第八話
王都郊外にあるシェプハー家の屋敷に着いたとき、すでに外は暗くなっていた。
それでも、真新しい二階建ての屋敷の威容ははっきりと見てとれた。屋敷の全体像は、上から見てちょうどCの文字の形をして、真ん中のカーブ部分にエントランスがある。遠く王都の姿は見えるが、近隣に人家はなく、馬の放牧地や草原に接していた。もしかすると、屋敷の端から端までの距離だけならオールヴァン公爵邸よりも広いかもしれない。
美しく塗られた漆喰の壁面に、彫刻入りの窓の木枠がいくつも並ぶ。夜の室内の明かりでほんのりと照らされ、玄関扉のウォールナッツの薄茶色の木目も真鍮の取手やベルも、訪れた人を歓迎するかのように綺麗に保たれていた。
「我が家はまだ使用人があまりいなくて、厨房のほうに人を割いているのです。申し訳ないが、公爵家のように世話係をつけるということはまだ」
「いえ、そのような気遣いは無用です。私も早くシェプハー家に慣れるよう努力します」
「そうか、ありがとう。もし必要なものがあれば、遠慮なく言ってください」
アイメル様は自分で扉を開け、私が先に入るよう促す。
アイメル様は知らないだろうが、その配慮は私はオールヴァン公爵家でもとっくの昔にされなくなっていた。
自分で扉を開け、自分でベッドメイクまでして、妹が大量に残した刺繍の課題を片付けて、本を読んで。そのくらいしかしてこなかった私は、うまくやっていけるだろうか。
使用人の並んでいない屋敷のエントランスは、やけに広々としていて、私にとっては新鮮味があった。
そう思っていたところ、屋敷のエントランスにある柱の影に、誰かがいた。
誰かしら、と私が声を上げる前に、アイメル様が腕を伸ばして不審者? の襟元を押さえつけた。
柱の影から出てきたのは、黒髪の少年だった。顔立ちから見るに、年頃は十一、二歳くらいだろうか。
それでも私より背が高く、少年はアイメル様に睨まれてしょんぼりしていた。
「何をしている」
「えーと……おかえり、兄さん」
「兄さん?」
言われてみれば、黒髪の少年はアイメル様によく似ていた。顔立ちはずいぶん幼いものの、成長すればきっと身長は兄と同じくらいに伸びそうだ。
アイメル様は気まずい表情の弟の背中を押して、私の前へと立たせる。
「失礼しました。自己紹介をしろ」
「はい! ニコです、シェプハー家次男の、えーと、趣味は」
「イタズラだな」
「失礼なのはどっちだよ! イタズラじゃない!」
「分かった、なら道路にタールを撒いて通行人を滑らせたのはイタズラじゃないんだな?」
「……あれは想定どおりにならなかっただけで、ちゃんと意図があって」
「それがイタズラだろう」
「違うってば!」
必死になってイタズラを否定するニコの姿は、少し可哀想にも思えてくる。
(オールヴァン公爵家ではイタズラなんて絶対に許されなかったけれど、妹の勉強や刺繍の課題を何かと理由をつけてやる羽目になったことはあったような……そのくらい、聖女になる妹が忙しいことは本当だったから、何とも思わなかったのよね)
妹が少女のころは課題を可愛らしく頼んできていたものだが、いつからか妹は私が代わりに課題をこなすことを当たり前と思うようになったのか、ただ押し付けられるようになっていた。
甘やかすことが悪い結果に繋がる。そんなことは当たり前のようでいて、実際に体験してみるまでは分からないものだから、しでかしたことのある私も年下のニコに対するアイメル様のお叱りを無理に止めることができない。
もっとも、アイメル様なら適切に対処する——と信じたい。
その証拠に、アイメル様はお叱りが終わればすぐに話を切り替えた。
「これは弟のニコです。手先が器用で色々とやらかしますが、このとおり体格もよく、来年には騎士見習いになる予定です」
「ニコ様、これからよろしくお願いいたします」
「様なんていらないよ! 兄さんがいないときは俺がこの家のことを任されているから、何でも頼ってね」
「はい、分かりました」
義理の弟となるニコは、屈託のない笑顔を向けてくる。
つい妹アリシアのことを思い出してしまうが、それは分不相応だろう。私はもう、彼女に復讐をしてしまったのだから、姉を名乗る資格はない。
すっかり断ち切らなければならない前の家族の情が、新しい家族にとっての重荷になってはならない。
それに、復讐はまだ終わっていない。
最後の一つ、その復讐の計画を完遂しなければならない。それは、私がこれから生きていく上で、絶対に必要だからだ。
