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薔薇の元で、あなたと。

作者: 大高 紺
掲載日:2023/03/18

『婚約破棄は、したものの。』クリスティーナ側から見たお話です。判りにくい流れがあるかと思いますので、そちらもお読み頂けましたら幸いです。


「ティナは、どんな花がすきなのだ?」


 柔らかい日差しを浴びて、翠がかったアクアマリンの瞳をきらきらさせた殿下がわたくしを見上げる。

 ふわふわの銀髪に、女の子と見紛うばかりに繊細に整ったお顔。

 真直ぐに見つめられると、眩しくて。


「お花は、何でも好きです」


 つまらない答えしか返せない自分に、がっかりする。

 王妃様の離宮のお庭は、それこそ季節の花でいっぱいだ。その中から選んで、ひとつを口にするくらい、簡単なことなのに。

 ……大好きな薔薇だって、何種類も咲いているのに。


 この頃、殿下のお側にあがると、いつでもこうだった。

 しゃんと胸を張った、お可愛らしくも凛々しいお姿を前にすると、緊張して、胸が苦しくなって、言葉がうまく出てこなくなってしまう。


 わたくしの方が年上なのに。


「ふうん」


 殿下は、瞳をくるくるさせて、わたくしを上から下までご覧になった。

 それから、大きな笑顔になられた。


「わかった。ティナは、ばらがすきだろう。だって、ドレスのかざりが、みんなばらだ」


 得意そうにおっしゃって、わたくしのサッシュにいくつも留めつけられた、揃いの布で作った薔薇の飾りに、手を伸ばされた。

 取れないように、そうっと触れておられるのが判る。

 言い当てて下さったのが、こそばゆくて、でも嬉しくて、いよいよどきどきしてしまう。


「だったら、つぎは、母上のばらのお庭にいっしょに行こう。そのとき、いいものをあげる」


「いいもの、ですか?」


「そう。まだ、ないしょだ。たのしみにしていて!」


 にこにこした殿下が、きゅっとわたくしに抱き着いてきたので、びっくりしてしまう。

 殿下のプラチナの御髪が、わたくしの顎をくすぐる。


 殿下のお背は、ちょうどわたくしの肩くらい。ぐりぐりお顔を擦り付けていらっしゃるのが、失礼ながら、我が家の猫のアレックスが甘えてくる時にそっくりで、思わず、よしよしと撫でてしまう。

 ああいけない、と慌てて手を離したら、殿下がむうと不満そうに見上げてきて、もっと、とおねだりなさるので、笑ってしまった。

 

「ティナは、わらうとかわいいな!」


 わらってなくてもきれいだけどね!そうおっしゃった殿下は、次の瞬間、おやつを持ってやってきた侍女のドロシアに飛びついてクッキーを摘まみ食いして、ものすごく叱られていらしたけれど。


 わたくしは、胸がひっくり返りそうになってしまって、ふかふかの芝生に座り込んでしまった。


 わたくしがもうすぐ8歳。

 殿下は5歳になられたばかり、婚約者に決まってすぐの頃の思い出だ。


**


「クリスティーナ・アディントン侯爵令嬢。貴女との婚約は、いまこの時を持って破棄としたい」


 真直ぐにわたくしを見つめる殿下の瞳は、あの頃と同じ、透き通るような輝きで。


 ……いつかこの日が来るのだと覚悟はしていたけれど、いざとなると手が震えて、わたくしは密かに奥歯を噛み締めて衝撃をやり過ごした。


 判っていたことだ。

 今日、薔薇園のこの席に、愛くるしい金髪の令嬢がいらした時点で、わたくしは全てを悟ってしまった。


 心配を装ってわざわざご注進に来たご令嬢たち(お喋り雀)から散々聞かされて、このところ殿下がとある令嬢と非常に親しくしておられるのは知っていた。


 その令嬢の身分が低いことも、孤児たちに心を砕き親身に尽くす慈悲深い方であることも、鮮やかな金髪が美しく、いかにも殿方の庇護心をそそる、小柄で愛らしい方であることも。


 その青い瞳が、サファイアよりも輝いて殿下を見つめているのを確かめるまでもなく。


 わたくしのような髪も目も黒い可愛げのない年上の女よりも、ずっと殿下にふさわしい方なのは明らかに思えた。

 

 長年の妃教育は伊達ではない。内心を決して悟らせないための鎧として鍛え抜いた笑顔でもって、なんとしてもこの場は取り乱さずに切り抜けてみせる。


 そのくらい出来なくて、何の貴族令嬢。未来の王太子妃。

 いや、もうその立場ではなくなるのだけれど。


 ……などとわたくしが己を叱咤している間に。

 気付けば、キース様が殿下に狼藉を働いていた。


 キース様、いけません。そろそろ殿下のお首が捥げそうです。


 慌てて割って入ると、無念極まりないお顔のキース様だったが、とにかく、手は止めて下さった。本当に良かった。キース様のご実家、ノーラン公爵家は、代々、武勇で知られたお家柄。キース様はご嫡男なので騎士団には属しておられないが、もしも入団なさっていらしたら、最年少で師団長は確実と噂される美丈夫なのだ。


 殿下も鍛えておいでだけれど、そもそもの身体の作りが違いすぎる。あのまま揺すぶっていたら、早晩、殿下の頭部が大変なことになっていただろう。


 乱れたプラチナに、知らず手が伸びてしまう。

 もう、この御髪に触れることも叶わなくなってしまう。そう思ったら、我慢できなかった。


 殿下ご自身が雑に搔き上げた前髪を、そっと梳いて、流す。

 いつかと同じ手触りの、少しだけ癖のある、ふわりとしたプラチナ。


 こちらを見上げる殿下の瞳が、昨日までと何ひとつ変わらずに、わたくしへの優しさを湛えているように思えて、胸が突かれる。勘違いしそうになる。


 声が震えないようにするのが、精一杯だった。

 意地でも平静を保ちたかったのに、悔しい。声音が普段の自分のものではない。これ以上は乱したくない。絶対に。絶対に。


 アンジェリーナ嬢の前で、これ以上は絶対に。


「婚約破棄でございますね。……承知致しました。殿下の御心のままに」


 殿下の真実の愛の成就を、お幸せを、心からお祈りしよう。

 殿下のお幸せこそが、わたくしの望みなのだから。


 ……その後、どうやって馬車まで戻ってきたのか、記憶が無い。

 気付いたら薔薇園を辞し、広い王宮の庭園も抜け、我が家の馬車の前まで来ていたのだ。


 付き添ってきてくれた侍女や護衛たちは何も言わないが、みな心配し、気遣ってくれている気配に、改めて、不甲斐ない自分への羞恥がこみ上げてきた。


 ぐっとお腹の底に力を入れて、深呼吸をひとつ、する。


 大丈夫。

 わたくしは、大丈夫。

 殿下がお幸せならば、たとえこの後、縁談を探すのに苦労しても、というか貴族女性の大半が18、19歳で嫁ぐ以上、今更この年齢で初婚で曰くの無い嫁ぎ先など、ほぼ絶望が確定なのだが、さりとて何処かの後妻にも難しいだろう。何せ王太子から厭われて婚約破棄された女である。わたくし自身に、盛大に曰くが付いたことになる。

 

 大丈夫。

 殿下以外の殿方ならば、誰でも一緒。むしろ何なら一生独身でも構わない。

 適当な修道院を探すか、いや、死に物狂いで身に付けた高等教育があるのだから、フォルカー夫人のような教育家の道も選べるかもしれない。その時は、王室から推薦状のひとつくらい、お父様がもぎ取ってきてくださるに違いない。


