第二話
「向こうで水の匂いがする、行って来い。」
フィルネスにそう言われ渡されたのは、水桶と持ち運び用の水袋。
桶には今夜の食事に使う水、袋には携帯用の飲み水を汲んで来いと言う意味だ。
向こうと適当な感じに言われるのはいつもの事だったので、セラは桶と水袋を受け取るとフィルネスが示した方角に進んで行く。
匂いがすると言うから近くだと思っていたが、かれこれ半時ほど歩く。方角が反れてしまったかも知れないと不安になって来た頃、耳に水音が聞こえ小さな滝が目前に広がった。
「すごい嗅覚―――」
半時ほどの距離が離れていると言うのに水の匂いを嗅ぎつけたフィルネスに感嘆する。
夏の夕刻、上空から飛び散る水飛沫が肌に心地良い。
桶と水袋に水を汲んでから滝壺に顔を近付け直接口で水を飲むと、上下する流れで鼻に水が入り咳き込む。
慌てて顔を上げたが鼻がつんとした。
「冷た―――い!」
心地よい冷たさに嬉しくなり叫ぶと、セラは勢いよく服を脱ぎ捨て滝壺に飛び込んだ。
滝壺は思ったよりも浅く、底に足を付けると胸から上が水面に出る。久し振りの水浴びにセラが夢中になっていると視線を感じ、水底に足を付いて振り返った。
「ラインハルト!」
漆黒の髪と瞳、褐色の肌。全身黒づくめのラインハルトが唖然としてそこに立っているのを認めると、セラは迎えに来てくれたのだと嬉しくなり、満面の笑みで底を蹴って水から上がった。
「遅いから迎えに来てくれたの?ちょっと夢中になって時間の事忘れてた。」
濡れた体のまま脱ぎ捨てた衣服を身に纏う。
その様子を立ちつくしたまま見守っていたラインハルトだったが、セラが全ての衣服を着こんだ頃には我を取り戻し、その瞳には怒りが込み上げていた。
桶を抱えたセラが見えなくなると、ラインハルトは手入れをしていた剣を鞘にしまい、ゆっくりとした動作で立ち上がりその後を追うように付いて行く。
ラインハルトの取らんとする行動を横目で見ながら、フィルネスは素知らぬふりで夕食の準備を進めた。
あの日―――ラインハルトがセラを剣で刺し瀕死の重傷を負わせてから、ラインハルトのセラに対する態度が明らかに変わっていた。
事件の前は心の中で気にする程度、しかもそれは苛付きに似た殺意を秘めた物だったが、今は明らかにセラを心配する様を態度で示している。それがラインハルト自身では全く意識出来ていない様で、フィルネスとカオスからすると面白い限りである。
あまりの変化に最初は付いていけなかったが、最近はセラが一人になると必ずラインハルトが後を追うと言う構図が出来上がっている。カオスとフィルネスは初めは心配したが、ラインハルトの行動に殺意が感じられないので今の所は黙認中だ。
セラを追って来たラインハルトが目にしたのは、一糸纏わぬ姿で水に飛び込むセラの姿だった。
女としての丸みを帯びて来た体つきに白い肌、細くしなやかな肢体。何の迷いもなく曝け出された裸体にラインハルトは唖然となった。
女の体など見飽きるほど目にして来たし、幼さを残す娘の裸体になど興味はない。それなのにラインハルトが感じたのは、既に大人の仲間入りを果たす年齢に達したセラが、何の恥じらいもなく自分に微笑んで近寄って来たという現実だ。裸の自分を恥じらいもせず、男の目の前で濡れた体に衣服を纏う姿はあまりにも無防備で危険極まりない。
ラインハルトはセラのその無邪気な行動に怒りを感じた。
ここにいるのが自分以外の誰かだったら―――!
