至極色
「この辺でいいか?」
人混みを避けた、まだ薄暗い裏路地にふたりの姿はあった。
帰りまで送ってもらう必要もないので、少女もこくりと頷き、そして反動で今度は頭を深く下げた。
「はい、本当に何とお礼を言っていいか…って、あれ?」
ただ、最後の感謝は結局述べることすら叶わなかった。
ケーザーは別れの挨拶すらも言うことなく足早に去り、来た道とは逆のルートを全速力で走り抜けた。
その表情には疲労ではなく焦りが見られる。
「……無事でいろよ」
必死に走る理由は言うまでもない。
わらわらと群がる群衆を掻き分け、人の流れに逆らい、時には足を踏まれ、そうしてようやく戻ってきた。
「は、っ…?」
ただ、すぐに後悔した。
たった一人残してきた、残してきてしまった、罪悪感が息を奪い心臓に鉛を落とす。
眼前にあるのはそれほどまでの光景だった。
「其方、一体いつになったらもう一人の小猿の所在を吐く?」
まず目を奪ったのは真紅、そして赤。
豪華絢爛という様相をふんだんにまとっている割に、何処か粗暴さを感じるのは恐らく持ち主の振る舞いのせい。
せっかくのドレスをあられもなく振り乱し、道端に唾を吐き捨てるあたりがまさにそれだ。
どこまでも抜けない男としての性と、美麗な見た目のアンバランスさが気持ち悪かった。
「…っ、ぐ」
次いで捉えられた、いや捕らえられた姿は、まるで奴隷のような。
つい数分前に叩き切ったはずのそれが、今度は主を変えてしっかりと嵌められている。
何なら今度は首にも。
到底人間が受けていい扱いではなかった。
「知らぬ存ぜぬか、まあ良い。すぐにでも泣き喚けるようにしてやろう」
だから逃げようにも逃げられないまま、無慈悲な現実はさらに容赦なくやってくる。
「よもやこれに見覚えがないとは言うまい」
「っ!?」
これ、とまるで物のように扱われるのは、れっきとした人間だった。
つい数分前知り合ったばかりの少女にとてもよく似ている。
なんなら先程までの出来事が全て嘘だったかのように同じ──いや、正確には全く同じではない。
いたぶられたような傷跡は今までになかったものだ。
「いや、離してぇッ!」
それ以外は、足に嵌められた枷も怯えた声も、全て覚えがありすぎるくらいにある。
あまりの衝撃に、ひゅっと空の喉が鳴った。
「其方もこれくらい鳴いてくれればより良いのだが」
「何、してんだ…!」
理解も追いつかないままに反射で眼下から反論が飛ぶが、返ってきたのは途方もないほど冷たい目だった。
形容せずとも、ゴミを見る時の。
「此奴は無様に泣き言をほざくだけでなく、王の命に背いた。だから裁く、何か問題か?」
裁く、というのが法に則った言葉通りのものではないことぐらい誰にだって分かる。
少女の頬を流れる血が、その証明だ。
「ごめんなさい、私のせいで、ごめんなさい」
彼女もついに耐えられなくなったのだろう、泣くことを止め、全てを諦めたように下を向いた。
行き合ったはずの焦点は何をも見てはいない、あまりに酷すぎる事実は人の心をも簡単に壊す。
「ああ、安心すると良い。共に仲良く直ぐに送ってやる、これで寂しくはなかろう?」
「……かしこまりました、ではどうぞ」
だから、今話したのも少女の声ではない。
音は一オクターブ低かった。
「命乞いすらしないとはな。やはり詰まら、」
「周りをよくご覧になった上で、ですけどね」
だからこそよく通った。
決して張っている訳でもないのに、否が応でも聞こえてくるような威圧感があった。
「は、熊でも出たと言うつもりか」
無意識に従うのもそれ故だろう。
赤のドレスはふわりと翻る。
「…ほう?」
そして先で見たものは、たかが熊など比べ物にならないほど恐ろしいものだった。
「貴様ら、何を見ている」
貴様ら、と複数形で示したのは何もひとりやふたりではない。
数多ある対の目が赤を見ていた。
文字通りの軽蔑とともに。
「そうですね、僕が代わりに答えるとしたら」
そしてすぐそばの目もまた、例には漏れない。
「無能な指揮官、でしょうか」
「……無能、だと?」
無能、とオブラートにも包まれない物言いに、相手は当たり前のように目くじらを立てた。
怒るポイントがまるで見当違いなことに、当の本人だけが気づかないまま。
「この小猿を断罪する前に、妾に向かってそのような口の利き方をすればどうなるか、身をもって教えてやるとしようか」
頭に血が上り、服と同じくらい真っ赤になった頬を惜しげもなく晒しながら、振り下ろされる足は血と共に汚れた。
「ぅぐ、っ」
「貴様など所詮剣を振るしか脳のない、それも手足をもがれればただの肉塊と同じよ。無能はどちらか、たんと思い知れ」
足を縛られ、逃げることもままならない状況で振るわれる暴力はなんと無慈悲なことか。
地面ににじむ色はどんどん雑多になり、徐々に全てが黒く染まった。
「は…」
しかし。
殴られ叩かれ蹴られ、ありとあらゆる激痛が伴う状況にも関わらず、何故か被害者であるはずの人間は笑っていた。