 ほら、大丈夫。

 わたくしは、ちゃんと生きていける。


 そう思って、勇ましく馬車に乗り込もうとした時だ。


 誰かに呼ばれたような気がして、振り向いた。


「今、誰か、わたくしを呼ばなかった?」


「はい、確かに。確かめて参りますので、お嬢様はこちらでお待ちを」


 護衛のひとりが、急ぎ足で戻っていく。

 何となく見送っていると、顔見知りの庭師の爺やが駆けてくるのに気が付いた。薔薇園付きの、わたくしに良く花を伐ってくれる優しい爺やだ。

 護衛が、彼から何かを受け取っている。

 爺やがわたくしに向かって帽子を取ってお辞儀をして、また戻っていくのを背に、何となく困惑した風情の護衛が速足でわたくしの元に来て。

 

 一輪の薔薇を差し出した。


 煙るような淡いピンクの薔薇。

 

「殿下から、お嬢様へ、とのことでございます」


「……殿下から……?」


 受け取ったはよいものの。


 どう捉えたら良いのだろう。

 だって、一輪の薔薇は。……ピンクの、一輪の薔薇は。


「お嬢様」


 侍女のエイミーが、そっとわたくしの背を支えて、馬車の内へ誘導してくれる。

 そうでなければ、乗り込めなかっただろう。


 何故、別離を言い渡したこの時に、殿下はピンクの薔薇を下さるのだろう。

 あの日のことを覚えているのは、大切にしてきたのは、わたくしだけだったのだろうか。

 幼い心で意味を取り違えて思い込んで、今まで縋っていただけなのだろうか。


 堪えきれずに溢れてきてしまった涙は、屋敷に着くまで止まらなかった。


***


「ティナ、ちょっとだけ、目をとじて」


 あの日、殿下は悪戯っ子のお顔で、わたくしに笑いかけた。

 

 先日お約束したとおり、王妃様の薔薇園でのこと。

 噴水が見える東屋で、殿下とピクニックのようなランチを頂いた後だった。


 ドロシアが呆れて最後には隠してしまったくらい、その小さなお腹の何処にそれだけ入るのかとびっくりするくらい沢山のサンドイッチと、彩とりどりのプチフールを召しあがり、仕上げとばかりに冷ましたお茶を少しづつ飲んでいらした殿下が、にじにじとわたくしの隣まで寄っていらして、笑いかけてくる。


「目を閉じるのですか?……ええと、はい」


 そこはかとなく殿下の気配が不穏な気はしたが、殿下のお言葉に逆らうなど有り得ない。

 わたくしは、いわれるままに、目を閉じた。


 殿下がクスクス笑っておられる。

 何だろう、ドロシアが居るのだから、あまり凄い悪戯はされないと思うのだけれど、少々おっかない。


 ……んん、何かしら、殿下がくっついてきて、というか膝の上に乗り上げてきて、何かわたくしの胸元でなさっておられるようなのだが、御髪が顔に触れているのと、息遣いが当たって、く、擽ったい!!


「あ、ダメだよ、うごかないでティナ。さしたらたいへん」


 さす?

 さすって何??!


「…ん、できた。いいよ、目をあけて」


 殿下がわたくしの膝から降りて、ぴったり隣に寄り添ってお座りになる。

 

 今日のわたくしは、ピクニックランチに合わせて、装飾の殆ど無い、しっかりした生地のワンピースを着てきたのだけれど。


 左胸に、ローズクオーツで模られた薔薇が一輪、咲いていた。


「どうかなあ。ティナは、ばらが好きといっていたから」


 にこにこしながら、殿下がわたくしを見上げてくる。

 ……どうしよう、ええと、嬉しい、すごく嬉しい!


「ありがとうございます殿下。とてもきれいで、びっくりしました」


 なんでこんな言い方しかできないの、わたくし。

 とても嬉しいのに、同時に哀しくなってくる。

 ちゃんと殿下に気持ちをお伝えしたいのに。言葉が出てこなくて、もどかしくて苦しい。


 そんなわたくしなのに、殿下は笑顔を更に大きくして、ぎゅうと抱き着いてこられるのだ。


「よかった!ティナがよろこんでくれると、わたしはすごくうれしい。とてもにあっているとおもう。な、ドロもそうおもうよな!」


「はい、殿下。大好きなクリスティーナ様のためにと、あんなにお時間を掛けて探されただけのことはございます。大変お似合いです」


「それはティナにはないしょだといったのに!なんでいっちゃうんだよドロのばか!」


 頬を真っ赤にした殿下の突撃を、笑いながら受け止めたドロシアが、嬉しすぎて泣きそうなわたくしに、そっと耳打ちしてくれる。


「殿下は、一生懸命、薔薇の花言葉を調べて、そちらをお選びになったのでございますよ」


「ドロ、またなにかよけいなことをいってない?!」


「とんでもございません。ドロシアが、殿下のお気持ちに沿わないことなど致したことがあるでしょうか」


「けっこうあるぞ。ぜったいある」


 剥れた殿下は、ひとしきりドロシアをぺしぺし叩いていたが、そのうち、叩いたことをご自分から謝って、わたくしの隣にお戻りになられた。


 相変わらず、ぴったり寄り添っていらっしゃるので、高めの体温が伝わってくる。

 この温かさは男の子だからかしら、と思う。友人のご令嬢たちとは、こんなに近く寄り添うこともなかなか無いけれど、たいてい、もう少しひんやりしていると思うのだ。ドレスの生地のせいかもしれないけれど。


 ……いや、殿下は単におねむだったようだ。

 いつの間にか、わたくしに寄りかかったまま、うつらうつらしておられる。

 

「あれだけ召し上がられましたからでしょうか。クリスティーナ様、殿下が失礼を」


「良いのです。殿下がお風邪を召されないようでしたら、このまま、わたくしも一緒に少しお昼寝したいです」


「かしこまりました。では、ブランケットをお持ち致しましょう」


 手早くランチの後片づけをしたドロシアが、一礼と共にいったん下がっていくのを見送って、わたくしも目を閉じた。

 くったりとわたくしに凭れ掛かった殿下から、穏やかで規則正しい寝息が聞こえてくる。

 鳥たちの囀りと暖かな日差しが、わたくしにも緩やかに眠気を連れてくる。


 帰ったら、ピンクの薔薇の花言葉を調べよう。

 そして、殿下に何かお返しをお贈りしよう。


 がんばって、探さなくちゃ。

 殿下のお優しいお気持ちが、どんなに嬉しかったか、お伝えできるような、何か。


 身も心もぽかぽかして、幸せだった。


 やがて陽が陰ってきて、ドロシアが優しく起こしてくれるまで、わたくしは、殿下と寄り添って至福の時間を過ごしたのだった。


****


 ウォルナット材に天鵞絨を張った、小さなピンクッションのような額の中に、ローズクオーツの薔薇。


 殿下からの、一番最初のプレゼントだ。


 幼かったあの日に頂いてから、随分と長いこと愛用していたのだが、流石に20歳も過ぎた今となっては、可愛らしすぎて使いどころが難しい。かといって、他の出番のなくなったアクセサリーたちと一緒くたに仕舞い込んでしまうのは忍びなくて、専用の額を誂えて、ナイトテーブルに置いている。


 その額の前に、殿下からと言って渡された、あの薔薇を活けた。


 きらきらと精緻なカットの入った切子細工の一輪挿しは、殿下が親しくしておられる異国渡りの商人から入手なさったものだ。まだ我が国にはあまり入ってきておらず、貴重なものと聞いている。

 

 殿下からの贈り物はこれだけではない。

 折々にドレスや宝飾品を。他にも、わたくしが好みそうだと仰っては、繊細な装飾の施された鏡や、異国渡りの風変わりな香水瓶や彫刻、凝った装飾写本や細密画、などなど。

 他愛無いものからびっくりするほど貴重なものまで、ほんとうにたくさん殿下から贈って頂いた。


 婚約破棄された身としては、すべて王家にお返ししなくてはならないだろう。

 

