カラスちゃんは僕だけの秘密
「……ねぇ、ほんとに、触れないの?」
カラスちゃんは、シャツ一枚――下は何も履いていない。
薄く透けた布地の向こうで、白い太ももがソファにくっきりと沈んでいる。
「ダメって言ったのは君じゃ――」
「うん、言った。でも……あんたが我慢できないなら、それもいいかなって……」
彼女の指先が、自分の太ももをなぞる。
無防備で、誘惑的で、そして何より――たちが悪い。
「……冗談、だろ?」
「冗談だったら、こんな格好しないよ」
髪が垂れて、胸の谷間に影が落ちる。
何もしてないのに、肌から甘い香りがする気がした。
カラスちゃんは目を伏せたまま、つぶやく。
「今だけでいい。……私、きっと朝になったら、また冷たくなるから」
「……どういう意味」
「ねぇ、もう……我慢しなくていいよ。私が望んでるって、分かってるでしょ?」
彼女の手が、そっと僕の膝の上に重なった。
細くて、でもしっかりとした指。
逃げられない――そう思った。
「触れて……キスして……ちゃんと、私のこと……めちゃくちゃにしてよ」
その声は、いつもの強気な彼女からは想像できないほど、震えていて。
僕はもう、理性を置き去りにしていた。
……この夜は、罪でできている。
けれど――
たしかに、幸福だった。
◇ ◇ ◇
汗ばむ空気。
エアコンはついているはずなのに、部屋の中は妙に熱を帯びていた。
僕のシャツを、カラスちゃんの指が、ゆっくりと――
まるで壊れ物に触れるように、滑らせていく。
「……やっぱり、やさしいね」
「どこが」
「だって……乱暴にしてもいいのに、あんたは……」
彼女の指が、僕の胸元をなぞる。
震えているのは、きっと彼女の手じゃない。
僕の心だ。
「好きにしていいって、言ったのに。……ねぇ、キスくらいしてよ」
言われなくても、もう限界だった。
唇が触れた瞬間、思考が溶けて、カラスちゃんの香りだけが僕の世界を満たした。
「んっ……ふ、ぁ……」
その吐息が、甘く、熱く、堕ちていく音にしか聞こえない。
細い首筋にキスを這わせるたび、彼女の身体が小さく震えた。
「そこ……だめ、や、感じちゃ……」
「声、出てるよ」
「ばか……あんたのせいでしょ……っ」
指先が、服のすそを這い、カラスちゃんの背中へと回る。
その滑らかな曲線に触れるたび、彼女はくすぐったそうに、でも嬉しそうに笑った。
「ねぇ、もっと……私のこと、見て」
「全部……あんたに、壊してほしいの」
耳元で囁かれたその言葉は、命令なんかじゃなかった。
――懇願だった。
誰にも許したことのない、自分の一番奥を、あずけようとする少女の。
「ねぇ……名前、呼んで。ちゃんと、私の名前で……」
「……カラス」
「もっと……やさしく、甘く……」
「カラス……」
「……ん、そう、いい声……そのまま、抱いて……」
夜は深まり、静寂が、ふたりの熱を包みこんでいった。
それは、心も身体も溶かすような夜。
朝が来ても、忘れられない夜。
……そしてきっと――
ふたりだけの、秘密の始まりだった。
「……好きにしてって、言ったよね」
カラスちゃんは、僕の上に跨がりながら、じっと目を見つめてくる。
肌と肌が触れ合っているのに、まるで見透かすような瞳。
支配するようでいて、どこか寂しげだった。
「ねぇ、あたしってさ……面倒くさい女だと思う?」
「……今さら聞く?」
「ふふっ、やっぱりそう思ってたんだ」
彼女は笑った。けれど、それは皮肉にも悲しみにも見えた。
「だからね……あたし、あんたにだけは捨てられたくないの」
「誰にも飼えなかった私を……あんたが飼ってくれるなら、それだけでいい」
言いながら、彼女は僕の手を取って、自分の胸元へと導いた。
熱がある。呼吸が早くなる。
それは欲望というより――
「ここで生きてる」って、証明したいみたいだった。
「ねぇ……抱いて。ちゃんと、“私だけのもの”にして」
「もう逃げられないくらい、ぐちゃぐちゃにして……っ」
その声に抗う理由なんて、どこにもなかった。
触れたところから、彼女は震え、熱をもって応える。
指先ひとつで、声が漏れる。
キスひとつで、全身が反応する。
「……こんなの、だめだって分かってるのに……」
「だめじゃない。俺も、同じ気持ちだから」
