第2章 旅立ちと出会い(2-1)
日の出の開門とともにキージェはベルガメントの街を出た。
これからの自分の運命は予想もつかない。
だが、いてもたってもいられない情熱が彼の心をかき立てていた。
行かねばならない。
確かめなければならない。
恨んでいた父の本当の姿を。
生き別れた母の安否を。
そして、自分自身に受け継がれた呪いを解き、冒険者としての誇りを取り戻すのだ。
うまくいくかどうかは分からない。
だが、何もしないという選択肢はなかった。
――俺もやっぱり冒険者の端くれなんだな。
十年前の自分に何と言えばいいんだろうか。
今さら過去を振り向くことはない。
前を向いて歩けばいいんだ。
キージェは笑みを浮かべながらポケットを叩いて魔宝石を確かめた。
小さくても間違いなくその硬さを感じる。
その感触をよりどころとして、キージェは一歩一歩足を前に踏み出していた。
騎士団によって整備された街道は歩きやすく、そこから外れなければモンスターや山賊に襲われる危険性は低い。
ただ、まるっきりの丸腰では不安なので、道端に墜ちている手頃な石や杖代わりの棒を拾っておいた。
お金も武器もなく旅をするのは無謀だ。
次の街でうまく日雇い仕事を見つけられるだろうか。
不安を抱えながら野宿し、二日近く歩いて湖の畔を通りかかったときだった。
何か臭う。
腐肉と排泄物を鼻先に突きつけられたような刺激臭。
――この悪臭はゴブリンか?
そう思ったその瞬間、キージェは悲鳴を聞いた。
「誰か! 助けて!」
若い女の声だ。
駆けつけてみると、思った通り、女冒険者が湖岸で肉食ゴブリンに襲われていた。
股を広げてへたり込んだ女の太ももはむっちりとしているが足首は細い。
こぼれそうな胸を押さえながら魔物を見上げる表情は武器を振り回すようには見えないあどけなさが残り、若さの象徴とも言えるせっかくの艶深い金色のロングヘアが泥にまみれてしまっている。
「大丈夫か」
声をかけると、女を押さえつけようとしていたゴブリンがキージェに顔を向けた。
「オトコ、ジャマ。オンナ、グヘヘ」
本能のまま行動するゴブリンは動きが単純だが、Fランクでは相手にするのがやっかいな腕力がある。
――俺に何ができる?
武器は石と棒だけだ。
立ちすくむキージェに対し、女が手を伸ばす。
「ちょ、ちょ、ちょっと、あんた、何してんのよ。いいから早く助けなさいよ」
ポケットに詰めてあった石を取り出し、棒を剣のように構えると、青かったゴブリンの顔が赤くなる。
怒りの色だ。
「グヌヌ、ジャマ、コロス」
キージェは闘うつもりはなかった。
ゴブリンの足はそれほど速くないし、すぐにスタミナが切れる。
しかも、頭は鈍い。
こちらにゴブリンの注意を引きつけているうちに女が逃げてくれれば、キージェも反対方向に立ち去るつもりでいたのだ。
ところが、うまい具合にゴブリンがキージェに体を向けた途端、女は腰に差していた剣を抜いたのだった。
「おい、馬鹿、やめろ」
女は言うことを聞かず、ゴブリンの尻に向かって剣を突き出した。
刺された魔物は女に向かって放屁した。
「おえっ、クッサ!」
それはそうだ。
ゴブリンの屁は熊でも逃げ出す過激臭だ。
悪臭の直撃に悶絶した女はへたり込んだまま動けない。
激高してさらに顔を紅潮させたゴブリンは女に向き直ると、素手で剣を薙ぎ払って詰め寄る。
――だから、やめろと。
こうなってしまった以上、迷っている場合ではなかった。
キージェは石を頭上に振りかざしてゴブリンに突進すると、頭に向かって振り下ろした。
「ウガアァァァ」
怒り狂った魔物は腕を振り回してキージェを払いのける。
棒で膝裏を突くと、敵は体勢を崩して女の上に倒れ込んだ。
「ちょ、ウソ!」
かろうじて転げてかわした女が咳き込みながらキージェに剣を突き出した。
「なんてことするのよ! 危ないでしょ」
「仲間割れしてる場合じゃねえだろ」
キージェは起き上がろうとしているゴブリンの後頭部を石で殴りつけた。
血を流して頭を抱え込むものの、まだ魔物は起き上がろうとしている。
「あたしに任せて」
剣を握り直した女がゴブリンの腕に切りつける。
――うまい攻撃だ。
無防備に頭を押さえた状態で反撃はない。
腕力を封じれば勝ち目はある。
だが、女の剣は安物なのか、浅い傷をつけたものの、腕を無力にするほどのダメージは与えられなかったようだ。
鼻水と刺激臭を振りまきながらゴブリンが立ち上がり、怒りにまかせて腕を振り回す。
女の剣が弾き飛ばされ、キージェも足を滑らせ、尻餅をついてしまった。
――やばい、踏まれる。
転がって難を逃れたものの、湖に入ってしまい、全身ずぶ濡れだ。
足は着くが水を吸った服が重くて素早く起き上がれない。
向きを変えたゴブリンがキージェに向かってまっすぐ拳を突き出してくる。
やられる、と思うまもなく殴られ、水柱とともにキージェは湖に沈められていた。
上も下も分からないままキージェは水中でもがいていた。
背中に衝撃が加わる。
ゴブリンが背中を踏みつけたらしい。
だが、水が体を受け止めてくれたおかげで、衝撃が和らいでいた。
とはいうものの、顔を上げようとするとゴブリンに押さえつけられてしまう。
――い、息が苦しい。
浮力の作用で体が回転し、今度は胸を踏みつけられる。
――大男のガリマルならゴブリンをあっさり投げ飛ばしてただろうな。
しょせん俺は……。
ゴボゴボと泡を吐いてキージェは気を失いかけていた。
「しっかり!」
声とともにゴブリンの足が引っ込む。
どうやら女が体当たりをしたらしい。
水に足を取られて湖に倒れたゴブリンの隙を突いてキージェの体が引き起こされた。
一瞬二人の目が合う。
――助かったぜ。
彼女の目にも期待と信頼の色がはっきりと見えた。
「剣を貸せ!」
ひったくるように女の剣を握りしめたキージェはもがくゴブリンの背中に向かって全身の力を集中させた。
「食らえ!」
頭の付け根に剣を刺すと、背中に飛び乗ってゴブリンの体を水に沈める。
「おまえも乗れ」
女も体重をかけて二人で押さえ込むと、最初は顔を上げようと暴れていたゴブリンもしばらくすると力尽きておとなしくなっていった。
湖に緑色の血が広がり、金属臭が漂う。
失血か溺死か、その両方なのかは分からない。
とにかくゴブリンはもう二度と起き上がることはなかった。
それは全力を尽くした二人も同様だった。
水から這い上がった二人は岸辺にへたり込んだまま起き上がることができなかった。
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