第1章 月下の共謀
夜の帳が王都を包み込み、王国筆頭公爵家の王都別邸も静寂に包まれていた。廊下に並ぶ魔導灯は落とされ、屋敷で明かりが灯るのは当主夫妻の執務室と、ごく限られた部屋だけである。
その一室──公爵家長女シアの私室では、二人の少女が丸いティーテーブルを挟んで向かい合っていた。
「え、これってマジですか、シア様」
淡い栗色の髪を肩口で揺らしながら、可憐な少女が思わず素の声を漏らした。
リア。公爵家の寄子である男爵家の三女でシア付きの専属侍女。そして、幼いころから共に育ってきた、主従の枠を超えた親友でもある。
侍女として主に接する日中とは違い、この時間だけは年ごろの少女らしく、また気の置けない親友らしい砕けた空気がある。
シア。リア。二人だけの時間のみに許された呼び名だった。
「嘘だと思いたいわよね、リア」
向かいに座るシアも、眉間に皺を寄せ、カース・マルツゥを見たかのように嫌悪感溢れる表情になっている。シアそこまで嫌悪するんだとリアは内心苦笑する。確かにこの親友は努力をしない者が嫌いだ。努力しても結果が出ないことには何も言わないし、努力したことは評価するのだが。
『淑女の鑑』と評される完璧な微笑みを崩さないシアも、リアと二人だけであれば年相応の少女らしい率直な感情を表に見せる。でも、その表情は誰にも見せちゃ行けない。妹大好きなお兄様が見たらきっとショックを受けるから。
銀糸のような長髪が燭台の灯を受けて煌き、蒼銀の瞳には疲労とも諦めともつかない色が宿っていた。
「これが公爵家の嫡男様の成績ですか……」
リアは机一杯に広げられた書類を見つめる。
王立アルムニア学院第3学年、各教科の成績一覧。その最下段付近に記された名前。──ナサリオ・シガンダ。
「学業と実務能力は別物ではありますけど……これ、そんな次元じゃないですよね」
「ええ」
リアの言葉にシアは静かに頷く。
「幼いころから家庭教師を付けられ、最高の教育環境を与えられた公爵家嫡男としては、かなり深刻ね」
「男爵家のあたしより下って、どういう教育受けてきたんでしょう……」
「最高の教育よ。お兄様の先生からのご紹介だもの」
筆頭公爵家嫡男の家庭教師ともなれば業界で1・2を争う優秀な人物だ。その人物が推薦したとなればその実力は推して知るべし。シガンダ公爵家にもその家格に相応しい優秀な人物が着任したはずだ。
「……え?」
「受けたうえで、この結果」
リアは暫く固まった。
「……うわぁ」
出てきた感想はそれだけだった。
「コレ、本当に次期公爵サマです?」
「残念ながら」
「替え玉じゃなく?」
「本人」
「双子の出来の悪い弟とか」
「一人っ子」
「……神様って不公平ですね」
「ええ、本当に」
二人は同時に溜息をついた。重苦しい空気になるかと思いきや、余りにも予想を下回る内容だったせいで、逆に笑いがこみあげてくる。
「シア様」
「なぁに?」
「これ、笑っていい案件ですか?」
「笑うしかない案件ね」
ぷっと噴き出したのはどちらが先だっただろう。耐えきれなくなった二人は顔を見合わせて、声を殺して笑い始める。
「だって、公爵家の跡取りですよ」
「ええ」
「家庭教師、何人泣かせたんでしょうね」
「聞いた話では何人か辞めているそうよ」
「ああ、でしょうね!」
二人はまた笑った。公爵令嬢と侍女とは思えぬほど砕けた空気だった。尤もこの部屋でだけはそれでいい。シアにとってリアが家族以外で唯一、令嬢という仮面を外せる相手なのだから。
笑いが収まるとシアは別の書類綴りを手に取った。
「成績だけなら、まだ努力次第で何とかなるかもしれないかもしれないと思わなくもないのだけれど」
絶対に何とかなるとは思っていない微妙な言い回しでシアは手元の書類を見つめる。
「まだあるんですか?」
「あるわ」
机の中央へと紙束を滑らせる。それは学院の成績表ではない。公爵家の調査部門が纏めた報告書だった。表紙には簡潔に記されている。──シガンダ公爵令息素行調査。
「こちらも見て」
シアの言葉に促され、リアは書類束を手に取ると、表紙を捲る。そして。
「……え?」
更に1枚。
「ええ?」
もう1枚。
「ちょっと待ってください」
そしてもう1枚。
「うわぁ」
最後まで読み終えたリアは、ゆっくりと書類を閉じた。そこには入学から現在までのシガンダ公爵令息ナサリオの女性遍歴が綴られていた。