「……そうだわ、このネックレスも」


 殿下の瞳の色と同じ、翠がかったアクアマリンが揺れるネックレス。

 わたくしの18歳の誕生日に、成人の記念にと殿下が手ずから掛けて下さった、わたくしの宝物なのだけれど。


 もう、わたくしには、これを身に付ける資格が無い。


 情けなくもまた涙がこみ上げてくる気配に、わたくしは素早く薔薇の前を離れ、呼び鈴を鳴らした。

 すぐさま、エイミーがやってくる。

 彼女の手を借りて、まだ茶会のときのままだったドレスを部屋着に替え、ネックレスも外してもらう。


 いつものように宝石箱にしまおうとしたエイミーを止めて、我が家の出入りの宝石商に、クリーニングを頼むように言いつける。


「石が緩んでいたり、留め具が甘くなっていないかも確認させてね。きちんと綺麗にしないと、お返しするにも失礼だから」


「お返し……ですか?」


 怪訝そうなエイミーに、わたくしは微笑みかけた。


「ええ、殿下からお預かりしていたものなのだから、きちんと綺麗にしなくてはならないでしょう?」


「…これはお嬢様のお大切なものではないですか。それなのに」


「ええ、そうね、とても大切な宝物だったわ。だからこそ、もうわたくしの手許にあってはならないの」


 エイミーは、あの場で側に控えていたのだから、わたくしの言っている意味が判らない筈はない。

 これからは、殿下のお色を身に付けるのは、アンジェリーナ嬢なのだ。

 何とも言えない表情でネックレスを持って、エイミーは部屋を出て行った。


 大きくひとつ、息を吐く。

 あの茶会からずっと淀んでいた気持ちは、何とかドレスと一緒に脱ぎ捨ててしまえたようだ。

 心が緩み、座り込んでしまいそうだったけれど、そうしたらきっと、めそめそしてしまう。それは嫌だった。このまま、えいやと片づけを始めてしまえば、きっともっと気が紛れる。


 ……問題は、いまこの時まで、ほんの手許のものくらいしか自分で片付けたことが無い、ということなのだけれど。だが、ドロシアは伯爵令嬢だが10歳になるならずで殿下のお側に上がったというし、エイミーをはじめ、我が家の侍女も大体が貴族の出である。

 わたくしにだって、彼女たちのようになれない筈はない。

 職業婦人への第一歩として、まずは身辺整理である。


 とはいえ、破損してしまっては元も子もなく。

 殆どのものに手を出せず、結局わたくしに出来たことと言えば、いくつかの装飾写本を書架から抜いて書物机に並べたことと、軸が美しい貝細工で出来たペンなどの文具を纏めたことくらい。


 およそ役立たずである。


 溜息を吐いていたら、足元に暖かな毛皮が擦り寄ってきた。

 この子は、普段は素っ気ないのだが、わたくしが気落ちしていると必ずこうして寄って来る。先代のアレックスもそうだった。猫が飼い主の気持ちを察する生き物というのは本当だ。


 マックスは、掠れた短い鳴き声を上げ、抱っこを催促するように伸びあがってきた。

 

「わたくし、何にも出来ないわね」


 猫に愚痴る。

 急かされるままに抱き上げると、ゴロゴロと喉を鳴らす。白銀のふかふかの毛並みに、心が和む。

 ご満悦のマックスを膝に乗せ、撫でながら、出してしまった写本をぱらぱら眺めていた時だ。


「クリスティーナ。居るのだろう」


 普段ならまだ王宮に詰めている筈の父が、わたくしの部屋の扉を叩いた。マックスがぴくりと尻尾を振って、膝から飛び降りる。


「お帰りなさいませ。こんなにお早いなんて、どうなさったのですか」


 …訊くまでも無い。殿下からお話があったに違いない。

 扉を開けたら、案の定。母も一緒だった。

 間違いなく茶会でのことを問いただされる流れである。背中がそそけ立つのが情けない。

 

「そんな憂鬱そうな顔をするものじゃない。少し話がしたいのだが……随分と引っ張り出したね」


 書物机の散らかりように目を瞠りながら、両親がわたくしの部屋に入ってくる。


「あらまあ、殿下から頂いた御本ばかり。何をこんなに広げているの?」


「お返しするために出しました。傷んでいないか、確認しなくてはと思いまして」


 わたくしの答えに、両親は顔を見合わせた。


「クリスティーナは、お返しするべきだと考えているのかしら?」

 

 母の問いかけは、不思議そうな響きだった。

 わたくしは、きっぱり頷いた。


「はい。そうしなくてはならないと思っております。……既にお聞き及びと思いますが、今日、殿下から婚約破棄を申し付けられました。役立たずな娘で、ほんとうに申し訳ございません」


 殿下とは政略で結ばれた婚約だった。わたくしにとって、どうであろうともだ。だから、殿下のご不興を買って退けられた以上は、我が家には不利益が齎されるだろう。どのくらいの損害が出るのか、領民にまで影響が出るような事態になってしまわないか、それがとても心配だった。


 頭を下げたわたくしに、父の深い溜息が聞こえて、ひゅっと身が縮まったが。


「何を馬鹿な。お前が詫びる必要など何処にも無い。…こんな事をなされば、一時的にでもお前がどんなに傷つくか、判らない筈がないだろうに全くあの方は」


 わたくしを、ぎゅっと抱きしめて下さった。

 こんな風に父の腕に包み込まれるのは、成人して以来、初めてだ。決して小さくないわたくしをすっぽりと包む温かさと懐かしいコロンの香りに、我慢していた涙がまた滲みそうになってしまう。


「そうよ、クリスティーナ。貴女には、なぁんにも非が無いの。殿下がはっきりそう仰ったと、エイミーから聞いていてよ。ええ、一部始終をね」


 いつもは穏やかに抑えられた母の口調が、妙に苛立たし気な気がするのは何故だろう。

 母はそのまま独り言のように言葉を継いで、


「まったく、あの方ときたら間怠っこいのだから。全く伝わっていないではないの。…良いですか、クリスティーナ。簡単に許してはダメですからね」


 最後には、ものすごくはっきりとわたくしに言い渡した。

 許す?何を??


「わたくしの可愛い娘をこんなに泣かせて悩ませて。このような薔薇ひとつで誤魔化されては絶対にダメ!たとえ貴女自身が許したとしても、わたくしはそうは参りませんからね」


「お母様?」


 仰ることが、よく判らない。

 薔薇ひとつで許してはダメというのは……もしかして、殿下のこと、なのだろうか?

 

「あの、お母様。何のお話なのでしょう」


「ですけれどもね、貴女も貴女なの。もう少し、自覚をお持ちなさい」


 さっぱり判らなくてきょとんとするわたくしに、母はきゅうっと眉を顰めた。


「クリスティーナ。ピンクの薔薇の花言葉は何だったかしら?」


 母は、わたくしより頭ひとつ小柄で、常にエレガントで沈着で、どんな時でも声を荒げたり荒くれた振舞いなどはしない人である。少なくとも、娘のわたくしは未だかつて見たことが無い。


 その貴婦人中の貴婦人たる母が、ナイトテーブルの前で苛立ちも露わに仁王立ち。

 殿下の下さった薔薇を睨みつけている。


「ええと……上品、とか。美しい人、ですとか」


「違うでしょう。少なくとも、この薔薇のブローチを頂いてからはそうじゃない筈ね?」


「それはその……そうだったら良いなと思っていましたが、殿下に確認したことは」


「だったら良いなも確認も何もありません!()()()()でしょう!」


 ……そうですね。あの頃、書庫の片隅で植物誌を広げて、いくつも並んだ花言葉のなかのその一文に、これが殿下のお気持ちならばと、そうなら嬉しいと胸をときめかせたものだが……今となっては、浮かれていた子供の自分が恥ずかしいので、今さら蒸し返さないで欲しい。


「そして、一輪の薔薇が意味するのは、()()()()。つまり、クリスティーナ、()()()()()()()()()と、殿下はそう仰りたいのではないかしら、きっと。貴女にはまったく伝わらなかったようだけれど!」