そう思うと怒りに震える。
何故怒りの感情が湧くのか解らない。無防備過ぎるセラがどこの誰に裸を曝そうと、それによって何処かの男に組み敷かれようと自業自得だ。しかしもし万一にもそんな事態に陥ったなら、ラインハルトは間違いなくその男の首を撥ねるだろう。否、それだけでは怒りは収まらない。まず手始めにあらゆる苦痛を与え死よりも恐ろしい恐怖を味あわせてやっても気が済むまい。
そんな事を心に思いながらもラインハルトは、そんな馬鹿げた思いに駆られる自分自身にも腹が立っていた。
「どうしたのラインハルト?」
青と赤の瞳に見上げられ、ラインハルトは暫しその異質な瞳に見入る。
不吉なものと思っていた左右非対称の瞳だったのに、まるで吸い込まれそうになる程一点の曇りもなく純粋に澄んで見えた。
セラの肩に手を伸ばしラインハルトが触れると、疑いのない瞳が何だろうと見上げていた。
「お前は自覚がないのか?」
言うなり肩に伸ばした手に力を入れると、セラの小さな体は容易く地面に倒れた。
「痛い、何するのよ!」
倒されたセラは非難じみた声を上げるが、それでも疑いのない瞳でラインハルトを見上げたままだった。
その純真さにラインハルトはかっとなり、そのままセラの両肩を地面に押さえつけた。
「お前は自分が女だという認識がないのか?その歳になって男の前に裸体を曝すとは無知も甚だしい!」
押さえつけられた肩に体重をかけられ、セラは痛みに顔を歪めた。
「はなっ…離して」
「覚えておけ、そんな女に男が取る行動は一つだけだ―――」
言うなりラインハルトはセラの衣服の上から小さな胸を鷲掴みにした。
「やっ―――!?」
乱暴に胸を掴まれ痛みに引き攣りラインハルトを殴って抵抗を見せるが、その両手をラインハルトは容易く片手で捕えるとセラの頭上に持ち上げ拘束する。
「凌辱されるのが嫌なら易々と男に裸体を曝すな!」
湿った体に張り付いた衣服の隙間から手を入れると、何とも言えない吸いつく様な滑り心地の肌に触れる。
「ごめんなさいっ…ラインハルト止めてっ!」
声にならない擦れた叫びにラインハルトがはっとすると、組み敷かれたセラが全身を小刻みに震わせながら嗚咽を上げていた。
左右非対称の瞳からは大粒の涙が零れ落ち、見下ろすラインハルトを凝視している。
怒りに我を忘れる経験は今までにもあったが、それを後悔したのはこの時が初めてだった。
セラの力ない小さな手が拳を作りラインハルトの胸を叩く。
肉体的には痛みも何もない。それなのに幾度となく組み敷いた下から力なく胸を殴られ、その度に胸の奥がずきずきと痛み息苦しさを覚えた。
いったい何が起こっているのか―――
自分の起こした行動だと言うのに原因が解らない。
無防備で自覚のないセラに女としての自覚を持たせたかった。醜態をさらせばどうなるのか口で説明するよりも先に手が出てしまったのだ。
この娘がどうなろうと知った事ではなかった筈なのに、気が付けばいつも姿を追っている。そんな行動を起こす自分自身にも怒りが湧くが、それなのに止める事が出来ない。
手に入れたいとか馬鹿げた事を思う訳がある筈ないのに、側にいないと不安でむしゃくしゃする。兎に角訳の分からない感情がラインハルトの胸の中で渦巻くのだ。
そしてまた、ラインハルトは自分でも解らない奇怪な行動に出ていた。
涙を流すセラを何時の間にか胸に抱き『愛しい』と感じていたのだ。
愛しい?
何だそれは。
いったい何処の国の言葉だと顔を顰める。
自分自身の心に湧いた感情なのに、それが何なのか解らず認める事が出来ない。
セラの小さな体を胸に抱いていると、人を殺めた瞬間の歓喜とも違う喜びの様な物が湧きあがって来ていた。
だがそれもほんの一瞬の出来事。
嗚咽を上げ涙を流す吐息を掻き抱いた胸に感じると、たった今感じた歓喜とは打って変わって胸が痛むのだ。
泣かせているのが自分の取った行動が原因なのだと思うと、更に申し訳なさが募り胸が痛む。
申し訳ないとか愛おしいとか、そう言った初めての感情にラインハルトは年甲斐もなく躊躇していた。
何故セラを胸に抱いてしまったのかすらわからない。
愛しく思い、それに繋がる行動なのだと納得できないままだった。
「すまない―――」
絞り出すように出て来た言葉がこれだった。
謝罪の言葉。
それはラインハルトが永久に口にするとはないと誰もが思っていた言葉の一つだった。