熱力学ヘリコプタ
セットしておいたアラームより3時間も早く目が覚めて、レースのカーテン越しに星空との狭間の空模様を覗いた。こういう起きるのが早すぎたときに、僕は眠いとか頭がぼんやりするとかよりも、何だか生きた心地がしなかった。喪失感というよりは解放感に近い。生きざるを得ない鎖によって人間は生きるしかなくなっている。そこから解き放たれて海上に顔を表出したような軽やかな心持ちがして、懐かしさすらある特別な時間が偶然にも今日の朝に当たっていた。
薄い掛布団をかぶっている箇所以外、肌に妙な涼しさが通っていた。寝室の涼しさは、外気が窓をつたって室温を冷ましているためであり、夏が終わらないといいつつ、日の出の時間は確かに遅れ、朝は明らかに涼しくなっていきているのだった。朝になってしまうよりも早く、重力を感じない体を起こして外へ出かける準備にとりかかった。
準備といっても大したことはない。散歩ていどなら上着を一着羽織ればいい。冷たいものは清潔な気がするとか、仮分数の答えはむしろピッタリな気がするとか、そんなことを考えていた。無機物と数字以外は、みんないつだって僕の見ていないところで何かをしているからこっちも通信を遮断してある。何も知らないまま死ぬにしては長く生き過ぎていた。早朝には、夜明け前には、静かで清潔な死に憧れさせるスモッグで充満していた。僕の打った波紋は大して広がらずにもっと大きいのに食われたかった。
外には人も車もいなくて、自販機の駆動音がうるさくなるくらいの有様だった。立駐の屋上に黒いヘリが着いて消失した。一切音がしない……つまり音エネルギーへの変換の行われない、エネルギー効率が極めて高い現象ということになるが、それにしては短時間のうちに変化した物体が多過ぎていた。どんな権力者だって結局は科学の進歩には付き合わされてしまうのだから、宇宙人と考えた方がいいのかもしれない。あるいは単に視認負荷にする技術を使ったか。それにしたってあの黒いヘリは、着陸するまでにも音がしていなかった。絶対にあのヘリには何かある。今すぐにあの立駐の屋上へ向かえば、たとえばヘリの熱放出によってそこはとんでもなく熱くなっているかもしれない。サイエンスの妄想は義務教育の知識だけでいくらでも膨らみ続けた。いつまでも抜け出せないまま急速に自転した空に朝日が昇り、日差しの眩しさでけっこう汗をかいていたことに気が付いていた。
汗が服の中、背中をじっとり伝っていくのとは裏腹に、自転して進む空は急速に変化し続けていた。目まぐるしく、もっとだ! もっともっと! そんなストリップ小屋か薬物常用者のホテルルームを思い出していた。いつだって急速であるべきだ。何事も急速であるべきだ。グロテスクな足音を鳴らして膝無しで駆け回った記憶ごと煙に巻いて働きづめの一日を終えていたい。急いで洗って沸かした風呂の栓を抜いた瞬間に二時間が経過していてほしい。僕は風呂場のタイルに仰向けで寝そべって、急速の環境を永久に貪り続けている。そんな妄想。僕の妄想はいつだって急速でありながら、ループか永遠の地続きのうちに閉じ込められていた。外からの介入を決して許さない封殺された領域に住まわっていた。朝は来ないようでもうとっくに来ていた。当然昼も夜も夕方も同じだ。だとしたらどこへ行こう。僕は人間である以上、時間帯によって行くべき場所を決められていた。特に僕は自分の意志が希薄だったから、こうも現在が量子的だとまだ条件式が更新できていない。僕のコードはなど大したことはない。一行一行、手打ちで条件を書きまくって、僕の動作を他人が見たときに人っぽくみえているだけに過ぎない。そろそろ燃料が切れそうだった。未だに直接の石炭燃料ではロケットで星を出て行けない。なんて不甲斐ない。キャンプでペグを打ちつけるゴムハンマーが僕の側頭部に振りかかる寸前にはもう食らっていた。これでやっと目が覚めて、アラームは鳴る三十分前、単にちょっとストレスを抱えているか、カフェイン結晶のとり過ぎかの現代病のサインが胸に灯っていた。僕は二度寝としゃれこんだ。