間、アニエスは十五歳の少女に戻ったような気がした。
「お母様」
駆け寄りたいのに、足が動かない。
母も同じだった。数歩離れたところで立ち尽くし、震える手を胸元に当てている。
「ごめんなさい。あなたに、何と謝ればいいのか……」
「会いたかったです」
アニエスの声が震えた。
「ずっと、お会いしたかった」
「私もよ。毎日、あなたのことを考えていたわ」
「だったら、どうして一通もお手紙をくださらなかったのですか」
母は唇を噛んだ。
「あなたが私を忘れて、新しい暮らしを送れるようにと思ったの」
「忘れられるはずがありません」
アニエスの頬を涙が伝った。
「会いたかった。でも、寂しかったことまでなかったことにはできません」
「ええ……そうね」
母は涙を拭おうともせず、頷いた。
「あなたを守ったつもりで、ひどく傷つけてしまったのね」
「お母様がリュシアンを救ってくださったことは、嬉しいです。でも、私にも本当のことを知る権利がありました」
「そのとおりよ。あなたを信じて話すべきだった」
母が差し出した手を、アニエスはすぐには取れなかった。それでも、しばらくしてからそっと指先を重ねた。
その夜、三人は小さな台所で夕食を作った。野菜と鶏肉を煮込んだ温かなスープに、焼きたての黒パン、山羊のチーズ。窓の外では冷たい雨が降り始め、炉の薪がぱちぱちと音を立てていた。
「姉上、母上の焼き林檎を覚えていますか」
リュシアンが尋ねた。
「もちろん。私も作れるわ」
「では、今夜は姉上にお願いしようかな」
母が小さく笑った。
「私も手伝っていいかしら」
アニエスは少し考えてから頷いた。
「ええ。でも、胡桃を砕くのはお母様にお願いします。私は林檎の芯を抜きますから」
二人は並んで台所に立った。
母が胡桃を砕き、アニエスが林檎に蜂蜜と肉桂を詰める。五年前と同じ甘い香りが、少しずつ部屋に満ちていった。
「アニエス、あの年の誕生日に、あなたが林檎を焼いてくれていたことを、あとでマルタから聞いたの」
「そうだったのですか」
「食べたかったわ。あなたの焼いた林檎を」
アニエスは手を止めた。
「私は、あの日の林檎を一口も食べられませんでした」
「……そう」
「でも、今日は食べられると思います」
母は静かに頷いた。
焼き上がった林檎を三つの皿に分けると、黄金色の蜂蜜が果肉から溢れ、肉桂の甘い香りが湯気とともに立ち上った。
アニエスは匙を入れ、柔らかな果肉を口へ運んだ。熱く、甘く、少し酸っぱい。懐かしい味だった。
「おいしいわ」
母が言った。
「あなたが作ってくれたから、なおさら」
アニエスは微笑んだが、まだ胸の奥には小さな痛みが残っていた。
「お母様、明日は私が侯爵家で過ごした五年間のお話をしてもいいですか」
「ええ。全部聞かせてちょうだい」
「楽しいことばかりではありませんよ」
「それでも聞きたいわ。あなたが泣いた日も、笑った日も」
アニエスは温かな林檎をもう一口食べた。
失われた五年間は戻らない。母をすぐに許せるかどうかも、まだ分からなかった。それでも、明日話したいことがある。明後日も、その次の日も、きっと話は尽きないだろう。
「では、お母様のお話も聞かせてください。リュシアンが元気になるまでのことを」
「もちろんよ」
炉の火が柔らかく揺れた。
母と娘は向かい合い、冷めないうちに焼き林檎を食べた。今度は、誰も席を立たなかった。




