弛緩剤
次の目覚めはそこまで悪くなかった。
「う……」
というのも、前回が悪すぎたせいではない。
まず最初に感じたのはふわふわとしている肌触りで、よほどのことがない限りこれを嫌う人間はいないだろう、と思うくらいには気持ちがいいものだった。
だからもっとふわふわを享受したいと手を伸ばして、伸ばしかけて、ふと気づく。
「……もりにいたよな、ぼく」
疑問が寝ぼけた頭をすぐに覚醒へと導いた。
何度思い出しても、記憶は確かに鬱蒼とした木々の中、もしくは幻想の街の中でぴったりと止まっている。
少なくともこんな上質なクッションがあるとは思えないからこそ、今の状況もかなり危険なのではと焦った。
それこそ獣に食べられる寸前で、耐え難いふわふわもただの毛皮なのではないかというような。
「は、っ」
死ぬわけにはいかないと、せめてもの抵抗に急所に左足をお見舞いしてやろうと跳び起きつつ目を開けた。
だが目の前にあったのは獰猛な牙などではなく、真っ白なタイルと、おそらく自分がたった今吹っ飛ばしたであろう布団だった。
「ずいぶん派手な起き方だなちんちくりん」
森の中とは似ても似つかぬ場所に状況を整理する暇もなく、全く聞き覚えのない声が背後から飛んだ。
反射で振り返ると、やはり顔にも覚えなどまるでない。
無精髭を生やし、くたびれた白衣に身を包んだ姿は、容易く忘れるほどインパクトが薄いものでもないだろう。
要は明らかな初対面といったところだ。
「誰ですか」
「誰に見える?」
「少なくとも怪しい人には見えません」
「何を見て判断したのかさっぱりわからんが」
本人の言う通り、見た目だけでいえばヤブ医者か怪しげな施設の研究員の二択である。
間違っても常人には思えないが、認める目は真っ直ぐに男を見ていた。
「無防備だった僕に何もしていないから、それだけじゃ理由になりませんか」
「ならないな、たった今から何かしでかすかもしれないぞ」
「わざわざそう言う時点で何もする気がないのが分かってよかったです、やっぱりいい人でした」
「減らず口が叩けるなら心配はないな、とっとと風呂行ってこい」
言い返さないあたりも男の人柄を思わせた。
もちろん風呂に関しても他意はないだろう。
言われるまで忘れていたが、死体にまみれた身体は今とんでもない異臭を放っているはずだ。
自覚するとさっさと洗いたい衝動に駆られるのは、やはり臭いの深刻さが故である。
「お風呂場もあるんですか?」
「生憎血にまみれた患者なんてしょっちゅうなんでな、備え付けだが文句は言うな」
「ありがとうございます、お借りします」
プライバシーのためか、風呂場は待合室と医務室を通った先のさらに奥の部屋にあるらしく、腐臭がつかないように足早に向かった。
そして出てきた白い扉を開けると、脱衣所だけでもとてつもなく広かった。
加えてドライヤーやスキンケア用品、果てはタオルやバスローブといった備品までしっかりと完備されており、備え付けというにはあまりにも豪華だった。
「早く入ろう」
だが物珍しさにあちこち見て回っている余裕はない。
躊躇なく服を脱ぎ捨てると、染み込んでいた血肉と共にべしゃりと気味の悪い音を立てた。
幸いゴミ箱もあったので指でつまんでとっとと葬り、いざ風呂場へ出陣。
「失礼します」
脱衣所の時点である程度想像がついてはいたが、浴槽も負けず劣らずの広さだった。
大人五人入っても余りあるほどの浴槽にはジャグジーまでついている。
先程医務室を通ってきたはずだが、ここは温泉施設ですかと聞きたくなるほどの設備である。
「まず身体を洗わないと」
飛び込みたいのはやまやまだが、エチケットとして身体を綺麗にしてからだとまずはシャワーの前に鎮座。
シャンプーでもこもこの泡を作り、頭皮をごしごしとこする。