僕の言葉に、彼女の目がわずかに潤んだ。
そのまま重ねた唇から、やがて言葉は消え、甘い喘ぎ声だけが夜を染めていく。
シーツが乱れる音。
呼吸が重なる感触。
耳元でくぐもる「もっと…」という声。
まるで、檻の中で飼われた小さな猛獣が――
「愛されたい」と、必死に体を寄せてくるみたいに。
「お願い……まだ終わらせないで。もっと……あんたの中で溶けてたいの……っ」
何度も名前を呼ばれながら、何度も求められながら――
僕たちは夜を超えていった。
それは快楽の果てであり、
恋という名の、深い沈溺だった。
◇ ◇ ◇
静かな夜だった。
交わった体の熱が落ち着いて、ただ呼吸の音だけが部屋を包んでいた。
カラスちゃんは、僕の胸元に顔をうずめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「ねぇ……最初に、キスした日のこと……覚えてる?」
急にそんなことを言われて、僕は少しだけ目を閉じた。
あの日の空気は、たしかにまだ心に残っている。
◆ ◆ ◆
夏の終わり。
少しだけ湿った風が吹いて、夕暮れが街をオレンジに染めていた。
「……なんで、あたしなんかに優しくするの?」
不意に聞かれたその言葉は、少し怒ってるみたいで、少し泣きそうだった。
「“なんか”じゃない。君だからだよ」
僕の言葉に、彼女は目を見開いて、そして――少しだけ、顔をそらした。
「……バカ」
そう言ったあと、彼女はふいに、僕の胸に飛び込んできた。
腕の中で、彼女は震えていた。
強がりなカラスちゃんが、震えて、しがみついてきた。
「やめてよ……そんなふうに、やさしくしないで……」
「好きになっちゃうでしょ……」
涙を隠すように、僕の唇を奪ったのは、彼女の方だった。
◆ ◆ ◆
「……忘れるわけないだろ。君が、泣きながらキスしてきた日だ」
そう言うと、カラスちゃんは少しだけ照れたように笑った。
でもその目は、どこか遠くを見ていた。
「ほんとは、ずっと怖かったんだよ。あんたを好きになるのが……」
「だって……好きになったら、壊れちゃいそうで……」
「壊れてもいいよ。君の全部、受け止めるから」
言い終わるよりも早く、彼女はそっと僕の首に手を回し、優しく、けれど熱を込めて口づけた。
「じゃあ、壊してよ。あの日みたいに、泣かせて……震わせて……私のすべて、忘れられないくらいにして」
ふたりはもう、止まる理由を持たなかった。
夜はまた、熱を帯びていく。
でも今回は違う。
ただ求め合うのではなく――
過去の痛みも、傷も、涙もすべて包み込むようなキスで。
それはまるで、
“はじまり”と“今”を繋ぎなおすような、愛の行為だった。
◇ ◇ ◇
「ねぇ……ひとつだけ、あんたに言ってないことがあるの」
夜更け。
僕の腕の中でまどろむカラスちゃんが、ぽつりと呟いた。
「……秘密?」
「うん。……っていうか、たぶん……嫌われるかもしれないやつ」
ふざけた口調に聞こえるけど、彼女の目は冗談じゃなかった。
僕はただ黙って、続きを待った。
「昔ね、誰かとちゃんと付き合うっていうの、うまくできなかったの」
「最初は甘えて、ワガママ言って……相手が応えてくれたら、すぐ冷めちゃうの。なんでなのかは、自分でも分かんない」
彼女の声は、どこか震えていた。
「そうやって、何人も傷つけてきた。……“お前のこと、好きだったのに”って、怒鳴られたこともある」
「でも、それ聞いても、何も思えなかった。感情がバグってるんだと思う」
「でもね……」
僕の胸に頬をすり寄せながら、彼女は絞り出すように言った。
「……あんたのことは、冷めないんだよ」
その一言が、なによりも重く、優しかった。
「こんなの、はじめてで。怖くて、だから……『飼って』とか、言ってみたの」
「私の全部を見て、それでも側にいてくれるなら……」
「もう、ほんとの意味で――好きって言っても、いい?」
言葉のかわりに、僕はカラスちゃんの頬に触れ、ゆっくり唇を重ねた。
一度、二度。
彼女は目を閉じて、それを静かに受け止めた。
「……キミはもう、俺のものだよ」
「うん……。私も、あんたのもの。どこにも行かないから」
それは、恋人の約束でもなければ、契約でもない。
