第三話
『灰色女』である私は、オールヴァン公爵邸にこそ住んでいるが、今は敷地内の離れの小さな家に暮らしている。
それは客人の目につかないよう、というオールヴァン公爵家の体面のためでもあり、『灰色女』に関わりたがらない使用人たちの負担を軽くするためでもある。
一日三回の食事はきちんと運ばれてくるし、私だって使用人と最低限の会話くらいはする。それでも、『灰色女』には何となく関わりたくない——というこの国の人間特有の感情はどこかしらにあって、私はいい加減そんな偏見に付き合いたくなくなり、住居と食事以外で家族や使用人と関わることはもうなくなっていた。
幸い、私へちくちく嫌味を言いに来ていたアリシアは王城住まいとなったため、これで私はのんびり暮らすことができる。少なくとも、私の嫁ぎ先が決まるまでは。
『灰色女』の老婆と出会い、屋敷に戻り、明朝のことだ。
私は、淡い緑で統一された自室のベッドで目覚めると、違和感を覚えた。
「……? 何かしら、これ」
ふんわりとした空気の流れのような、ごく軽い絹糸が漂っているようなものが、ぼんやりと私の視界にある。手を伸ばしてみると、それらは簡単に千切れたり、繋がったりする。
その『流れ』の先は、部屋の外まで続いている。光っているものもあれば、時折消えたり、明滅するものもある。
私へ朝食を届けに来た使用人は、離れの玄関先にも見えている絹糸のような『流れ』に、まったく気付いていないようだった。
朝食のトレイを受け取った私は、何食わぬ顔でリビングに戻り、足元にある『流れ』をつま先で弄んでみたが、何か変化があるようには思えなかった。
(昨日のお婆様がおっしゃっていたことかしら。でも、変なものが見えるようになっただけよね? この『流れ』が何なのか分かれば、ということ?)
私は、朝食のトレイで一際目立つ、エッグカップの上にある殻付きのゆで卵を回る小さな『流れ』があることに気付いた。
「卵にも流れが……? 待って、これは、お湯で茹でた鶏の卵、よね?」
鶏の卵を巡る『流れ』は、卵の中には繋がっていなかった。あくまで、卵の周囲をくるくる回っているだけだ。
その『流れ』を遮るように、私は人差し指を差し込んでみた。
私の指に『流れ』はぶつかる。
うっかりそのまま私は、こつんと卵の殻をつつく。
その瞬間、『流れ』は卵の殻へ繋がり、盛大に卵の殻という殻が弾け飛んだ。
「!?」
エッグカップから落ちたゆで卵は、つるりと綺麗に殻が剥けている。
「えっ……あ、便利? 便利ね?」
とぼけたことを言ってしまったが、私は確かにゆで卵の殻を剥くのが苦手だったから、これは助かる。
それはさておき、私は空中を漂う『流れ』や殻を弾き飛ばした『流れ』について、ちまちまと調べてみることにした。
どうせ、やることなんてないのだから、ちょうどいい暇つぶしだ。そう思って、離れ中の『流れ』に触れたり、向きを変えてみたり、他の何かに『流れ』をぶつけてみたり……。
その結果、とんでもないことが判明したのである。
「私の目に見える、この『流れ』は……自然のマナの流動を示しているのね」
自然界には、魔力の素となる生命力の具現『マナ』がそこいらから湧き出ている。岩石、泉水、大樹、様々なものからマナは生き物へと巡り、それを魔力という形に精製して魔法へと昇華する術を編み出したのが人間だ。
魔力を持つだけなら、人間以外の生き物もできる。ドラゴンやユニコーンといった魔法生物は例外なくきわめて強力な魔力を操り、この世の物理法則を無視した不可思議な生態を支えている。もちろん、魔法生物はどれも希少で、魔力源として魔法道具の原材料として高値で取引されるとも聞いたことがある。
問題は、人間はマナを直接扱うことはできない、ということだ。
人間は、マナをあくまで魔力という形に変換精製することで、魔法に活用できる。マナを取り込むことも、マナそのものを扱うことも、ましてや『流れ』を見ることさえできないはずだ。
そして、『流れ』を使ってゆで卵の殻を破ることも、ありえない——はずだった。
私はあれから、『流れ』を見るだけで操ることができるようになった。触れることなく、感知さえできているなら、その『流れ』を自在に操ることができる。
たとえば、離れの窓の外で庭師が花壇の花を芽吹かせる魔法を使っていたとき、私はそれを眺めながら、魔法の発動を阻止した。
私は周囲のマナの『流れ』を止めただけで庭師の魔法は不発となり、庭師は首を傾げていた。もう一度魔法を使おうとしたので、私はその『流れ』をより多く巡らせてみた。
すると、花壇はまるで草木の山のようになり、花が咲き乱れたのだ。
庭師はひどく驚いて、何が起きたかまったく分かっていなかった。その後、人を呼び、何度か魔法を使って試していたが、私が干渉しなかったのでいつもどおりに使えたことだろう。
とにかく、私はマナの『流れ』を操作することができる、ということが分かった。あの老婆が私をそうしたのは明らかで、もっとちゃんと話を聞いておけばよかったと思わなくもないが、後の祭りだ。
(同じ『灰色女』だから、これができるのだとお婆様は私へ伝えたかったのね。お婆様が生涯をかけて見つけたこの能力、無駄にはしないわ)
もし、他の誰かにこのことを知られれば、どうなるかなど想像するまでもない。
『灰色女』が奇妙なことをした。魔法を妨害した。
その話題一つで、私も他の『灰色女』たちも、迫害されるに決まっている。
魔力や魔法が人生を左右するこの国で、魔法を阻害する可能性を見せてしまえば、不倶戴天の敵のように扱われるだろう。あるいは、有無を言わさず処刑されるかもしれない。
絶対に、このことを誰かに知られるわけにはいかなかった。
(でも、何もせずにいられるほど、私は頭がよくもないし、恨みがないわけでもないの。私を嫌った人たちが、この能力で無様な思いをするところを見たい。そう思ってしまう)
我ながら、それは悪業極まりなく、やらなくてもいいことだと思わなくもない。
しかし、ふつふつと胸の底にある怒りや悲しみは、能力を得たことで激しく再燃しつつあった。




