朧花
言葉通り、遠くに確認できたのは大勢の人であった。
建物の影から覗き見るだけでも分かるほどの広大な敷地に並べられた人間の数々は、百をゆうに超えている。
そんなたくさんの人々が何故森の中にいるのかという疑問が湧くよりも先に、彼らの奇妙な格好の方が気になった。
白で統一された服には番号が割り振られ、まるでどこかの囚人のような。
「ん?」
もっとよく見てみようと目を凝らすと、見覚えのある色が目に付いた。
「なんでいるんだ」
赤を身に纏う姿こそ変わらないが、その顔にかつての威厳はない。
いかにも血色が悪く、今なら白のドレスを着た方が似合っていそうなほどだ。
「いやだ!俺ちゃんと更生するから、帰してくれ!」
「死んだら金はどうなんだよ!?死にかけのババアより俺のが有効活用出来んだろうが!」
「私の何が悪かったって言うの?騙したあいつに罪はないって?ふざけんな!」
こんな罵詈雑言の中にまみれていては、気が滅入るのも当然と言えば当然ではある。
いくら傍若無人とはいえ人の子だということだろう。
「牢獄、ってことか」
そして大声で騒ぎ続ける彼らのおかげというべきか、敷地の意図は軽くとはいえ理解することができた。
第一に抱いた印象は間違いではなかったらしい。
だが、解決したそばからまたすぐに新たな疑問が湧いた。
「じゃあ何で尚更こんなところに…?」
記憶が間違っていなければ、アルルカンという人間は明らかに上の立場の人間だった。
もちろん何もしていないわけではないが、だとしたら片割れの青い彼女がいないのは状況的にもおかしい。
と思いかけたものの、なんでも有り得るのがノストーレスという国であることを思い出した。
例え罪の隠蔽であったとしても大いにやってのけるだろう。
そうして全ての嫌疑をかぶせられたのが彼である、と考えればある程度の納得はいった。
「……だとしても僕は助けない」
しかし所詮は同じ穴の狢だ。
いくら被害者ぶろうとも、何度も振るわれた足の感覚ははっきりと残っており、到底消えるものではない。
被害を受けた立場として、しっかりと裁かれることを望むのは当然であると言えた。
「帰ろう、早く行かないと」
何故連れてこられたのかは知らないが、とんだ時間を食ってしまった。
罠ではなかったことがせめてもの救いか、と言い聞かせ、振り向く。
「離せぇっ!」
そして歩き出そうとした足を、ひとつの悲鳴が止めた。
「やめろ、死にたくない…!」
「助けて、お願い」
「まだ生きたいです、どうしたらいいですか」
その数はどんどん増えていく。
叫び声の全てがはっきりと聞き取れなくなった時、ようやく背は元いた場所へと戻された。
パニックに陥り、無数に蠢く頭たちは皆異口同音にまみれているのが分かる。
聞いているだけでも居心地が悪くなりそうなほどの命乞いに、思わず耳を塞いだ。
「──同じ台詞を聞いた時、君たちは自分の手を止めたのか?」
「え?」
だから、一字一句はっきりと聞こえた言葉には驚きを隠せなかった。
叫んでもいないのに、スピーカーのように拡張されて届く声は不気味だった。
「誰、だ」
罪人の彼らも同じく聞こえているようで、あれだけ騒がしかった場が一気に静まり返る。
もちろん突如聞こえた声への戸惑いもあっただろうが、問いに答えることができない罪悪感も確かにあったはずだ。
誰も彼もが苦々しい表情を浮かべたまま動かないのが、何よりの証拠である。
「こう言うだけで静かになるのは本当歴代の誰も変わらないな」
重苦しい雰囲気の中、愉悦に笑みをこぼす姿は外見からしても異常だった。
真っ白な髪は腰まで垂れ下がり、声の低さとのバランスがあまりにも悪い。
性別ですら理解に苦しむほどちぐはぐな出で立ちは大地に対しても変わらないようで、重力に逆らうようにふわりと宙に浮いた。
観衆の全ての視線を集めながら、またあの声で言う。
「安心するといい、何も死ぬわけじゃない」
放たれた言葉は罪人たちに安堵の色を与えた。
だが、誰も彼もがほうっとため息を吐く、なんて間は与えられなかった。
「ただ」
死ぬわけじゃない、と絶命のみを否定しただけの言葉の裏は、途方もないほどにどす黒い。
「我々の糧になり続けてもらうだけだ」
ぶわっ、と凪にそよいでいた森が一気にざわめく。
まるでサイレンのように、今から起こることがよくないものであることを懸命に知らせた。
無論、伝わることはない。
『星の子よ』
そんな木々の雑音に混じることもなくはっきりと聞こえたのは、やはり。
鼓膜に染み付いて離れない声の色は、高い天からゆっくりと地に注がれる。
だから聞いていたいとでも思うのか、全員が逃げることもせず身動きひとつすら取らなかった。
ふわりふわりと浮く身体でさえ、注目の的として群衆の目を惹き続けた。
『永遠に我らを守りたまえ』
そして、魅了されるがままに彼らの命は奪われた。
正確に言えば、失せたという方がふさわしいだろうか。
先程まで確かに人を成していたはずの形が、色とりどりの光に変わり消えていく様は何かのパフォーマンスのように綺麗だった。
残虐な光景であるはずが、もっと見ていたいと思わせる幻想さを孕み、脳裏に深く焼き付く。
「なん、だ、今の…」
それは遠目で見ていた野次馬も同じようで、到底信じられないといった顔をしていた。
数秒前まで大勢の人で埋め尽くされていたはずの場所には、今やたったひとりしかいない。
本当に彼らは存在していたのだろうか、なんて愚問に返す証拠もないほど、全てがまっさらだった。
「嫌だ」
状況がかつての少女を思い出させる。
確かにあったはずの命が塵も同然とばかりに掻き消えたあの瞬間は、トラウマと呼ぶべきものだろう。
ぞわりと恐怖が全身を撫で、肌が粟立つ。
何度も繰り返される映像は目を閉じても脳を襲い続けた。
「逃げなきゃ…」
拒否反応を示した身体は、足をふらつかせながらも何とか走ることはできたらしい。
全速力とは言えないスピードで必死に逃げる。
転ぶかもしれないなどといった不安すら、自らの幻覚の前では恐怖にもならない。
フラッシュバックする光景を振り払うようにとにかく走り続けた。
木々のざわめきや鳥たちの声には一切耳も貸さず、自らの息の音しか聞こえなくなるまでずっと。
「──嫌なのはこっちの台詞だ」
だから遠くの空で呟く声がいくら澄んでいようが、もう耳に届くことはない。
それだけ走った。文字通り、倒れるまで。