ただ、傷ついた魂が、互いを許し、結び直す夜だった。
◇ ◇ ◇
――それから、彼女はときどき思い出したように、過去のことを話すようになった。
好きになった人の話。
うまく笑えなかった日々の話。
そして、ひとつだけ、まだ話していない“最後の秘密”。
それが明かされる夜は、もうすぐそこまで来ていた。
◆ ◆ ◆
――夢の中だった。
けれど、それは確かに“あった”記憶だった。
◇ ◇ ◇
「……もういいって、言ってるじゃん」
乾いた声でそう言ったのは、まだ制服を着ていた頃のカラスちゃんだった。
薄暗い路地裏。
男の影がふたつ。
その中で、彼女はひとり、笑っていた。
「ねぇ、あたしのこと、好きなんでしょ?」
「だったらさ、好きなようにしていいよ。触っても、キスしても、飽きたら捨てても――」
男たちの笑い声。
不快な手つき。
それでも彼女は、虚ろな目で空を見ていた。
「どうせ誰も、ほんとのあたしなんか、飼えないんだから」
◆ ◆ ◆
――目が覚めたとき、隣には彼女がいた。
カラスちゃんは、僕のTシャツの裾をぎゅっと握っていた。
「……また、あの夢見てた」
「……ごめん。朝から、変な雰囲気で」
「いいんだよ」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ首を横に振った。
「ねぇ、聞いてほしい。……あれが、私が“飛べなくなった日”だったの」
「なにか大事なものを、自分で捨てたって思った。誰かに期待したら、壊される。だったら、最初から壊れてるって思われた方が、マシだって」
「でもね……あんたといると、ちょっとだけ、“飛べるかも”って思っちゃうんだよ」
僕はただ、彼女を抱きしめることしかできなかった。
「……なら、飛べばいい」
「一緒に、俺と」
その言葉に、カラスちゃんは少しだけ震えながら――
目を潤ませて、そっと唇を重ねてきた。
「……また好きになっちゃった。もう手遅れだね」
彼女の涙は、やさしい朝日といっしょに、僕の胸の中に落ちてきた。
◇ ◇ ◇
「……来たの、久しぶりだね」
彼女がぽつりと呟いたのは、小さな丘の上の公園だった。
夜風が静かに吹いていて、ベンチに座ったふたりの間を、蝉の残り音が通り過ぎていった。
「ここ、あたしの“箱庭”だったの」
「世界がうまくいかないとき、逃げ込んで……本の中の誰かになったつもりで、風を感じて……」
「現実から逃げる場所、だったんだね」
カラスちゃんはうなずいた。
そして、ゆっくりと、深く息を吐いた。
「ひとつだけ……あの時、誰にも言えなかったことがあるの」
「好きだった人がいた。……すごく好きで、好きになっちゃいけないって分かってたのに、どうしようもなく惹かれた人」
僕は何も言わなかった。ただ、その続きを待った。
「でもその人ね、私のこと、女として見てなかった。……“妹みたい”だって」
「それ聞いた瞬間、何かがバキって、音を立てて折れたの。笑ってごまかしたけど、心はぐしゃぐしゃで」
「それからあたし、“愛されるフリ”を覚えたの」
「愛されたくてじゃない。忘れたくて、誰でもよかったの。触れてくれるなら、なんでもよかった」
彼女の手が、震えていた。
「……この箱庭に連れてきたの、あんたが初めてなの」
「思い出にしてしまいたくなかった。これだけは、ちゃんとしたかった」
僕は、そっと彼女の手を取った。
「ありがとう。話してくれて」
「……全部知っても、好きだよ」
彼女は、目を見開いたまま、言葉を失っていた。
そして、ほんの一瞬だけ、笑った。
「……ズルいよ。そんなふうに言われたら、また飛びたくなっちゃうじゃん……」
僕は彼女の背中を抱き寄せ、そっと囁いた。
「いいよ。飛べばいい」
「ここが、キミの箱庭じゃない。ふたりの、秘密の場所にしよう」
「……名前、呼んで」
「カラス」
「もう一度」
「カラス――」
風が、やさしく髪を撫でていった。
彼女の瞳には、もう涙はなかった。
その夜、過去はすべて言葉になって、
ふたりの未来を、そっと照らし始めた。
そして物語は、“今”へと戻っていく。
◇ ◇ ◇
「ただいまー……って、あれ?」
リビングの照明は落ちたまま。
