赤青黄緑
それは最悪の目覚めであった。
「ぅ……げほ、っ」
頭が焼き切れるような痛みに息つく間もなく、とんでもない臭さが鼻を刺す。
もはや呼吸をするのも精一杯な状況で、二度寝をしようなどとは到底思えないだろう。
せめて臭いの出処ぐらいは確認したいと、何度か咳き込んでようやく目を開け、身体を起こした。
「っ!?」
そして声にならない悲鳴を上げたと同時に、腐臭の原因を即座に理解した。
あまりの衝撃に、こらえきれず思い切り吐く。
「なんで、こんなところに…」
死体が。
最後の言葉は細すぎて声にもならなかった。
状況が全く飲み込めないと、頭を襲う鈍痛にも構わず視界を思いっきり振る。
すると地面についていたはずの左手がぐにゃりと沈み、何かがついたような感触を覚えた。
「ひ、っ」
その何かを見るや否や、今度はしっかりとした声が上げられた。
ぬちょりと湿り気があり、緑色に濁った液体がどろりと指を伝って落ちていく様は何よりも気色が悪い。
何より異臭がより強くなったのが不快さを煽る。
「無理だ」
状況はさっぱり理解できないが、今すぐ立ち去りたいと思うのははっきりと分かった。
まだおぼつかない足でふらふらと立ち上がると、より鮮明な死体の絵面が目に飛び込んでくる。
全ての感覚が嫌悪という言葉に塗り替えられていく。
「ごめんなさい…!」
かつて人であったものなのは理解しているが、生理的な拒否反応の前では抗う方が難しい。
土足で踏み荒らす許可を勝手に取り、ずぷりと底なし沼を進むような足の感覚に怯えながら進む。
ぷちっ、ぷちと軽い音が弾けたのはおそらく臭いに誘われてやってきた虫たちだろう。
聞かないように、聞かないように、と余計なところで神経を使ってしまったためか、ようやく地面の上に立った時には息がとてつもなく上がっていた。
「……何人いるんだ、これ」
精神も体力も使い果たし、やっとの思いで抜け出した死体の山はざっと見ただけでも十数の顔が見える。
おそらく全員がほぼ即死だろうと思うほど惨い有様に、また吐き気が込み上げる。
「っ、ケーザーを、探さないと」
だが他にやるべきことを思い出し、すんでのところで必死に我慢した。
もしも亡骸の中にいるのなら探すのは骨が折れるが、安否はしっかりと確認しないと気が済まない。
今なおすさまじい異臭を放つ彼らに向き合うと、少しでも誤魔化すため、息を止めた。
「ケーザー、いる!?」
あまり大きな声とは言えないが、懸命に叫ぶ。
今ここにいるなら、生きているなら返事をしてくれるはずだと信じて、何度も何度も名前を呼び続けた。
「ケーザー」
しかし、返事は風の音がするのみ。
どれだけ耳をすませても物音ひとつしない。
ケーザーらしき姿かたちも全く見えない。
「いない、のか」
その事実に落胆するかと思いきや、次に飛んだ言葉は少しの喜びを見せていた。
「よかった…」
リアクションは何も間違えてなどいない。
ケーザーがいない可能性が高いという事実はむしろ喜ぶべきものだ。
理由は死体の山々を見れば明らかである。
なぜなら、彼らは腐敗こそしていても白骨化が進んでいるものはひとつとしてない。
全員が即死でありながらほぼ同じ状態を保っているのは、死んだ時間に大差はないということ。
要は同日に死んだ者たちとしてまとめて処理されたのだろう。
「じゃあ生きてる可能性もあるってことだ」
つまり何らかの理由で間引かれた、もしくは遺体そのものが消失した可能性を除けば、ここにいないという事実がケーザーの生にも繋がる。
だからこそ喜んだのだ。
「それが分かっただけでもいい」
もちろん最悪の事態は懸念されるべきではあったが、生きていてほしいという感情には縋りたくなる。
安直とはいえ、絶望が容易く訪れないようにするには気休めに頼るのが最も正しい方法と言えた。
「だから僕も生きて帰らないと」
さらなる懸念を生まないためか、己を奮い立たせるように口にしたのは新たな糧。
しかしわざと大袈裟に言ったのではない。
今立っているのは街中ではなく、木々だけが広がる鬱蒼とした森林だ。
どこにどんな危険が潜んでいるか分からず、今ある生とて確定ではないからこそ、生きるという言葉を使ったのだ。