アイメル様とニコは、幸いにも私の仄暗い心に気付いていなかった。
「母さんは寝ているのか?」
「うん、引っ越してきて少しは体調がよくなったみたいだけど」
「お義母様は、どこかお加減がよろしくないのですか?」
私が尋ねると、アイメル様は「まずい」と顔に出してしまっていた。
「申し訳ない! そのあたりのことは決してあなたの手をわずらわせないようにしますので、どうか……少し前まで色々とありまして、もうじき使用人を増やして体制を整えます。ちょうど叔父たちも出払っている時期で、それが叶わなかったものですから」
「分かりました。ご事情がおありなら、仕方ありませんもの」
なるほど、そういう意味か。
一応は元公爵家令嬢である私が、問題のある家に嫁ぐという風聞が広まってはあまりよろしくない。だが、結婚を相当急いでいたのだろう、準備が整う前に私を迎え入れてしまったため、アイメル様としては気まずいわけだ。
私としては、オールヴァン公爵家から連れ出してくれただけでも感謝しきりなので、その程度の問題でアイメル様を責めるなんて考えもしなかった。
(色々、というのは気になるけれど、人には人の事情がある。うん、あとでニコに話を聞いてみようかしら)
義母の体調不良なら、対処不可能な問題というわけではないはずだ。
あまり人付き合いが上手いほうではないが、私も義母と仲良くなれるよう努力しなくてはならない。
ところが、アイメル様はすっかりやるべきことを終えたとばかりに、回れ右をして開けっぱなしの玄関扉から出ていこうとしていた。
「じゃあニコ、夜番に出てくるから、あとは頼んだ」
「え!? 今日は家にいるんじゃないの!? 兄さんの花嫁さんが来た初日だよ!?」
「いや、だから、王城騎士として夜番が」
「それくらい代わってもらいなよ! 副団長なのに」
「だからこそだ。ニコ、家を守ってくれ」
「……しょうがないなぁ」
結婚初日から仕事へ出るアイメル様に、あらまあ、と思わなくもなかったものの、私はほっと一安心だった。
(まさか、出会って初日で初夜を迎えるなんてことにならなくてよかった……私にも猶予が与えられたと見るべきだわ)
かぶっていたスカーフを解き、私はアイメル様へと向き直る。
「そういうわけで、慌ただしくしますが」
「ええ、行ってらっしゃいませ、旦那様」
私はニコとともに、バツが悪そうながらも安堵した表情の夫を見送って、玄関扉の鍵をしっかりと閉めた。
アイメル様がいなくなった途端、ニコはやれやれとため息を吐いた。
「兄さんは本当にデリカシーがないから」
「ふふっ」
「姉さんは、あれでもいいの? 苦労するよ、きっと」
「でも、立派なお方ですもの」
「まあ、それは……うん、否定しないよ」
何だかんだで、ニコは素直な少年だった。
アイメル様が私をどう扱うかは、まだ分からない。
所詮、家同士の取り決めでの結婚だ。愛があるほうが珍しいし、家の今後を考えればアイメル様も『灰色女』と子を儲けたいとは思っていないかもしれない。
それでも、私は新しく帰る家を手に入れた。せめて、このチャンスをいい結果へと導くことができたなら、これ以上の幸せはないだろう。
ニコは気を利かせて、私が持ってきたトランク二つを手に、私の部屋を案内すると言って先導してくれた。
その案内では、シェプハー家の屋敷の一階はエントランスや食堂、談話室、厨房など生活の共同空間があり、二階に寝室や書斎を並べており、二階東側はアイメル様と私の部屋が、二階西側にはニコたち家族の部屋があるらしい。
とはいえ、屋敷自体は相当横に広い。プライバシーという点では、まったく心配する必要はなさそうだった。
「今日は夕食を食べたら、もう休んでいいからね。あとで食堂に来て。俺は引っ越しの後片付けをするけど、気にしなくていいよ。明日、ちゃんと説明するね」
「分かりました」
新しい部屋の鍵を渡され、ニコとは一旦扉の前で別れる。
他と同じく明るい色調の扉を開けば、作られて間もない、それでいて可愛らしい白の書棚やテーブル、ソファ、ベッドが並ぶ。
当然、書棚は空で、クローゼットもまだ何もない。ベッドもシーツと毛布、布団一式が畳まれてあり、これからベッドメイキングをしなくてはならないが、私は期待に胸を膨らませていた。
私はこれから、ここに住むのだ。
そう思うと、どんな作業も楽しくて仕方がなかった。