窓の外はまだ明るいのに、部屋の中はどこか夜みたいに静かだった。
ソファの上。
カラスちゃんは、膝を抱えて丸くなっていた。
寝ているわけじゃない。目を開けたまま、じっとこちらを見ていた。
「……どうしたの?」
「……別に」
その声はどこか遠く、指先ひとつ分の距離すら感じさせた。
僕はそっと彼女の隣に腰を下ろした。
けれど、彼女は体を預けてこなかった。
「ごはん作ろうか?」
「おなか空いてない」
「じゃあ、お風呂……」
「いい。今日は、何もしなくていい」
返ってくる言葉が、どれも終点みたいで。
なんでもない日常が、ガタガタと崩れていく音がした。
僕は彼女の手をそっと握った。
けれど、その手は冷たくて、すぐに離れてしまいそうだった。
「……ねぇ、未来って信じてる?」
突然の問いに、僕は答えられなかった。
「私はね……あんまり信じてないの。だって、信じたら壊れるし、期待したら消えるから」
「今が一番幸せって思った瞬間に、それが終わりの合図なんだよ」
「でも……」
「でも、君は今、ここにいる」
「……そうだね。今は、いる」
カラスちゃんは、かすかに笑った。
その笑みがどこか壊れそうで、思わず強く抱きしめたくなった。
「逃げないで」
「逃げてないよ。……ただ、ちょっとだけ怖いだけ」
その夜、僕たちは何も求めず、何も与えず、ただ隣にいた。
キスも、触れ合いもなかったけれど――
彼女の手を握っていた僕の手は、ずっと震えていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
目が覚めた時、違和感はすぐに喉元まで来ていた。
ベッドの片側が冷たい。
彼女が寝ていたはずの場所に、ぬくもりはなかった。
「……カラス?」
返事はなかった。
キッチンにも、洗面所にも、ソファの上にも――どこにも彼女はいなかった。
タンスの引き出しがひとつ、空いていた。
靴箱の中の黒いスニーカーが、消えていた。
スマホに通知はない。
LINEの履歴も、既読のまま止まっていた。
「……冗談だよな」
笑おうとしたけど、声が出なかった。
まるで喉を釘で打ちつけられたみたいに、息が詰まった。
机の上に、白い封筒があった。
僕の名前が、彼女のクセのある字で書かれていた。
震える手で開けると、短い手紙が入っていた。
【ねぇ、私いなくなっても、あんたなら大丈夫だよね?】
【本当はさ、もっとわがまま言いたかった。でも、最後まで可愛くいたかったんだ】
【ずるいって思う? ……私もそう思う】
【ありがとう。愛してくれて――ありがとう】
【でも、“愛してる”って、最後まで言えなかった】
文字が滲んだのは、僕のせいだった。
【愛してるよ】
「……バカ」
空っぽの部屋に向かって、そう呟いた。
壁の時計が、静かに進んでいく。
どこに行ったのかも、なぜ何も言わずに消えたのかも、分からなかった。
でも、確かに彼女はここにいた。
僕だけの秘密として――存在していた。
その事実だけが、今もこの部屋に残っていた。
◇ ◇ ◇
そして、数日後。
僕のスマホに、未登録の番号から着信があった。
画面には、「非通知」とだけ。
出るべきか、出ないべきか。
僕は、震える手で、その通話ボタンを押した。
「……もしもし」
非通知の電話に出た瞬間、
わずかに空気の流れる音が聞こえた。
息遣いのようで、風のようで――でも、懐かしかった。
「……カラス?」
返事はなかった。
代わりに、小さな笑い声が耳元で溶けた。
「やっぱ、あんたって声で分かるんだね」
一瞬、胸が軋んだ。
けれど、次の言葉は、それ以上に痛かった。
「……これが最後のわがままだから。今だけ、声を聞かせて」
「姿は見せないの?」
「うん。だって、あんた、引き止めちゃうでしょ」
「当たり前だろ」
「だから、ダメなの。……ちゃんと終わらせなきゃ」
僕は叫びたくなった。
どこにいるのか教えてくれ。
今すぐ迎えに行く。
何もかも捨てても、君を抱きしめる。
でも、言えなかった。
「ねぇ……ひとつだけ、最後に聞かせて」
「嘘をついてたのは、どっちだったんだろうね?」
僕は、答えられなかった。
愛してるって、言えなかった僕。
忘れていくって、嘘をついた彼女。
「……たぶん、ふたりともだよ」