 父が、ぷんぷんしている母を宥めながら、わたくしを見た。


「薔薇のメッセージは何だか知らんが、私は殿下から直接、お前との婚約破棄は作戦上やむを得ず決行したけれど誓って全く本気ではなくクリスティーナ本人にはきちんと自分から真意を伝えると、そうお聞きしている。が、……どうやら聞いていないようだな」


「何をでしょう……?」


 としか言いようがない。

 作戦上やむを得ず決行とは何の話だろうか。


 誓って全く本気ではない婚約破棄、という言葉が頭の中を空転する。理解が追い付かない。

 

 ……確かに、殿下は時折、思いがけないことを突然なさる方ではある。

 あるのだけれど。

 

 思考が纏まらない。考えすぎてか、なんだか視界もグラグラしてきた。両親の姿が、ゆらゆら揺れて見えるのが気持ち悪い。目を瞠り、しっかり見ようとするのに、揺れが止まらない。

 

「クリスティーナ?」


 訝し気な母の声。

 返事をしなければ。そう思って瞬きをしようとした。閉じた瞼はそのまま上がらず、同時にすうっと頭から血が下がったのを自覚した。


 マックスの鋭い鳴き声。


 覚えているのは、そこまでだ。

 

*****

 

「クリスティーナ様は、先月がお誕生日でしたわね。18歳(成人)になられましたこと、遅ればせながら御祝い申し上げます」


 朗らかな声の祝いの言葉には、表面上は毒は無い。

 ただし、眼差しは冷ややかだった。甘い優しい声音と裏腹に、扇越しにわたくしを見据えている。

 

 我が家と親交の深い侯爵家でのことだった。

 新しく作ったという温室のお披露目の会で、主催の侯爵夫妻への挨拶を終え、両親とは別れて、ゆっくり花を楽しもうとした矢先、令嬢の一団に声を掛けられたのだ。

 このような茶会で顔を合わせれば世間話くらいはする。その程度の付き合いの令嬢たちだ。


「ありがとうございます」


 にこやかに返す。だいたい、この後の展開には予想がつくので、面倒だな、という思いしかない。


「ご成人おめでとうございます。一足早く夜会にお出になられるのですわよね。羨ましいですわ」


 ()()()()()()()のか、言わないけれども明らかなこと。


()()の世界ですもの、まだまだ()()()()遠くから憧れることしか出来ませんが、クリスティーナ様は実際にお出ましになれるのですもの」


「ドレスは何処でお誂えでして?()()()すらりとしておいでですもの、きっと、さぞや意匠をこらされるのでしょう?」


「大人の殿方のエスコート、憧れますわ。()()()()お出でになりますの?」


 確かにわたくしは殿下より3歳も年上で、その上、未だに殿下よりも背が高い。

 わたくしを取り囲み、棘のある内容を笑顔に包んで囀ってくる愛らしいご令嬢たちよりも、頭半分どころか、にょっきりと聳え立っているように見えることだろう。


 狙いは悪くないが、正直、今まで散々に言われ続けてきたことである。

 この程度でわたくしをやり込められると思っているなら、侮られたものだ。


「エスコートは父が。皆様ご存じのように、わたくし自身には夜会に出る必要は無いのですけれど、父や周囲の立場もございますから、求められた時だけ参るつもりです」


 言外に、どなたか達のように殿方を求めて練り歩く必要が無いのだ、と含ませる。


 わたくしの記憶では、この令嬢たちはまだ婚約者が決まっていない。そして、家格としては、王室との縁組が夢ではない。年齢的にも殿下と釣り合いが良く、だからこそ絡んでくるわけだが、ひとを年増の巨人呼ばわりしてきた以上は、やり返される覚悟くらいあるだろう。ちらりと大人げないかなとは思ったが、この程度は嫌味の内にも入るまい。

 

 返しの含みは理解出来たらしく、令嬢たちが言葉に詰まったのを見届けて、にこやかにその場を辞そうとした時だった。


「ティナのエスコートは誰にも譲らないよ。たとえ未来の義父上であろうとね」


 ふわっと腰に回された手と、背に寄り添ってくる温もり。耳元で響いた声の持ち主に、令嬢たちが素早く礼を取る。

 

「殿下。お出でになるとは存じませんでした」

 

 わたくしも彼女らに倣うべく振り返ろうとしたけれど、思いがけず強い力で背後から抱きしめられて身動きが取れない。


「うん、本当は母上だけが来る筈だった。だが時間が取れたので、母上のエスコートを言い訳に、ティナに逢いに来てしまった」


 頬にくちづけを落されて、いよいよ血が上るのを自覚する。……声を掛けられた時にも思ったのだけれど、ええと、なんだか、高さが近いというか。あれ?


 何とか、顔を振り向ける。

 ……わたくしと、ほとんど変わらない高さに、殿下の瞳。


 目を瞠ったわたくしに、殿下は破顔なさった。素早く位置を入れ替えられて、正面から抱き込まれる。


 ええっ。背が、殿下のお背の高さが、わたくしとほとんど変わらない!

 ついこの間まで、わたくしの目線の方が高かったのに……


 驚きの方が大きくて、いま自分がどうなっているのかなんて全く意識に無かったのだが、彼方で苦笑している両親の姿が目に入った瞬間、悲鳴を噛み殺しながら殿下の胸に腕を突っ張ってしまった。


 見苦しいとか、それどころではなくて、何という事をなさるのかこの方は!こんな、衆人環視の、王妃様も両親も笑っているけれど皆が見ているではないの!!血が上りすぎて卒倒しそうになるのを意地で捻じ伏せ、涙目になりそうなのも堪えて殿下を睨む。


 その、してやったり、みたいな笑顔を、是非とも止めて欲しい。


「驚いた?」


「驚きました…!」


 突然いらしたことにもだけれど、とにかく心臓がもたないので、そろそろ離れて頂けないかと。

 しばし無言で攻防を繰り広げたものの全く殿下が折れて下さらず、最終的に抱え込まれたままで令嬢たちの前を辞す羽目となった。死んだ魚のような目で見送られてしまう。


「……羞ずかしい……」


「そう?私は楽しいよ。実は余り時間が無くて、茶の一杯くらいしか居られないんだけれど」


 にこやかに周囲からの会釈を受けながら、殿下はずんずん歩いて、温室内に点在する茶席のひとつにわたくしを座らせた。

 対面ではなく、隣の席に着かれるのもいつものこと。

 

「さっきのは冗談でも何でもなくて、ティナのエスコートは私だけだからね。迎えに行くから」


「夜会ですけれど……?」


 それが何?みたいに笑ってらっしゃいますが、殿下、まだ15歳でいらっしゃいますよね?夜会は成人後、18歳からが慣例なのですが……。

 

「夜だろうが昼だろうが、今後、ティナが盛装する席には基本的に一人では出さない。これでも王太子だからね、詰まらない慣例には縛られない」


「え、と?」


「え、じゃない。やっと様になるようになったんだから誰にも譲らない。で、これを」


 何事かごにょごにょと仰ったが聞き取れず、首を傾げたわたくしに、美しい小箱が渡される。

 大きさの割に、しっかりとした重みがある……これは。


 開けるのも憚られ、恐る恐る殿下を見やれば、輝くような笑顔で。


「これを着けてきて欲しい」


 胸元に揺れるアクアマリンに、つい手をやってしまう。殿下の瞳の色と同じ、澄んだ湖水のような、翠が入り混じる青い石。


「…誕生祝い(これ)を頂いたばかりです」


「それは夜には向かないだろう」


 ……いよいよ箱を開けるのが恐ろしくなってきたわたくしとは裏腹に、殿下は悪戯そうなお顔で楽しそうだ。

 そして、近づいてきた近衛に向かって軽く手を上げて、立ち上がった。…もう、時間なのだ。

 見上げたわたくしの頬に殿下の手が触れ、思わず目を閉じてしまう。瞼の端に、唇が落ちてくる。


 目を開けた時には、殿下は踵を返した後で。

 