「婚約してから3年で……10人?」
「ええ」
「全員、学院の令嬢ですよね?」
「そう」
幸いなのは性的な関係は持っていなかったことだろう。一応ナサリオもたとえ下級貴族とはいえ貴族令嬢に手を出したら拙いということは理解しているらしい。欲の発散は娼館を利用しているようだ。
「しかも毎回長続きしない」
「飽きっぽいのでしょうね」
「飽きっぽいってレベルじゃないですよ」
リアは頭を抱えた。報告書には『季節ごとに女を替える』と悪友たちに言われているとも記されている。
「女癖悪すぎません?」
尤も、直ぐに相手がナサリオに耐えられなくなり、2か月も持たずに別れている。だからこそのこの人数ともいえる。
「普通、婚約者いますよね」
「うーん、いたり、いなかったりね。下級貴族ばかりだから、いないほうが多いわ」
「つまり?」
「令嬢側は愛人狙いでしょうね。でも、2か月ももたない」
「あぁ……愛人狙いでもやってけない性格と性根の悪さってことですか」
「……」
再び沈黙が訪れる。リアは額を抑えたまま、天上を見上げた。
「シア様」
今夜初めてのリアの真剣な声音にシアは彼女の言いたいことが予測った。
「なぁに?」
「婚約破棄しませんか?」
「無理ね。出来るなら疾っくにしているわ」
その返答には冗談では済まされない重みがあった。リアもそれは理解している。
この婚約はただの家同士の縁談ではない。王命により結ばれたものだ。更に国家規模の共同事業まで絡む。どちらか一つだけでも覆すのは困難なのに、二つが重なっている。最早個人の感情でどうこう出来る話ではなかった。そもそもそう出来るのであれば婚約すらしていない。
「……ですよねぇ」
「残念ながら、ね」
シアは静かに紅茶を口に運ぶ。琥珀色の液面が小さく揺れた。
「正直なところ、女遊びだけなら、まだよかったの」
「え?」
「跡継ぎを作った後なら、愛人を持つ貴族は珍しくないもの」
それは冷徹な現実だった。政略結婚が当然の貴族社会。夫婦間に恋愛は必要なく家の都合が優先される。だからこそ、跡継ぎさえ残せば、恋愛を外に求め愛人を囲う貴族も少なくない。シア自身、その程度の覚悟は疾うに決めている。
「でも、婚約段階からこれではね……」
婚約期間中は互いを理解し、信頼し合える関係を築くための時間でもある。夫婦間に恋愛感情はなくとも、領地経営のパートナーとしての信頼関係と、家族としての親愛はあったほうがいい。しかし、ナサリオの行いはそれすらも否定しているようなものだ。
「先が思いやられますね」
「ええ」
静かな声には、怒りよりも諦めが滲んでいた。そして、その諦めこそが彼女を次の決断へと向かわせていた。
部屋に静寂が戻る。
リアはもう一度、調査報告書へと目を落とす。
報告書を読む限り、ナサリオは女性を人としてではなく自分を満足させるためのアクセサリーとしか見ていない。ナサリオは見目だけは抜群に良いし、同世代の中では最も高位の身分だ。最初こそ夢見る令嬢はいる。正妻は無理でも愛人にならと。しかし、中身を知れば長く続くはずもなかった。このままでは将来も愛人を取っ替え引っ替えしそうだ。そうなると庶子の問題など出てきかねない。
「それにしても、お嬢様、本当に舐められてますよね」
正確に言えば、シアの実家である公爵家が舐められている。もっと言えば王命も舐めている。ナサリオは自分以外の全てを侮っているといってもいいだろう。同年代に自分よりも高位の男性がいないことも一因だろう。シアのほうが僅かとはいえ家格が上であり、その意味ではシアのほうがナサリオよりも高位の身分ともいえる。だが、男尊女卑の強いこの国では女性というだけで見下されてしまうのだ。
「そうねぇ……」
「そうねぇって!」
リアは頬を膨らませて怒りを示す。大事な大事なお嬢様で親友があの程度の男に侮られているのだ。
「お誕生日の贈り物もなければお手紙のお返事も、季節の挨拶状もない」
「あら、御礼状は届くわよ。侍従の代筆だけど」
「お茶会も途中で帰るし、エスコートはそぶりも見せない」
「そうね」
「これ、お嬢様だから我慢できてるだけですよ」
「そうかもしれないわね」
「普通のご令嬢なら泣くか怒り狂ってますって」
「わたくしだって、心の中じゃ罵りまくってるかもしれなくてよ」
