捨身
話は少し遡る。
「よし」
風呂も入り、手紙も書き終え、場所も医務室へと移してあとは男の帰りを待つだけのはずだった。
しかし、息つく暇もなく目は次のことを追っていた。やや、細められながら。
「さて、どう逃げよう」
まるで物騒な単語は、前に自身で「考えもしなかった」と否定したもののはずだが、どうやら手のひらを返すほどに状況が変わったらしい。
当たり前である。
先ほど向けられた敵意の表情はまだ根強く心に残っており、到底忘れられるものではない。
北出身だと明かしただけでこの有様になるほど、今いる国との因縁は深いということだ。
そして自分がどこの座標で拾われたかは知らないが、今までの流れを鑑みて北国のどこかしらであったことは間違いない。
見るからに敵である存在を、殺さず生かしておく理由などひとつしかないだろう。
「どうせ大人しく待ってても殺される未来しかないんだ」
敵の情報は向こうからしても喉から手が出るほどほしいもののはずで、おそらく優しくない方法で徹底的に吐かせようとしてくる、というのも想像に難くない。
だからこそ逃げる以外の選択肢はないのだ。
生きて帰るという、自らに課した糧は今も忘れていない。
「拘束されてなくてよかった、と言いたいところだけど」
だが、問題は山積みだった。
本来なら、たとえ怪我を負っていたとて逃亡されないよう何らかの枷は付けられているべきだが、今に至るまで自身はとてつもなく自由である。
警備が甘いと取ることもできるだろうが、裏を返せば、拘束具がなくても構わないという解釈もできるのだ。
鉄壁の守りが故か、はたまたとてつもない量の監視でもいるのか。
いずれにせよ如何に難解を極めるかを悟らせるには十分だった。
「一応、部屋の外から気配はしない」
悩みに悩みつつも、数分前に扉越しにかけられた男の声を思い出す。
有難い忠告をもらった時、通りこそ悪かったが、全くの防音というわけではなかった。
今自身がいる部屋こそ違うものの、まさか一箇所のみ対策を怠ったなんてこともあるまい。
もちろん抜き足差し足忍び足で見張っている可能性は否定できないが。
無音であるという事実を肯定的に取れば、扉の向こうには誰もいないという証明にはなり得るだろう。
「でも、建物内を移動するのはリスクが高すぎる」
言葉通り、仮説通り見張りがいなかったとしても、勝手の知らない場所で出口を求めて彷徨うのはあまりにも危険だ。
ましてや今の格好はバスローブのみであり、うろうろしているだけでもかなり目立つ。
誰かにばったり出くわさないとも限らない状況で闇雲に行動するのは、得策ではないとはっきり言えた。
「外から脱出するしかなさそうだ」
結論が出たところで、手近にあった窓を眺めてみる。
鉄格子なんてものもなく、鍵こそかかってはいたもののすぐに開いた。
よく手入れされた花壇に、レンガ調の通路がよく映えてとても綺麗だ。
遠くに聞こえる声は訓練だろうか、一!二!と揃った雄叫びが耳に心地よかった。
ただの病人として来ていたならほうっと見とれることもできただろうが、生憎考えていたのは全く別のことだった。
「やっぱり一階か」
やっぱり、とまるで分かりきっていたかのように言ったのは、男の立場を知っていたからだ。
本人が認めた通り、男は外科的治療を担当する医師であり、急患が運ばれることも珍しくはないだろう。
動線の良い場所に作るのは当然といえば当然だった。
「なら尚更、手錠がないのは怖い」
逃亡に必要なものが全てそろっている、いわばチュートリアルにも等しいと言える環境で、敵国の人間をフリーにしておくほど男が馬鹿だとは思えない。
絶対に逃げられない何かがあるという想像は、もはや確信めいたものに変わっていた。
「試してみるか」
すぐそばにあった小瓶をひとつ外に投げてみる。
すると音もなく地面に落ち、ころころとこちらへ転がって止まったのが分かった。
爆発などのトラップの類はないようだ。
などと安堵するはずの顔は一気に落胆へと変わる。
「……これは逃げられなさそうだ」
理由は至ってシンプルだった。
瓶が地面に落ちた時、コンだのカンだの何かしらの音は確実に鳴るものだ。
雑音が聞こえないほど外野がうるさいわけでもない。
「結界魔法かな。いずれにしても外に道はないか」
そして何より、瓶が動いた向きが明らかにおかしかった。
落下した物体には重力と同時に慣性が働き、地面に到達した後は力の方向に転がるのが普通だ。
要は、投げたものがこちらに向かって来ることなどほぼ有り得ない。
真上から投げる、もしくはスナップを効かせていたのなら話は別だが、思いっきり普通に投げただけであるからこそ、跳ね返った瓶には懐疑的にならざるを得なかった。
「…なるほどね。縛り付けなくてもいい理由がわかる」
文字通り八方塞がりな状況だった。
緩やかな監禁とでも言うべきか、思考を巡らせれば巡らせるほど、現在の難攻不落な状況を知るだけで終わる。
かつて境遇が同じ人がいたかは知らないが、いたのならおそらく絶望したことだろう。
「よし、博打でもやるか」
ただ残念ながら、今回の人間はそう簡単に諦める性格ではなかった。
「室内でも目立たない格好をしていれば気づかれることはない、と信じて」
とは軽く言うものの、無論部屋には他に服などはない。
であれば一体どうやって、目立たない格好とやらに扮するつもりなのか。
博打と言うからには考えはあるのだ、確実ではない考えが。
そして他に方法を思いつけるような頭も時間ももうない。
不確定な己の作戦に運を委ねるしかないのだと、言い聞かせるように目は閉じられた。
「ふー…っ」
まぶたの裏で思い返されるのは、いつかの召集命令。
国に死ねと言われた仲間とともに、腹を括った覚悟のおかげか。
どうせ死ぬなら最期まで足掻く、成功率が低かろうが皆無だろうがやる、という結論に揺らぎは一切ない。
とっくに決まっていた心に従うように、ゆっくりと目を開けた瞬間、光が瞳の奥を照らした。
「やろう」
思い立ったが吉日とばかりに、次の行動は早かった。
今ある掛け布団を一律にまとめ、躊躇うことなく外へと次々放り投げていく。
もっと他にも使える用途はありそうなものだが、全て余すところなくひっぺがされ捨てられた。
無惨に散らばった白が、皮肉なほどレンガによく似合っている。
「これで誰かしら気づくかな」
無論、血迷ったわけではない。
窓からの景色は到底作り物には思えず、なおかつ遠くの人の声もはっきりと聞こえた。
ということは、外からこちらも同様にしっかりと見聞きができ、両者の間に物体はあれども阻害はされないのだろう。
それに気づいたからこそ、部屋の中で最も大きくひとりでも扱える布団をぶん投げる、という暴挙に出たのである。
「うん。よく聞こえる」
そして陽動作戦は大いに成功したらしい。
医務室からいきなり布団が無数に飛んできたら誰だって何事かと思うだろう、という思惑は見事に獲物をおびき出した。
事実をいち早く確認するべく、バタバタとやってきたのは音だけで四つ。
出処が足と仮定すると、総数は二か。
「……行ける」
人を相手に戦うのは初めてではない、学院では何度も訓練を重ねてきた。
実力はある、でなければ剣士長候補になど選ばれない、だから大丈夫、勝てる。
持ち得る全ての鼓舞を自分にかけ、戦意を極限まで一気に高めていく。
「何事だ!」
その時、ドアは開かれた。