「あれこれ画策していると思っていたけれど、この時間が欲しかったのね」


 いつの間にか、わたくしの傍まで王妃様がいらしていた。席を立って礼を取ろうとするわたくしを制して、畏れ多くも、同席をお許し下さった。


「見合う男に成りたくて、背伸びも必死。面白いこと」


 母と顔を見合わせて忍び笑いをなさる。父は父で、何とも言えない顔でわたくしを見て、溜息を吐く。


「まだ暫くは、詰まらん夜会でも大人になったお前を自慢しながら旨い酒を愉しめると思っていたのに、もう殿下に取られてしまうとは」


 つくづくと言う。

 王妃様は、扇の陰で苦笑した。


「そう言わず、可愛らしい少年のプライドに免じて許してやって頂戴な。背が伸びるまではと、長いこと歯噛みしていたのですもの。あら、クリスティーナの前だったわね、うっかり言ってしまったわ」


「男の子の成長期というのは驚異的ですわね、あっという間に大人の男性に」


「見た目ばかりがにょきにょき伸びても。中身が伴わなくては話にもなりませんわ」


 …コロコロと笑顔で仰っていてるけれども、多分、聞かなかったことにした方が良い話が繰り広げられている。

 身の置きどころが無くなってきたわたくしに、王妃様は優しい笑顔を向けて下さった。


「我儘勝手な息子で悪いわね?鬱陶しい子だとも思うのだけれど」


「畏れ多いことでございます。そのような、ことは」


「……ふふふ。その顔なら、何も心配しなくて良さそう。そうよね、未だに愛想を尽かさないでいてくれるのだもの。末永くお願いね」


 王妃様の笑顔が、両親の微苦笑が、本当に居た堪れなくて、わたくしは火照る顔を持て余し、茶器の向こうに隠れたくて仕方なかったのを覚えている。


******


「……ということがあったでしょう」


 小さめに焼かれたフィナンシェを割り、その片割れをぱくりとひと口。母らしからぬ、大胆な食べ方である。

  

「覚えていない筈がないわね、あからさまに親密に振る舞って、ちょっと意地悪を仕掛けただけのご令嬢たちを薙ぎ払って下さったのだもの」


「ええ……あれはとても居た堪れなかったです……」


 あれから3年近くも経つというのに、当時の事を思い出すと未だに心拍が上がってきそうで胸を抑えるわたくしに、母は呆れ顔を隠さない。

 

「そんな悲しいことを言わないで欲しいのだが」


 大袈裟に嘆いて見せるのは止めて頂きたいです。哀し気な上目遣いも、とにかく心臓がおかしくなりそうなので是非とも止めて頂きたく。それより何より、何故、とても自然に我が家のティータイムに混ざっていらっしゃるのでしょう、殿下は。まるで何事も無かったかのように、わたくしに微笑みかけるのも無しですから!

 

 ……あの茶会から、1週間が経っていた。

 婚約破棄を言い渡され、混乱のなか意味を計りかねる薔薇を託され、更なる困惑に情けなくも泣きながら帰ってきたあの日から、1週間。


 当然のことながら公務は無くなり、登城する必要も無くなり、果たすべき何の義務も無い、突然ぽっかりと空いた時間を持て余すかと思ったのだが、そんなことは無かった。

 

 何故なら、あの日の夜から、熱を出して寝込んでしまったからである。


 長年、己の体調管理も義務のうちとして完璧にコントロールしてきた身としては余りにも不甲斐ないが、飛んできた侍医曰く、今までのツケが一気に来た、らしい。

 何故、王宮の医局詰めの筈の彼がわざわざ我が家まで往診してくれたのか、こんなところまで来て王家の不興を買わないか、半ば朦朧と問うたわたくしに実に厳めしく絶対安静を申し渡し、エイミーに山のように薬湯を預け懇々と何やら説明して帰って行った、ところまでは何とか覚えているのだが、そこから先は混沌としている。


 何しろ、発熱など、ここ10年ばかり縁が無かった。

 常に健やかでなければならなかった。万が一にも風邪など引いて、殿下に移すような事があってはならないから、気を抜くなど有り得なかった。多少の体調不良など気力で抑えてきたし、実際、それで何の問題もなくやってきたのだ。

 それが2日経っても3日経っても熱が下がらず、身体がしんどいのも辛かったが、何より我が身の不甲斐なさが情けなくて、つい愚痴を溢したら、何とエイミーが泣く。

 泣きながら日に何回も薬湯を持ってきてくれるのも申し訳なくて、早く何とかしないとと焦れば今度は両親が怒りながら泣くしで、実に身の置き所が無かった。心底、病になどなるものではないと思った。


 4日目には熱が下がったけれど寝台から出して貰えず、5日めにようやくソファに座って読書させて貰えるようになり、6日目の昨日ようやく湯浴みが許され、エイミーが痩せたと言ってまた泣くのを宥めすかして、7日めの今日、やっとまともに食事が摂れたおかげで、午後、庭に出る許しが出た。


 心配性のエイミーが付いてこようとするのを押しとどめたら、日除けの帽子とショールでぐるぐる巻かれてしまい、些か暑い。

 エイミーが窓から目を光らせるなか、庭をのんびりと廻って東屋に入り、彼女の目を逃れたところで脱ぎ捨てて、ベンチに腰を下ろして一息ついた。

 

 まさか、こんなに寝付くことになるとは思わなかった。

 そのうえ、赤ん坊の如く身の回りの世話を焼かれているようでは、これから先が思いやられる。体力を無くしている場合ではない。さっさと一人前にならなければ。


 ……そういえば寝込む前、なんだか母から叱られたけれど、あれは結局何だったのだろう。


 ぼんやりと庭を見ながら、とりとめも無く考えを遊ばせていた時だった。


 突然、ふわりと華やかな薔薇の香りと。

 背後から、あたたかく柔らかい抱擁と……懐かしい、此処には有り得ないコロンの香りが、した。


「やっと逢えた……」


 耳元で、溜息のように囁かれて。


 息が、出来なかった。

 居る筈のない、居てはならない人の、声。


「済まなかった。貴女にきちんと説明しなかったから、余計な心労を掛けてしまった」


 わたくしの膝に乗せられた、薔薇の花束。……11本の、深紅の薔薇。


「こんなに儚げな貴女は初めて見た。もっと早く来たかったのだが、侯爵も侍医も喧しく反対してきて、ああもう」


 肩に、項に、プラチナが触れる。後ろから抱き込まれて、肩に額を乗せられて、話す息が熱くて震えている。


「貴女が倒れたと聞かされて、生きた心地がしなかった……」


 腕に力が込められて、いっそう距離が近くなる。こめかみにキスを落されて、わたくしの喉からも震えるような息が漏れて、それでやっと呼吸が蘇る。

 

「……殿、下?」


「うん。ごめんね、ティナ」


「それ、子供の頃みたい、です」


「うん」


 いつかのように、猫のようにぐいぐい頭を擦り付けて、でも、あの頃と違うのは、キスも一緒に降ってくること。髪に、額に、頬に、しがみ付くみたいに抱き込まれて、柔らかくあたたかい唇がわたくしに触れる。知らないうちに体から力が抜けて、殿下の胸に凭れ掛かるわたくしの閉じた瞼にもキスされて、涙が滲んでいたことに気づく。


「ごめん。謝って済むことではないけれど、ごめんね。……話を、聞いて欲しいんだ」


 そうして、やっと、わたくしは殿下から一連の出来事の真意を聞かされたのだった。


 アンジェリーナ嬢とのことは、わたくしが外野から聞かされていたものとは全く違った。

 彼女の意図はさておき、殿下にとっては、彼女はとある問題を解決するための情報源のひとつだった。それで接触しているうちに、彼女に一種の可能性と有効な使い道を見出した。そのため必要な教育を施し、ものに成ったら配下に加える心づもりでおられたのだ。特別扱いし、婚約者をも遠ざけたと思い込ませ、言を弄して操りながら退路を断って、最終的には殿下に下るしかないよう追い込むつもりなのだ、と。