「とりあえず、食料と水は確保しないと」
出口が近くにあるかも分からない状況で、まず生存率を上げるのは何よりも正解である。
水はある程度代用できるが、食べ物がなければおのずと餓死してしまう。
かといって木の実や野草は食べられるものでも腹を壊す可能性があり、やはり火を通せるものが好ましい、と条件はかなり厳しめだった。
「川を探そう」
悩みに悩んで行き着いた結論は、水源を探すというものだった。
いるかどうかは不明だが、魚なら火を通せば食べられる。
もし生息していなくても、拾った木の実やらを洗えば体調を崩すリスクも減るだろう。
もちろん水はあまりある上、煮沸すれば飲める、というまさに一石二鳥である。
「さて…水の魔素が多い場所なら川も近くにあると思いたいけど」
そしてこのまま闇雲に森を進むのかと思いきや、さらにううむと頭を歩き悩ませ始めた。
原因は今呟いた言葉通り、魔素である。
魔力元素の略称であり、大気中に無数に存在する魔法の根源となるものを指す単語。
火や水や雷など大まかに七つに分類される性質を利用し、水を含む魔素が多い場所で水辺を探そう、という作戦だけは聞こえがいいが。
「そもそも見たことすらないんだよな」
大気中にと表される通り、魔素は基本的に目には見えない。
加えて魔道に心得のない人間が魔素の存在を視認するのは、余程の時間と才能がなければ難しいとされている。
だから悩んだのだろう。魔術に触れたことのない人間が、果たして百回試したとて見られる代物なのだろうかと。
「ぐだぐだ言ってても仕方ない、やろう」
とはいえこのまま無策で歩き続けるより試してみる価値はある。
迷いを振り払い、静かに目を閉じる。
途端に吹き渡る風の音に乗るのは、静かな調べ。
「…見えますように」
祈るように呟くと、ゆっくりとまぶたを開いた。
強くつぶりすぎていたせいか、ややぼやける視界を懸命に拭うと、そこには先程と何ら変わらない地面があるだけだった。
「まあ、当たり前か。最初から上手くいくわけな───」
諦めの言葉を吐きつつ顔を上げる。
だが、ため息は途中で止まった。
「誰だ…?」
深緑の中に混じる鮮やかな青色を、目は逃さなかった。
まさか人が通るとは思ってもみなかったが、誰であれ助けを求められるかもしれないと、最後の気力を振り絞って走る。
何度も足をもつれさせながら、青を懸命に追った。
「あの、すみません!」
しわがれた声では通らないらしく、叫んでも止まる気配すらない。
だが、全速力でも追いつかないのは違和感だった。
お互い森の中を走っているというのに、向こうだけが急斜面に減速をしない。
「っ……はぁ、待っ、て」
とはいえ走り出してしまった以上止まるわけにもいかず、不可解に思いながらも精一杯に足を動かし続けた。
結果森の奥の奥まで進み、いよいよおかしいぞと足を止めた時、青い影も同じように動きを止めた。
「なんで、止まるんだ」
てっきり置いてけぼりを食らうかと思っていたのに、何故か全く動かない。
散々人を走らせておきながら今更待っているわけでもあるまいし、と足を一歩進めてみる。
今度は動かなかった。
「目的地に着いたってことか、それとも罠か」
生い茂った葉たちを掻き分けて進むと、遠目に捉えていただけの色が徐々に徐々に近くなる。
そして近くに寄るや否や、青はくるんと向きを変えてにっこりと微笑んだ後。
『あとは頼みました』
「え?」
とてもよく通る声が聞こえたかと思いきや、かつての色は音もなく消えていった。
幻だったのか、という問いには聞いた声が否定をするが、現実だったとしても到底意味は分からない。
何をもってわざわざ獣道を進ませたのか、何故消えたのか、疑問はさらに深まるばかりだ。
「頼むって何を」
言いつつあたりを見てみると、明らかに自然のものではない鉛色が遠くにあった。
ツルらしき植物が巻きついて半分緑に侵食されているそれが、何かの建物らしい、と判断できたのはゆっくり近づいてみたからだ。
そしてさらに目を凝らした先で、さらに信じられない光景が飛び込んできた。
「なんだ…あの人たち」