第五話
とてつもなく恐ろしい事が起こっている―――!
フィルネスの視線の先には金色の髪に青と赤の非対称の瞳を持つ少女…そして、その少女を優しい眼差しで見つめるラインハルトの微笑ましい姿。
「絶対にありえねぇだろう…」
絶世の美貌を湛えるフィルネスの銀の瞳には沈痛な色、背には哀愁漂う気配。
この物哀しさは何処からくるのかと自問自答し、何と言う事はない。可愛い娘を獰猛な野獣に取られてしまったことからくる父親の心情とでも言うのか。
その野獣が、今や従順な番犬の様にセラの傍らにいる。
「まぁそう気を落とすな。」
カオスの慰めも気休めにしかならない。
セラもよくあんな化け物と一緒にいて笑ってられるものだとフィルネスは眉間に皺を寄せる。
全ては父親譲りの血から来る遺伝的要素か?
兎に角あいつも変わり者だったと、フィルネスは倒すべき敵となってしまった師の姿を思い浮かべた。
今までカオスの指定席となっていたセラに最も近い場所…時にフィルネスが変わりを務めたセラの傍らに、今は付かず離れずラインハルトが占領している。
セラは今、川の中に身を顰めていた。
勿論衣服着用である。
半身を沈め、時に水に潜っては眠りの魔法を使い魚を仕留めようとするがどうも上手くいかない。
川縁に立ちセラを眺めるラインハルトはその合間にも、夕食になる大魚を剣で刺しあっさりと仕留めている。
(絶対にラインハルトに勝ってやるんだからっ)
無駄な闘争心をむき出しにし、水面を睨むセラの様子を黙って見守るラインハルトの口角は僅かに上を向いていた。
負けん気剥き出しの、何とも可愛らしい姿だろう。
ほんの少し前ならバカらしくて見ていられなかった光景に、今は周りが見えなくなる程惹き付けられている。
いったい何時からこうなってしまったのか。
ラインハルトは抗う事を辞め、己に芽生えた感情を素直に受け入れる事にした。
そうする事でセラが笑ってくれるのだ。
愛しいと言う思いを抱いてしまう相手の笑顔が、どれ程ラインハルトの心を温かく包み込んでくれるだろう。守りたい、手放したくはないと言う思いでいっぱいになる。
手放し目を離した瞬間に姿を消しはしないかと、片時も離れる事すら恐れてしまう。
自分は弱くなったのか?
セラを失うのではないかと言う恐れがラインハルトを怯ませるのだ。
考えるよりも先に身体が動く。
魔物と対峙し、セラに危険が迫るのではないかと意識が乱れる。それは己だけではなく、愛しいと思うセラすら危険に曝す行為だと言うのに、刹那的時間の流れの中ではどうしても失う事を恐れてしまう。
セラに何かある筈がない。共に行動してセラが重傷を負ったのはラインハルトの剣によってだけだ。
だとしたら…一番の危険人物は自分ではないか?
自分で考え説い、落ち込む。
「どうしたのラインハルト?」
川の中からセラが心配そうに声をかけて来た。
気にされる事が嬉しい―――そう感じる事でもう自分は駄目だと大きな手で顔を覆う。
「気にするな…」
「気にするなって、何だか顔が赤いよ。熱でも―――」
あるんじゃないのと水を歩きだしたセラにラインハルトは追い打ちをかけた。
「魚はどうした?」
その瞬間セラはぷくりと頬を膨らませ腰に手を当てる。
「煩いわねっ。そんな所に立たれて邪魔なのよ、あっちに行ってて!」
眉間に皺を寄せふいと顔を背けたセラに、ラインハルトははっとして何かを言いかけたが口を噤み項垂れる。
大きな背が小さくなり、切なさを漂わせていた。
結局その日の夜はラインハルトの仕留めた大魚だけが食卓に上った。
「塩焼きならわたしにだって作れたわよ。」
「手前にこの絶妙な塩加減を采配出来る訳がないだろうが。」
「そんな事無いわよね、ラインハルト。」
突然振られたラインハルトは焼き魚を口に運ぶ手を止める。
「―――ああそうだな。」
「ほら見なさい。」
「けっ…トチ狂った奴の意見なんか参考になるか。」
フィルネスの言葉にラインハルトが無言で剣に手をかける。
「ラインハルトっ」
セラに一瞥され、不満げにラインハルトは剣から手を離した。
その様子を微笑ましく見守っているカオスだったが、ラインハルトが再び剣を握り直すと同時にその気配に気付き、フィルネスは炎の球を掌にく作り出そうとしていた。
襲いかかる巨大な黒い影。
セラは振り向き様にそれを拘束するが、勢いの付いた影はセラに向かって真っ直ぐに飛び込んでくる。
フィルネスの放った炎の球がそれに直撃する。
『ギャン!』
犬の様な叫びを上げた漆黒の魔物は地面に叩きつけられたが瞬時に体勢を立て直した。
四本足に首から二本の手が生えた魔物だ。
カオスが首と胴を切り離すと首から生えた手を使ってそれがカオスに反撃に出て、離れた胴はセラを狙った。
ラインハルトはセラと魔物の間に立ち、その胴を一刀両断に切り裂き緑の体液が飛び散るが、セラの守りの魔法で肌を焼かれる事はない。
一方カオスは剣を構え裂けた魔物の口に剣を突き刺すと、口から皮が捲れるように頭部から皮が剥がれ落ち、肉と脳髄が剥き出しになる。やがて魔物はどろどろと液状に変化を遂げ溶け出すと、地面を焼いて消滅して行った。
「巨大化の傾向にあるな―――」
剣に付いた緑色の体液を払い、カオスが剣を鞘に収めながら呟く。
「奴の力が増してるからかもな。」
フィルネスが薄暗くなった空を仰ぐ。
日々襲い来る魔物。
こちらが血を流さない限り群れになって襲われる事はないが、日々明らかに巨大化し、獰猛性が増している。今見た魔物も初見で急所を付き止めるのに時間がかかった。
「これからは道中常に結界を張った方がいいかもしれねぇ。セラ、やれるか?」
消滅した魔物の痕を見下ろしながらセラは無言で頷いた。
アスギルとの決戦が近いのかも知れない―――
フィルネスは無言で立つセラの小さな背を見つめる。
何も知らない純粋な娘…巻き込んだ事に後悔はない。セラの持つ魔法力は恐らくアスギルすら超える物だろうし、この戦いには必要な力だ。
何よりも…セラと言う存在をアスギルが覚えてくれていたならいいのだが―――
死なせてしまうやもしれない命―――その時は一人で行かせるつもりはない。
アスギル、手前は今何を思っている―――?
フィルネスは再び暗い空を仰いだ。