「……どうして、教えて下されば、何故あのような……」


 支離滅裂な言葉しか出てこなくて、口ごもる。


 息が震える。

 あの時の衝撃と哀しみは、きっと一生、忘れられないだろう。

 経緯を教えて下さった今もなお、どれだけ年齢という引け目があっても、幼い頃からお慕いしていた殿下から、衆目の中、笑いながら拒絶されたあの時の気持ちは、まだわたくしの深い処でじくじくと膿んで熱を放っていて、どんどん恨みがましい言葉が出てきそうなのを、なんとか留める。

 

「いいえ、詮無いことを申し……っきゃ?!」


 変な声が漏れて狼狽する。

 隣に座っておられた殿下が、いきなりわたくしを膝の上に抱き上げたのだ。


「本当は」


 ぎゅうと殿下の腕に力がこもる。

 

「あの時、自分で薔薇を渡すつもりだったんだ」


 息を呑んだ。

 わたくしの後頭部に添えられた手にいっそう力が入って、押し付けられた殿下の肩から顔が上げられない。

 殿下のお顔が見えないのが、もどかしい。


「他の誰に判らなくても、ティナには意味が通じると思って自惚れてた。ローズクオーツ、ずっと大事にしてくれてたから」


「あの、殿下、」


「それが、取り付くしまも無いというか、隙ひとつない笑顔ですーっと下がって行っちゃって」


「殿下、手を放」


「嫌だ。……あっさり、私の望むままに、って言ったきり一言も口をきいてくれなくて、ずーっと笑顔で、気が気じゃなかった。狙い通りとはいえアンジェリーナ嬢は蛸みたいに巻き付いてくるしキースはアレだし、もうほんと、薔薇を渡すどころか、まさか最後までティナに目も合わせて貰えないまま帰られるなんて、自分の間抜けさに絶望したんだ。絶対、放さない」


「あの、殿下、ええと」


「仕事してたバーナードを捕まえて走らせて、なんとか渡せたとは聞いていたけど、意味無かったよね」


 そう呟いて、殿下は深く溜息を吐く。


 ふっと力が緩んだ。その隙に、殿下の腕の中から抜け出した。

 慌てたように手を伸ばされたけれど、素早く躱して、距離を取る。

 逃げるわたくしを見つめる殿下は、いっそ幼いような、途方に暮れたような表情で。


「わたくし」


 傷ついた。怖かった。苦しかった。どうしていいのか解らなかった。

 言いたいけれど、臣下からは決して許されない、畏れ多くも殿下を責める言葉ばかりが溢れ出てきそうで、唇を抑える手を強く握り締めた。

 

 唇が冷えて、震えているのが自分でも判る。

 

「ねえ、ティナ。飲み込まないで。何でも言って」


 殿下が、静かに仰って。


 一歩、踏み出されて、わたくしは反射的に一歩下がった。


「私は、今回貴女を傷つけたことをとても後悔しているけれど、益が得られると思えば、これから先もまた似たようなことをやるだろう。何度でも苦しめるかもしれないけど、可哀そうだと思ってもどうしても貴女を手放したくないんだ。だからね、抗議でも、罵倒でも嫌味でも説教でも何でも良いから、隠さないで、私に教えて」


 真直ぐこちらに視線を合わせ、近づいて、静かにわたくしの手を取って。

 握りしめた指をゆっくり解き、唇に触れる寸前まで持ち上げ、上目遣いに目を合わせて。


 もう、さっきまでの哀しそうな幼いお顔ではなくて。


「貴女しかいない。貴女にとっては政略でしかなくても、頼りない年下の洟垂れ小僧でしかなくても、私には貴女しかいない。逃げないで。何があっても放さないから、私を望んで。……信じて」


 そんな、蕩けるような微笑を浮かべられてしまったら。

 

 狡い。この方は、本当に。そんな事を言われたら、……殿下ご自身から望まれてしまったら。

 もはや半泣きで頷くしか出来ないわたくしの手をくるりと返し……掌にも、キスを下さった。


 その後は……大変、だった。


 とにかく、放して下さらないのだ。

 逆上せたわたくしが見苦しく抵抗しようとも、こんなに華奢になっては歩かせられないなどと意味の判らない事を言い張る殿下に抱き上げられてサンルームまで運ばれて、呆れ果てた顔の母と満面の笑みの侍女たちに囲まれてのティータイムだなんて、身の置き所が無さ過ぎる。


 殿下はご身分も顧みず、わたくしに手ずから茶菓子を与えようとなさるばかりか、流石に母の目の前でわたくしを抱き込んだりはしないものの、隣に陣取り頑として動かず、気づけばわたくしの手を握っていたり、頬を撫でたり、病み上がりで下ろしたままの髪を掬って耳に掛けようとなさったりと、とにかく一時たりとも何処かが触れていない時が無い。心臓に悪いことこの上ない。東屋でわたくしが逃げたことへの仕返しではないかと本気で思う。


 母は母で、お見舞いの焼き菓子を片っ端から口に運びながら昔話を延々と続ける。またその話がことごとく殿下が如何にわたくしに構い続けてきたかの羅列で、よくもそんなにというか、何故それを母が知っているのかと耳を疑うような話までもが飛び出してきて、せっかく下がった熱がぶり返しかねないほど血が上下する。苦しい。


 満身創痍で息も絶え絶えのわたくしに、とどめとばかりに母が言うには、


「だいたいね、貴女、身に付けるあれこれ、頂くもの頂くもの殿下のお色のものばかり、お目に掛かればハグとキスを雨あられ、一時たりとも剝がれないで張り付いてるだなんて、こんなに判りやすく愛しんで頂いて、何故すぐに不安になってしまうの。何が心配なのかしら。年の差だったら馬鹿馬鹿しくてよ、3歳くらいで何を言っているの」


 ピンポイントで痛いところを突かれて言葉も出ないわたくしに、殿下はわざとらしい哀し気なお顔をして見せた。この方は、もう、本当に!


「全くだ。…子供の頃ならいざ知らず、この先なんか、男の私は貴女と違って老ける一方なんだよ?いつか禿げ散らかしても捨てないでよ??」


 何てことを仰るのかこの方は。


「年の差というのは、フォルカー伯のところくらい違ってから悩むものです。アンナマリア様に叱られますよ」


「うーん、あそこはまたちょっと特殊な気がするが、というかアレと一緒にされるのは複雑なのだが……?」


 微妙なお顔の殿下に、母は大層にこやかだった。目が全く笑っていなくて怖い。

 そして、貴女()へのお説教は此処まで、と前置きし。


「自分付きの家庭教師(ガヴァネス)に一目惚れして国境をも超えて追い掛け回して10年がかりで口説き落とした当代伯の執念は未だに語り草ですけれど、あの方、手段こそ選びませんでしたけれども、お粗末な嘘や欺瞞でアンナマリア様を翻弄なさることだけは無かったですわね」


 先刻までの、(わたくし)を揶揄うような響きが嘘のよう。


「それを言われると返す言葉も無い。無いが、いや、アレと一緒は流石にちょっと」


 殿下のささやかな抗議を黙殺し、母はおもむろにまたひとつ焼き菓子を手に取って、めり、と割った。


「娘はすっかり絆されているようですが」


 いよいよ凍り付くような声音だった。

 哀れな姿になった菓子をぱくりと口に入れ、仇のように咀嚼する。怖い。

 横目で殿下を伺えば、貼り付けたような笑顔を母に向けていらした。

 

「わたくしは、まだまだでしてよ。夫がこんなものではないことも保証いたします」


「肝に銘じよう」


「それでは殿下、本日のご訪問、心より御礼申し上げます。……娘もまだ本調子ではありませんし、まさかに病み上がりで弱った女につけ込んでお終いなんて姑息な方ではございませんわね?」