まるで不気味だ。
体は既に限界だというのに、心からの笑みを浮かべられるなど。
狂っている以外に何があるというのだろう。
「そろそ、ろ……かな」
一言たりとも命乞いをすることなく、ただ唯一使える指先も動かすことなく。
それはまるで昨日の出来事にも似ていた。
戦地に赴くケーザーに別れを告げる同士たちをじっと見守っていた時のような。
「…そういうことかよ」
ただじっと待っていた数時間前。
つまり、あの時と理由が全く同じであるとするなら。
「…本当筋金入りのバカだろ、お前」
今も、ただ殴られているわけではない、ということだ。
「分かったよ、待ってろ」
ケーザーは誰に聞こえるでもない声で呟くと、いよいよ悲鳴を上げ始めた脚に鞭を打ってまた走り出した。
一体何をしようというのか、その答えは恐らくふたりにしか分からない。
「何も出来ない貴様の方が無能よ、思い知れ」
だが、今なお続く暴力はどんどんエスカレートし始めていた。
頭を蹴られ、心臓を殴られ、もはやいつ事切れてもおかしくない状況の中、何とか懸命に息をする音だけが生を教えた。
「動かなくなってきたな、つまらん」
とうとうぴくりとも動かなくなった体を見下すと、赤に赤を重ねたドレスがよりいっそう大きく振るわれた。
とどめだ、と言わんばかりの行動は、ヒールによって下される。
「おやめなさい、アルルカン」
かと思いきや、渾身の一撃は空振りに終わった。
予期せぬアクシデントというには惜しいほど透き通った響きに、群衆の誰もが何事かと声を振り返る。
「ミザ、一体どういうつもりだ貴様」
そして視線の先にいたのは、目を奪うほどの青だった。
ミザ、というのは彼女の名前だろう、呼ばれた途端くすくすと笑って言った。
「ええ、出過ぎた真似だとは重々承知の上ですけれど」
恭しく前置いて、ミザはゆっくりと歩く。
じれったいほどの速度だったはずだが、瞬きをした瞬間、その顔は赤──アルルカンのすぐそばにあった。
「この子が言ったように、周りをよくご覧になった方がよろしいかと」
息がかかるほど近くで悪戯っぽく耳打ちされては、突っぱねられるわけもないだろう。
それが魔性の女ならば尚更。
アルルカンも心底嫌そうに目だけを向けて応えた。
「は…?」
彼女は意味ありげに言ったものの、どうせ先程のように、なんの力もない愚民どもがこちらを見ているだけだ。
などと思っていた人間にとって、目の前の光景はまさに衝撃だった。
「ね?」
もちろん男へと向く白い目は変わらない。
だが、今度は目だけが向けられていたわけではない。
「……剣を振るしか脳のない連中が」
剣、ナイフ、果ては棒切れまで。
ありとあらゆる切っ先が、四方八方からアルルカンを捉えている。
全てにこもった殺意は、差し込む朝日を浴びてきらりと瞬いた。
「はあっ、はぁ……」
その輝きの中央にいる彼は、ぜえはあと肩で息をしながらも、しっかりと刃を向けていた。
「足を下ろしてください。指揮官」
敢えて呼ばわれた一人称には、ぎり、っと唇を噛み締める音だけが返事をした。
はい、なんて到底言えるはずもない。
かといってまんまと引き下がったら向こうの思う壷が故に癪だと、アルルカンは無言を貫くしかなかったのだ。
全ては己のプライドのため。
「皆様。大変申し訳ございません」
そんなちっぽけな面子を立てるかのように、代わりに下げられた頭は地に深くつけられた。
全くの部外者にも関わらず、何の罪を被って土下座をするのだろうかと、周囲の人間の目は不可解に歪められた。
「どういうつもりですか。ミザリー隊長」
「つもりを語るのならば、貴重な戦力を欠くのは得策ではないと判断したまでです。あなた方も、そしてこちらの指揮官も等しく、ね」
やんわりとした物言いではあったものの、言外に無用な争いはするなという主張が見て取れる。
「この期に及んで貴重な戦力、か……」
それもそのはず。
彼らは決して国を違える敵同士ではない。
むしろ今から志を同じくし、共に戦う立場にあるのだ。
例え雰囲気が最悪であろうとも。
「もちろんただで剣を納めろとは申しません。彼には然るべき処罰が下ることでしょうし、それで手打ちとはなりませんか?」
などと言うものの、どうせあの手この手で問題を揉み消すに決まっている、と言えるだけの人生経験は誰にも備わっていたはずだ。
場を収めるためだけの彼女の申し出には、やはり従えないと多くの野次が飛ぶ。
「処罰ってなんだ、具体的に言えよ」
「同じだけ殴らせてくれるとか?」
「土下座じゃ足りないことぐらいお偉いさん方はご存知だろうが!」
「はい、もちろん謝って済むことではございません」
目の前の状況に怒る者、ただ便乗してみる者、今までの冷遇を鬱憤として晴らす者、種類はどれも様々で多種多様。
「ですので、これは私のほんの少しの気持ちとして受け取っていただければ幸いです」
そんな彼らの雑多な怒号に応えるのは、今度は形ばかりの謝罪ではなかった。
「星命:回復」