「そっか。……やっぱり似た者同士なんだね」
その声が、少しだけ泣き笑いに聞こえた。
「……じゃあね」
「待って」
「またね、とは言わないよ。……言ったら、信じたくなるでしょ?」
通話が、静かに切れた。
画面に戻った時には、もう何も残っていなかった。
◇ ◇ ◇
僕はその日、街に出て、駅前のベンチに座っていた。
偶然を信じたかった。
どこかで、彼女がふらりと現れる奇跡を期待していた。
でも、人混みの中に、彼女の姿はなかった。
冷たい風が頬を撫でていった。
それが、最後のキスみたいに感じてしまったのは――
僕の心がまだ、彼女に触れていたからだ。
その日、僕の部屋に小さな宅配便が届いた。
差出人はなかった。
伝票の欄には、「送り主不明」とだけ印字されている。
中身は、白い箱。
開けるのが怖かった。
けれど、そっと蓋を開けた瞬間、ふわっと彼女の匂いがした。
中には、小さなものがいくつか入っていた。
一緒に撮ったプリクラの切れ端
彼女が初めて作ってくれた夕食のレシピのメモ
冬の日に貸してくれた、黒い手袋
そして、手紙
手紙は、もう彼女の声が聞こえないぶん、痛かった。
【この世界から、消えるわけじゃないよ】
【でも、“あんたの前にいる私”は、ここで終わりにする】
【愛されて、ほんとにうれしかった。けど、それに甘えてたら、きっと私はまた壊れるから】
【ひとりで生きるのが怖くなくなるまで、私はもう誰のものにもならないって決めたの】
【……だから、忘れてもいいよ。でも、もしほんの一瞬でも、寂しい夜があったら】
【この手紙、読んでくれたら、それでいい】
箱を抱えたまま、僕は静かに床に座り込んだ。
もう二度と彼女の声は聞けないかもしれない。
あのぬくもりも、あの口癖も、あの寝起きの顔も――
もう、全部。
だけど。
「……忘れられるわけないだろ」
涙は出なかった。
代わりに、時間だけが静かに流れていた。
愛した人は、もういない。
けれど、確かにここにいて、僕を変えてくれた。
それだけは、永遠に消えない。
◇ ◇ ◇
夜が来ても、もう彼女の声はしない。
でも、夢の中で名前を呼ぶと、どこかで風が揺れた気がした。
“またね”はなかった。
でも、それでよかったのかもしれない。
◆ ◆ ◆
彼女がいなくなってから、季節がひとつ変わった。
窓の外、銀杏の葉が静かに揺れている。
あの日と同じ、何もない部屋。
けれど、何もないはずのこの空間には、確かに彼女の影が残っていた。
『もう、大丈夫?』
そんな声が聞こえた気がして、振り向いてしまう。
もちろん、誰もいない。
テレビも、スマホも、音楽も――
何もない夜が、僕を包み込んでいく。
でも、不思議と寂しさはなかった。
代わりに、胸の奥に、小さなあたたかさが灯っていた。
あの子が残していった、小さな箱。
プリクラの切れ端、手袋、手紙。
そのすべてが、「愛された記憶」として今もここにある。
◇ ◇ ◇
ある日、何気なく訪れた駅のベンチ。
かつて彼女と一緒に座った場所。
何気なく座ったその隣の席に、白い封筒が置かれていた。
宛名はなかった。
けれど、開ける前から分かっていた。
――カラスちゃんからだ。
中には、たった一言だけ。
【ありがとう。最期まで、あたしを“誰か”にしてくれて】
風が吹いた。
その紙をさらっていくように、秋の空気が流れた。
僕は、手紙を拾わなかった。
読むことより、
そこに“彼女がいた”ことのほうが、大切だと思えたから。
◇ ◇ ◇
この世界のどこかで、彼女はまだ生きているのかもしれない。
もしかしたら、別の名前で、別の誰かの隣で、笑っているかもしれない。
でも、それでいい。
“カラスちゃん”は、僕だけのものだった。
僕だけが知っていた、秘密の名前。
もう逢えなくても。
もう声が聞けなくても。
もう、手が届かなくても。
それでも。
彼女が確かに「ここにいた」ということだけは、
これからもずっと、忘れない。
◇ ◇ ◇
――そして今日も、何もない部屋のソファに腰を下ろす。
ただひとつだけ、変わったことがある。
彼女が最後に言った言葉。
「“またね”は言わないよ」
……それでも、僕は心の中でそっと答える。
「――またね、カラスちゃん」