「勿論だとも。突然、訪ねたのに快く迎えてくれて礼を言うのは私の方だ。侯には、また日を改めて請わせて頂こう」


 ふたりとも笑顔なのが、より一層、恐ろしい。


「ではね、ティナ。ちゃんと身体を休めて、早く出掛けられるようになって。いろんなところに連れて行きたい」


「あら素敵。ただ殿下、夫の許しが出てからにして下さいましね?」


「またすぐ見舞いに」


「さ、貴方たち、殿下をお見送りいたしますよ」


 不敬罪が心配になる勢いで、母が侍女や家令を引き連れて殿下をぐいぐい押し出し、殿下のお声はどんどん遠ざかる。

 

「来るから!…!!」


 最後は嵐のようで。


 茫然と見送るわたくしの足元に、いつの間にか来ていたマックスが、くわ、と欠伸した。


*******


 エイミーが恭しい手つきで小箱を開き、ブローチを取り出す。

 デコルテの開いたドレスに合わせた幅広のリボンチョーカーに縫い留めて、位置を確かめながら巻いてくれる。


 ピンクダイヤモンドが散りばめられた薔薇をプラチナの葉が支え、翠がかったアクアマリンの(ブリオレット)が揺れる。とても繊細だけれど、マットなリボンの上で豪奢に煌めくそれは、殿下が初めてエスコートして下さった夜会の折に誂えて下さったものだ。


 成人したばかりだった、あの時のわたくしには、気後れなしには身に付けられないような逸品だったけれど、齢を経るごとに馴染み、今では無くてはならないお気に入りである。


 最後に全身の身嗜みを確かめてくれたエイミーと共に、殿下の待つ客間へ向かう。


 私室を出たところで、待ち構えていた母が、上から下までわたくしを見て、眉を上げた。


「そのブローチ、とても貴女に似合うけれど、ほらね、それにも殿下のお色が入っているでしょう?」


 先日来、わたくしの出で立ちを見ては揶揄うのがお決まりなのだ。

 それも致し方ない。本当にわたくしのジュエリーもドレスも、たいてい何処かに殿下のお色が含まれているのだから。

 殿下に頂いたものばかりではないのに、である。


「殿下がお待ちかねよ。楽しんでいらっしゃい。但し、わたくしやお父様に見られて困るような跡を頂いてくるのは無しで」


「!!!」


 わたくしとて好きで付けられてくるわけでは無く、だって、まさか()()()()()を殿下がなさるとは思ってもいなかったのだから!


 抗議は言葉にならず、ただ口をはくはくさせるだけのわたくしは、絶対に茹で上がっていると思う。


 ……先日、我が家の東屋で、ふいに訪れた殿下に抱き締められ、たくさんキスを頂いた、あの時である。

 確かに、肩や項に殿下がお顔を擦り付けた時。かすかにだけれど、ちり、と良く判らない、経験の無い痛みを感じた。だが、あの時はそれに頓着できるような精神状態ではなく、一瞬だったこともあって、すっかり記憶から抜け落ちていた。


 それが、夕食の為に着替えようと髪を上げた時だ。手伝ってくれていたエイミーが、不思議そうな顔で、何かに被れているけれど痒みは無いか、と訊いてくる。特に何も感じないと首を傾げたわたくしに、何個所もある、熱の後遺症の発疹ではないか、また何か別の症状でも大変だと、エイミーは大慌てで母を呼びに走った。


 残されたわたくしは鏡を駆使して被れとやらを確認したが、確かに真っ赤な斑点が肌に散って、ものすごく目立つが痛くも痒くも無いから訳が判らず、何度も見直したり擦ったりしていた処を飛んできた両親に見られるなり、父は膝から崩れ、母にはこっ酷く叱られたのだ。


 しかし、叱られる理由が判らないわたくしに、父は更にがっくり肩を落とし、母はキリキリと柳眉を逆立て、わたくしの耳を引っ張り手短に説明してくれ……聞くなり、わたくしが羞恥に悲鳴を上げたのは、言うまでもない。


「今夜は音楽会だったわね。…ロイヤルボックスだから人目は無し。護衛たちもエイミーも扉の外だし、くれぐれも自衛を怠らずにね。流されてはダメよ」


「判っています!」


「どうかしらねー。貴女、殿下には本当に弱いのだから」


 まったく信用が無い。

 

「大丈夫です、お嬢様。私、カバー力の強い白粉を持って控えておりますからご安心ください、お帰りの際にはしっかり隠して差し上げます!」


 エイミーがひそひそ囁いてくるけれど、それは全然大丈夫ではないのよ!隠さなくてはならないようなそんな事にそもそもなりたくないのよわたくしは!!というか、エイミーも全然、わたくしを信用していないのね。なんてことだろうか。


「ティナ、もしかして寒いの?」


 馬車の中は、付き添い(エイミー)の目もあり、節度のある距離を保っていられた。

 が、ボックス席でふたりきりになるや、ぐるぐるにレースのショールで武装したわたくしを、殿下は心配そうに見ては、額に手を当てて熱を測ろうとなさったり、抱き寄せて温めて下さろうとなさったり、するのだけれど、ことごとく避けるわたくしにしょんぼり哀しそうなお顔になった。


「いいえ、むしろ暑いくらいです」


「だよね。それなのに何故そんなにぐるぐる巻き?」


 ドレスアップしたティナをもっとちゃんと見せて、などと甘い笑顔で仰るけれど、絆されてはならない。

 何しろ、夜の音楽会とあって、髪は結い上げられ、デコルテも背中も無防備に開いているのである。更にぎゅっとショールを巻く。


 とはいえ、ボックス内に何故か長椅子ひとつしか無いとなれば、密着は避けられず。

 頬と言わず首と言わず、落されるキスも、避けられなかった。

 羞恥のあまり涙目になりつつ、距離を取るべく、殿下のお手を腰から外そうと藻掻いたところ、より一層、強く抱き寄せられて。


「待って待って、何で逃げようとするの」


「殿下こそ何故こんなにお傍に?!」


 ひとり掛けの椅子もあった筈なのに、というわたくしの訴えは、殿下にあっさり一蹴された。


「せっかく大手を振ってふたりきりだというのに。離れて座るだなんて有り得ないよね」


「真顔で仰ることですか?!」


「ほら、ティナ、暴れるからショールが」


 殿下が剥いでいるんです!!

 

「ああもう。……抵抗すると余計に。ほら」


 ひらりとショールが奪われて。胸元まで上気している自分がたまらなく羞ずかしくて。


「……殿下なんて嫌いです……」


 ぽろりと零れた言葉に、殿下が凍り付いた。


「わたくしを、は、辱めて面白がっていらっしゃるのですよね?」


「……ええとね。待って。待って待って」


「とにかく、その!手を!!」


 はーなーしーてー!!

 何とかして嵩張るドレスの裾を捌いて立ち上がろうと足掻くわたくしのウエストに後ろから殿下の腕が巻き付いて梃子でも離れないのはどうして!!!


 すっぽりと背後から抱き込まれて、わたくしの頭の上に、殿下の頬が寄せられて。

 ……もう、とうにわたくしよりもずっと背が高く、逞しくなっておられるのは判っていたけれど。

 こんなふうに、護られるように包み込まれると、全く抵抗できなくなるだらしない自分が悔しい。


「辱めてなんかいない。可愛いなあって思うと、こう」


 露わになっている肩に、唇が触れて。

 甘噛みされて、背が震えた。


「この間、跡を付けたのは悪かったけれど。……ティナがネックレスをしてなかったから。何というか、こう、ちょっと我慢できなくなって」


「ネックレス……?」


「病み上がりで、しかも自宅で寛いでいる時なんだから仕方ないと判ってはいたんだけれど。……いや、ほんとにごめん、自分でもちょっと引く発想だった」

 

 ごにょごにょと殿下が呟いておられる。


「……あのアクアマリンでしたら、あの…あの時は、仕上げ直しに預けてあって、わたくしの手許にはございませんでした」


「仕上げ直し?石でも緩んだ?」


「いえ、……ええと、殿下にお返ししなくてはいけないと思っていたものですから。それで」


 今度は、わたくしが口ごもり。

 殿下がぴしりと固まったのが、判った。


「……今、私に返すって言った?」


「はい。あの時は、それが正しいと思っておりましたから」


 何故なら、婚約破棄を言い渡されておりましたので。

 そこまで言葉には出さなかったが、口調が些か恨みがましくなってしまったのは仕方ないと思う。


 殿下は、ぐう、と唸った。それから、ゆっくりと手を伸ばしてわたくしの喉元の(アクアマリン)を指先で揺らし、そのまま手を滑らせてわたくしの頬を撫でた。……擽ったい。

 

「一生、責めて良いけど、返されても受け取らないからね」


「今となっては、お返し致しません。……一生、大事に致します」


「うん。ああもうほんとに可愛い」


 かかか噛まないで頂きたいのですけれども!!


