第二十八話 貴殿が落としたのは金の本か?
そこは、来夢たちが夢見ていた
“癒しの湖畔のスローライフ”とは程遠い姿だった。
湖の水は本来の青さを失い、
茶色と深緑がまざったような濁りで
底どころか、水面の揺らぎすら見えにくい。
近くの岸では、黒い藻の塊が
ぼたぼたと貼りつくように広がり、
踏めばねちゃっと足を取られそうだ。
「う、うわっ……く、臭っ……!」
ヒョドは羽で鼻をぱたぱた扇ぎつつ後ずさる。
岸の草むらは枯れた色にくすみ、
よく見ると小さな魔虫が
「ここは我らの天下ぞ」と言わんばかりに跳ね回っている。
流れ込む小さな川も濁流じみており、
水はとろりとして、緑色の膜が張っていた。
風が吹くと、
どこからか腐った木の匂いと土埃が舞い、
せっかくの景色を完全に台無しにしていた。
ドラゴは湖を見下ろし、
低い声でひと言。
「……ここは死んでいるな」
ヒョドはがっくり肩を落とす。
「主が湖畔に引っ越すって
毎日うきうきしてたのに……
なんでこんな絶望みたいな状態
なのであるか…!」
羽がしょぼんと垂れ、
ヒョドは濁った湖に向かって叫んだ。
「き、君たち!!
水というものはもっと透明で美しいはず!
どうしてこうなった!!?」
返ってきたのは、
ぶくり……と泡の割れる音だけだった。
怒ったヒョドは羽を大きく広げ、両目を閉じた。
「芽命浄化!!」
湖面を包んだ緑の光が、ふわりと波紋になって広がった。
触れたそばから濁りがほどけ、泥も毒も光の粒となって消えていく。
水底の石が見えるほど透明になり、
太陽の光がまっすぐ湖を貫いた。
風が吹くと、まるで鏡のように水面がゆらぎ、
森の影が金色にきらめく。
ヒョドは羽をたたみ、小さく頷いた。
「……うむ。これで良いのである」
ドラゴは静かに笑った。
湖畔を浄化し終え、
澄みきった水面をドヤ顔で見つめていたヒョドの足元で、ぴしゃり、と水が跳ねた。
静寂を破るように、湖の中心が盛り上がる。
──ズズズ……バシャァァァ!!
長い首。丸い瞳。
けれど妙に鋭い観察眼を持つ、
伝説級湖獣が姿を現した。
「……この湖を浄化せし者…貴殿であるな?」
ヒョド
「む。いかにも、我が輩でありますが」
ネッシーはヒョドの全身をしげしげと見つめる。
その目は、どこか人を見るというより、
価値を測るような雰囲気を帯びていた。
「ふむ……浄化の礼の前に、古の儀式を行う
必要がある。
先ほど貴殿は、この湖へ何かを落とした
であろう?」
ヒョド
「……我が輩がでありますかな?……」
ネッシーは目を細める。
「儂は見ていたぞ。
さて、落としたのは──どれだ?」
ネッシーは前に水中から三冊の本が現れた。
一冊目は、黄金に光り輝く本
表紙が金箔どころか光を放つ。
「黄金版・大賢者叡智録」
二冊目は、銀で装丁された、妙に重そうな本
「銀装版・秘匿魔導大書」
三冊目は、ボロい木表紙のメモ帳
ヒョドがいつも腰にぶら下げ、
落書きとレシピを書き散らしていたものだ。
ネッシーは怪訝そうにヒョドを見下ろした。
「貴殿、落としたのは……金の本か?
銀の本か?
それとも……この、木の本か?」
「それは我が輩のメモ帳!いつの間に落としていた
のだ!?その木の本は、我が輩のであるぞ!」
ネッシーの眉がぴくりと動く。
「ほう……本当に木の本でいいのか?」
ヒョド
「木の本である。何度聞かれても木の本である」
ネッシーはさらに目を細めた。
その目は疑っているというより試している。
「珍しいな……
黄金の本は、賢者のみが選ぶという伝承がある。
貴殿、賢者の匂いがするが……
それでも木の本か?」
ヒョド
「木の本である。
黄金の本など、使いづらすぎて
我が輩には不要である」
ネッシー
「銀の本は、魔力を増幅させる力を持つ。
欲しくはないのか?」
ヒョド
「欲しくないである。
やけに重そうな本であるが…重すぎる書物は
肩が凝るである」
ネッシーはついに言った。
「……疑いをかけたわけではないのだ。
ただ、貴殿の言葉を試したかったのだ。
正直であったな、魔物よ」
ヒョド
(魔物よって言われる筋合いはないである……)
ネッシーはふっと微笑んだ。
「湖を浄化した礼もあるゆえ──
すべて、持ってゆくがよい」
ヒョド
「す、すべて!?なぜである!?」
ネッシーは誇らしげに胸を張った。
「儀式は形だけだ。
実は儂、浄化してくれた者に
全部渡すのが昔からの慣わしなのだ」
ヒョド
「試す意味ッ!?」
ネッシー
「疑っていたわけではない。
……いや、半分は疑っていたかもしれぬが」
ヒョド
「やはり疑っていたであるな!?
もっと堂々と認めるである!!」
ネッシーはくつくつと笑った。
「よい、気に入ったぞ、小さき賢者よ。
これらの本、大切に扱え」
ヒョド
「い、いや、木の本だけでいいのである!」
ネッシー
「いやいや、持って言ってもらおう。御礼の印だ」
(本当にいらないのだが…こやつ、
譲らなさそうだ)
ヒョドは結局、三冊とも抱えてヨタヨタ歩き出した。
黄緑の羽毛をばさばささせながら。
「……木の本だけで良かったのである……」
とりあえずカバンに入れておいたヒョドだった。




