休息
「何故殺さなかった」
乱雑な足の音の中、こぼした言葉はとてもよく響いた。
主に心に。
「何故……!」
自ら口にした言葉をかき消すためか、腕を大きく振りかぶって、拳を手近な壁へと向ける。
そしてけたたましい音が鳴る、かと思いきや、両者の間には数ミリほどの隙間が残された。
震える手のひらに、一体どれだけの力が込められていたのか。
その行き場は今もないまま、男の体に逆流し続ける。
「は、っ」
だが気持ちを殺すにも限界はある。
思念の残党に耐えられず、がくっと折れた膝は心情を表しているかのようだった。
「今日はまたずいぶんやんちゃですね、先生」
そんな精神にさらに追い打ちをかけるようにやってきたのは、笑いを含んだ声。
明らかな挑発だと分かっていながらも、今の状態では怒りを抑えることなどできるはずもない。
男はたった今緩めた手のひらに同じだけの力を込めた。
「…からかいたいなら今はやめろ」
だが、振り絞るように出した声は相手にとってただの餌にしかならないらしい。
今度は含ませることもなく大いに笑う声が聞こえ、かっと頭に血が上った熱を振り払うように顔を向けると、快活な笑顔の男が見下しているのが分かった。
余計に熱く染まる頬はいよいよ止められない。
「むしろ今こそでしょう、あなたがこんなに弱っているところなんて滅多に見られない。絶好の機会では?」
声色通り、性格の悪すぎる台詞をさらりと言ってのけたかと思えば、頑なに握られた手のひらを優しく両の手で包んでくるものだから分からない。
何がしたいのか、意図など一切読み取れない行動に、やはり湧いてくるのは苛立ちだった。
「ねえ先生」
しかし、手を振りほどこうとした瞬間、さらに強い力によって抵抗はねじ伏せられた。
「先生の恩師、つまり私の前任であったライラ様は素晴らしい方だったそうですね」
そのままの状態で淡々と語られる言葉は、今の男の地雷を上から容赦なく踏みつけていく。
「戦場で無類の強さを発揮しつつも自身の功績に溺れることなく、無償で民たちのために治癒魔法を施して回る姿は賢者ではなく聖女だ、と賞賛する声もとても多かった、と聞いています」
聖女、という単語に男はぎりっと自身の唇を噛み締めた。
燻る感情の行き先は痛み以外の当てはなく、血がだらりとこぼれても構わずに、皮膚はちぎられ続けた。
そしてその状態を間近で見ているはずの人間は、いよいよ最後の爆弾を落とす。
「そして、北国はそんな彼女を放っておかなかった」
「黙れ」
散々火種を煽られて、膨れ上がった殺意は一言でついに起爆した。
とんでもない量の魔力が一気に練り上げられ、芸術作品のようにどす黒い渦を巻く。
そんな中でも冷えきった手のひらは離されず、繋がったまま。
「あの人の過去を容易く語るな」
完全に輝きを失った瞳は、もはや何の光をも映さない。
壊れきった理性ではブレーキの役割も果たせず、どんどん成長していく魔法に歯止めは効かない。
「あなたがもし賢者の道を志していたなら、私は席を渡さねばならなかったでしょうね」
強大な魔法を前に、いつ殺されてもおかしくないにも関わらず、当の本人はむしろ楽しそうに笑っていた。
死を前に浮かべる表情ではない。
「ですが、一応私も魔道士のはしくれなもので」
なぜなら彼は、自分が死なないと知っていた。
「これがハリボテなことぐらいは分かりますよ、先生」
言い放たれた容赦ない形容に、男は怒るのかと思えばふっと小さくため息を吐いた。
無論男は返事すらしていないが、肯定されているのが分かる。
言葉通りただの見掛け倒しであったということが。
「……さすがだ、と言っておく」
素直な褒め言葉を裏に隠したところで、全ての黒は存在すらしていなかったかのように跡形もなく消えた。
ようやく手が離されたのは、そのタイミングだった。
「っ、はぁ」
不安定な中魔力を使った反動か、男はいよいよ身体も保っていられずに倒れ込んだ。
重力のまま地面に激突する衝撃を思って目を瞑ったが、やってきたのは痛みではなかった。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫に見えるか」
「愚問でしたね。失礼しました」
腕は大きな身体をしっかりと抱き留め、温もりへと誘う。
おそらく男もいつもなら反発しただろうが、今は素直に享受することしかできなかった。
冷えた心が手放すには惜しい代物だった。
「ウル」
「はい」
呼ばわれた単語は名前だろう。
ウルは小さく返事をし、自身の腕に抱かれる男の顔を見た。
蒼白に染まり今にも事切れそうな中、紫の唇はゆっくり言葉を紡ぐ。
「何故こんな真似をした」
火に油を注ぎに注いで、あまつさえ全力で風を送るなど自殺行為にも程がある。
今回は腕を振るわれずに済んだが、男が本気でやろうと思えば少なくとも大怪我は免れなかっただろう。
「魔術より、辛い時に辛いと言えない天邪鬼の扱いの方がよく心得ているのですよ、私は」
「結果、間違えて自分に危害が及ぶ可能性を何故考えなかった?」
「おっしゃるような、利己的に他人を傷つけられる人間なら、人目を憚る場所で自身だけを痛めつける方法を選んだりしません」
しかし、ウルの頭には怪我のケの字も存在していなかったらしい。
実際間違ってはいなかったのだが、余程の信頼がなくては、丸腰で単身乗り込むなんて芸当はなし得ない。
そこに、ふたりの関係の深さはある。
「さて、話はこれくらいにして」
今は少し寝てください。
という言葉は、はっきりと男に疲れを自覚させた。
むしろ意識混濁の状態で話せていたことの方が奇跡にも近く、だからこそウルも早く会話を切り上げたのだろう。
とっとと安静にしていてもらわなければ、容態はどんどん悪くなる一方だ。
「……お前、大人、になっ……」
末尾を言うことも叶わず、懸命に現実を繋ぎ止めていた最後の糸も容赦なく断ち切れ、男は全ての力を手放した。
だらんと垂れる手足が死を思わせ、呼吸に上がる胸が生を教える。
それらをしっかりと確認すると、ウルはふたり分の体重を抱えて難なく立ち上がった。
「さて、先生の方は簡単に済むと想定していましたが」
淡々と廊下を歩き進め、医務室の扉を開けたところでウルは足を止めた。
おそらく脱ぎ捨てられたバスローブに加え、対が欠けた敷布団がごっそり並ぶ室内を見て、はあ、と大きなため息を吐く。
「やはり、北の子はそう容易くいかないようですね」
状況と口ぶりから合わせてかなり緊急の事態ではあるだろうが、師を横に寝かせる手つきはひどくゆっくりとしていた。
壊れたガラス細工を扱うように、全ての衝撃を和らげてベッドへと運ぶ。
「おやすみなさい。先生」
そう告げる声もまた、ひどく優しい色をしていたことは言うまでもない。