「……駄目だこれ以上は歯止めが利かなくなる。侯爵となら決闘で済むが夫人が怖い」


 不穏な呟きと共に殿下の抱擁が解かれ、代わりにレースが巻き付いてくる。ふっと距離が空く。


 ……寒いわけではないのに。心許ないような、寂しいような、そんな気持ちがこみ上げてきて。

 気が付けば自分から殿下に凭れ掛かっていて。


 殿下が目を瞠る。

 ほの暗いボックスで、僅かな灯りを弾く瞳にわたくしが映る。

 透き通るような翠がかったアクアマリンには、幼い頃から変わらずに、わたくしへの優しさとお気持ちが湛えられていて。


 幼い頃と同じように、胸が苦しくて、言葉がうまく出てこなくなるけれど。


「ずっと、お傍に居ります。どんな時も、殿下を信じて」


 その先は、続けられなかった。

 

 きつく抱き込まれて……初めて、息を、封じられて。


 いつの間にか漂っていた楽の音に気付いたのは、随分、経ってからだった。


********


 そうして、いま、わたくしは、毎日届く殿下からの花やお菓子やカードに囲まれて、ペンを手にして呻吟しているのだった。


「はい、今日のお花。手ずから摘まれたそうよ、愛されてるわねえ」


 けらけら笑いながら母が置いて行ったのは、濃い緋色の薔薇が24本(一日中想っています)。もう部屋の至る処に薔薇が飾られていて、そろそろ置き場に困ってきている。


「如何しましょうお嬢様。そろそろこの辺りのものでローズバスでも」


 エイミーの笑顔が容赦ない。


「……そうね。お願いするわ」


 何日分かの薔薇をごっそり持って、エイミーがバスルームに消える。畏れ多くも、さぞかし豪華なバスタイムになることだろう。


 それは良いが、いや良くも無いのだが、とにかく、こんなにも頂いているのだから、殿下にお礼状を書きたいという気持ちはあるのだけれど、もうこの何日間というもの、まったく筆が進まない。頂くだけ頂いておきながら、ましてやご自身でお持ち下さっていると知っていながら一度たりとも自分で受け取りもせず、無礼にも程があると頭では判っているのだけれど、どうしてもどうしても進まないのである。


 書こうとすると、先日の薔薇園でのひとときのこと……ひ、人目も顧みず殿下がわたくしを愛しんで下さった()()()()()がまざまざと脳裏に蘇り、羞恥と動悸と、それを上回る、はしたなくも紛れもない歓喜がこみ上げてきて息が詰まる。逆上(のぼ)せる。涙ぐみそうにさえなる。


 手紙を書こうとするだけでこの有様であるので、到底、お目に掛かるどころではなく、毎日、今度こそは自分でお出迎えしようと固く心に決めても、いざとなると腰が砕けて自室から出られない。両親や家令に任せっきりで、ひとり赤くなったり青くなったりしている始末なのだ。


 しかし、流石に、これ以上、羞恥のままにだんまりを決めこむ訳にはいかない。

 ()()から毎日、多忙な殿下が、わたくしの為に貴重な時間を費やしてくださっているのだ。


 心を決めて、ペンを走らせようとした、のだが。


 のしっ、と。

 白くて丸い、毛の塊が。


「……マックス……」


 何故、猫は飼い主が今まさに必要とするものの上で寝たがるのだろうか。

 ウィスカーパッドがもにょもにょしていて、こういう時は降ろしても降ろしてもまた登ってくるのは間違いない。

 便箋の上ににょろりと寝そべり、毛づくろいまで始めた猫に、バスルームから戻ってきたエイミーが笑いだした。


「マックスったら。どなたへのお手紙なのか、判っているのですね」


「えええ?」


「だって、イライアス様へのお手紙の時にはベッドで寝ていたではありませんか」


「まさか。偶然でしょう?」


 確かに、領地に居る弟に向けて書いていた間、この子はずっとぐうぐう寝ていたけれど。


「絶対、判ってやっていますよ。イライアス様が連れてきた猫ですもの」


「そんな馬鹿な」


 見下ろせば、ぱたりと尻尾が紙面を叩く。


 ……そう言われれば、したり顔にも見えてくるけれど。

 そんな事ってある??


 満足げに顔を擦る猫をまじまじ見ているわたくしに、朗らかにエイミーが言葉を継いだ。


「お嬢様、今日こそお城にお出かけなさいましょう?お手紙は後にして、まずはお仕度に掛かりましょう」


「殿下のご都合を伺ってもいないのに?」


 何を言っているのかと眉を顰めたわたくしに、エイミーはにんまりと胸を叩いた。


「大丈夫です。ドロシア様から殿下のご予定は承っております。今日なら、お茶の時間が宜しいかと」


「何ですって?」


 ぽかんとするわたくしの手を引いて、エイミーはバスルームへとどんどん進み。


「さ、お湯の支度も出来ておりますから」


「ま、待って、お逢いするには心の準備がまだ」


「お心が整うのを待っていては何時まで経っても。さ、お湯が冷めてしまいます。お早くお早く」


 抗議も空しく、強引に薔薇の浮かぶバスタブに押し込められて磨き上げられ、隅々までボディクリームを塗りこまれ、薄化粧を髪をと、とても手回し良く整えられ、あれよという間に外出着を着せられる。


 その頃にはマックスも気が済んだのか便箋からは退いていて、何を考える間もなく、何故か待ち構えていた母に言われるままに言葉を綴って封をするなり、そそくさと持ち出されて。


 気付けば。


「ティナ」


 いつもの薔薇園で、殿下がわたくしを迎えて下さる。

 大きな微笑を浮かべ、腕を広げて、わたくしを待っていて下さる。


 わたくしの襟元に咲く、あのローズクオーツの薔薇に、蕩けるような笑みを浮かべる殿下が眩しくて。


「懐かしいな。いま見るとちっぽけだが、当時の私には精一杯だったんだよ、これでも」


「小さくなんかありません。あの時、とても嬉しいと思いました。今でも変わりません」


「ああもう。ダメだよ、そんな表情(かお)でそんなことを言うとね」


 耳元で囁かれるなり、耳朶を食まれて飛び上がる。逆上(のぼ)せ上がって見上げれば、くすくす笑う殿下の瞳の色に、足元が怪しくなるのが羞ずかしい。


「殿下。ご令嬢を立たせたままなど」


「ハイハイ」


「お返事は一度で良うございます」


「うるさいなあもう」


「申し訳ございません、クリスティーナ様。こんな殿下で」


 真顔で膝を折るドロシアに顔をしかめる殿下が可笑しくて。…愛しくて。


 これからも、ずっと、胸を張ってお傍に居られる自分であれるよう。

 薔薇水晶に、願いを込めた。

 


お目に止めて下さり、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 良い関係を築き上げてきた婚約可愛いかったです [気になる点] 王子自らハニトラしなければならないとか、国としてちょっとやばい。せめて側近たちが王子のかわり出来るくらいハニトラ返し技術磨か…
[良い点] 「益が得られると思えば、これから先もまた似たようなことをやるだろう。何度でも苦しめるかもしれない」 はぁ( ꒪Д꒪)? つまり「この先もハニートラップするけど許してね♡」 ってことだよ…
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