「だろうとは思いますけど、腹が立つんですよ!」
リアはテーブルをバシンと叩く。僅かにティーカップが揺れる。
「お嬢様はきちんと礼を失しないように婚約者としての義務を果たしてるのに、あの人何も知らないじゃないですか!」
シアや家族にとって、ナサリオ以上に不本意な婚約だ。それでも誕生日には必ず贈り物を選び、月に一度は近況を綴った手紙を書く。季節の挨拶も欠かさない。婚約者として当然の行いを、シアは3年間一度も怠らなかった。だが、その誠意がナサリオ自身から返ってきたことは一度もない。
「まぁ、初めから期待していなかったもの」
「お嬢様……」
シアは穏やかに微笑んだ。その笑みは学院で見せるものと何ら変わらない。だが、幼いころから彼女を見てきたリアには判る。これは諦めた人間の笑みだった。
「……リア」
「はい」
「わたくしね、解っているの」
シアは窓の外へ視線を向けた。月明かりが庭園を白く照らしている。
「この婚約はなくならない」
「……ですね」
「家のため、領地のため、そして国のため」
どれ一つとして、シア一人の意思で覆せるものではない。ならば。
「受け入れるしかないわ」
その言葉に悲壮感はなかった。覚悟だけがあった。
リアは少しだけ俯き、それからゆっくりと顔を上げる。
「……あの盆暗」
「ええ」
「結婚した後も浮気しまくりますよね」
「間違いなく」
「ですよねぇ」
リアは肩を竦めた。
「結婚したとしても誠実になるとは思えないわ」
「学院でこれですもんね、寧ろ悪化しますよね」
二人はごく自然に同じ結論へ辿り着く。それは絶望ではなく、現実的な予測であり、対処可能な事柄だった。
「だったら、それを前提に考えたほうが建設的ね」
シアが静かに言う。
「相手が変わることを期待するよりも、変わらない前提で動いたほうが現実的でしょう」
無駄な期待をせずに予測できる最低ラインで対応策を考えておく。リアはニヤリと笑った。
「流石お嬢様。そういうところ、大好きです」
「ありがとう、わたくしも貴女のそういうところ大好きよ」
「じゃあ、対策ですね」
ここ数か月、二人は時間を見つけては将来の夫の対処について相談を繰り返してきた。どうすればシアが幸せになれるのか。どうすればシガンダ公爵家が破綻せずに済むのか。そして、どうすればあのどうしようもない婚約者を制御できるのか。そのための答えは漸く形になりつつあった。
シアはリアを真っ直ぐに見つめる。覚悟を問うように、或いは迷いを振り切るかのように。
「……本当にいいのね、リア」
その声は未だに迷いを振り切れずにいた。
「勿論です」
即答だった。
「貴女の人生を利用することになるわ」
「お嬢様」
リアはくすりと笑う。
「今更ですよ。あたしの人生は疾っくにお嬢様のものです」
「リア……」
「昔、約束したじゃないですか」
──ずっと一緒にいよう。一生仲良しだよ。
まだ幼かったころ、庭園で交わした約束。公爵令嬢と男爵令嬢という身分の違いを理解する前の、子供同士の約束だった。だが、二人ともその約束を忘れたことはない。
「うちの父様も兄様も姉様も協力するって張り切ってます。姉様なんて代われとまで言いましたし」
リアの実家の男爵家は公爵家の寄子だ。正確にはもっと繋がりの深い配下だ。公爵家の暗部とは言わぬまでも諜報に携わる家なのだ。
「母様なんて、演技指導してやるって張り切りすぎなくらいですよ」
リアの母は市井の出だ。可憐な乙女から怪しげな老婆の占い師まで演じ分ける舞台女優だった。今でも変装して家の仕事を手伝っている。
「……男爵家は相変わらずね……」
泣き笑いの表情を浮かべるシアに、リアは胸を張って宣言する。
「あたし、お嬢様が幸せなら、それで幸せなんです」
「リア……」
「だから、作戦開始ですね」
リアは悪戯っぽく笑った。その笑顔にシアも漸く肩の力を抜いた。そして、親友の笑顔につられるように微笑む。
「ええ」
月明かりの差し込む部屋で、二人の少女は静かに頷き合う。エチェバルリア公爵令嬢フロレンシアとイリバルネ男爵令嬢マカリア。主従を超えた幼馴染で親友。
婚姻後の長い人生を誰かの都合ではなく、自分たちの意思で生き抜くために。
その夜。後にシガンダ公爵家を、そして王国の未来を少しだけ変えることになる小さな共謀が始まったのである。