ぼろぼろと落ちるのは皮脂か血かまたまた別の何かか、考えないようにいつも以上に目をぎゅっとつぶった。
「よし」
その後身体までしっかりと洗い、使ったバスタオルと床のタイルはものすごい色になった。
せっかくの綺麗なバスルームを汚してしまったことに若干の罪悪感が生まれたものの、今はそれより自分優先だ。
早く湯船に浸かりたい、という衝動は理性よりも先に身体を動かす。
「あったか……」
ちゃぷん、と左足から浸かると、温度は当然のように適温でとても心地よかった。
やっと安堵したようにため息を吐く。
臭いが取り除かれたことももちろんあるが、のんびり風呂に入るだけでもリラックス効果は絶大だ。
アドレナリンが出まくっていたせいで自覚していなかった疲れも、どっと押し寄せて来るのがわかる。
「にしても、一体どういう場所なんだろうか」
寝てしまわないように注意を別のところへ向けようと、じっくり見ることのできなかった風呂場をあらためて見渡す。
間違っても高級ホテルや旅館ではないだろうが、病院というには若干ちぐはぐだ。
通り抜けてきた部屋はどちらもひとつずつしかなく、病院にしては少ない上、診療所にしては風呂があまりにでかすぎる。
だから謎の場所という印象に変わりはないが、何もかも謎というわけでもなく奇妙な感じだ。
「考えるのはあとでいいか、とりあえず回復に専念しないと」
とはいえ危険な場所というわけでもないので、今はただ目の前の極楽に静かに身を委ねた。
心とともに筋肉を心行くまでほぐし、ぽけーっとタイルを眺める。
たったそれだけでも心身の疲れはかなり取れるもので、風呂を出る頃には空腹を感じられるほどには回復していた。
「ご飯も調達しないとな」
水気を取り、バスローブをありがたく使う。
勝手に着ていいかは知らないが、少なくともすっぽんぽんで人前に出るよりはマシだろう。
ドライヤーを使うのも、水浸しの頭でいるよりはいいはずだという同様の言い訳のためである。
「ほんと、至れり尽くせりって感じだ」
整った設備に心から感謝しつつ、風を浴びること数分。
ふわふわの頭も無事完成し、あとは来た道を戻るだけだと椅子をくるりと向ける。
「やっと終わったか」
「は!?」
さあ歩き出すぞといったタイミングでどこぞから声がし、文字通り縮み上がった。
ひとりだと思っていた空間からいきなり呼びかけられれば誰だって驚くものだ。
声の主が誰かは分かった上で、である。
「……なんだ、俺は化け物じゃないが」
「いや失礼しました、まさかいると思わなかったので」
「中でぶっ倒れられても困るし、逃げられても俺の責任問題だからな、見張るのは当然だ」
要は心配して来たのだろうが、その中に逃げる、と決して穏やかではない物言いを孕ませたのは何も脅し文句に使うためではないだろう。
男の性格を完全に理解したわけではないが、口が悪いだけで分かりやすく素直な人間だ。
向こうからすれば実際に逃亡される恐れがある状況なのだろう、というのは聞かずとも分かる。
だからこそ、次の言葉は冗談だと笑い飛ばすように放たれた。
「逃げるなんてこと考えもしませんでしたよ」
もちろん完全に笑っているわけではない、目の奥はやはり静かに男を見たまま。
「仮に逃げたとしても、ここは僕が元いた国とは違う場所なんでしょうから。すぐ捕まってしまうと思います」
そしてまたも本質を見抜いた言葉を言えば、男も今度ははぐらかせなかったのだろう、大いに眉をひそめた。
「何故そう思った?」
「主にお風呂の設備が充実しすぎていること、でしょうか」
興味が湧いたか、男はどかっと手近な椅子に腰掛け、見据えるような視線は止めずに聞く姿勢を取った。
脱衣所のどことなく無機質な雰囲気も相まって、試験でも受けているかのような状況である。
「聞こうか」
こうして唐突に始まった風呂場面接。
そもそもあるのかも分からない合否はいかに。