ふっと消えた
昔、ぼくの住んでいたアパートからは隣の家の窓が見えた。
幼い頃の話だ。
ぼくはまだ幼稚園にも行っていなかった。
昼間、母さんが家事などをこなしているとき、ぼくはリビングで一人座って、テレビを見たり、絵を描いたりしていた。
そんなあるとき、何気なく窓の外を見た。
窓ガラスは開け放たれている。
左右に開かれた薄いカーテンが風に揺れている。
その奥には向かいの家が見えた。
二階建てで紺色の屋根の、こぢんまりとした民家だ。
こちらに背中を――つまり、玄関ではない方を――向けて建っている。
その家の、ぼくから見ると左上にある二階の窓のカーテンが開いていた。
小さい窓だ。
視線を向けていたその四角い窓の中で、何かが動いた。
電気がついておらず、よく見えない。
と思ったそのとき、薄暗がりの中からぬっと顔が現れた。
ぼくと同じぐらいの歳の女の子。
髪の毛はおかっぱ。
その子の姿を見るのははじめてだった。
すぐ近所に住んでいるはずなのに。
じっと彼女を見つめていると、向こうもこちらを見ているのがわかった。
視線は確かに合っていた。
ぼくはなんとなく手を振ってみた。
向こうも小さく振りかえしてきて、やがて彼女は部屋の中に消えた。
※※※
それ以来、同じ時間にベランダからその部屋を見ると、ほとんど毎日のようにその女の子が現れた。
ぼくは彼女へ手を振ってみたり、それとなく合図をしてみたり、何もしなかったりした。
彼女も似たようなもので、手を振り返してきたり、ただ何もせずじっとこちらを見返してきたりした。
部屋の中に引っ込む時間も日によって違った。
長いときには、母が家事を終えてぼくの相手をしてくれるまで、少なくとも一時間以上、彼女はずっとそこに立ち続けた。
いま思い出すと不思議なことだけれど、ぼくは彼女のことを誰にも話さなかった。
話す相手は両親ぐらいしかいなかったし、その両親は何も知らなかったから、あえて話すほどのことでもないと思っていたのかもしれない。
あるいはそれを、自分だけの秘密なのだと考えていたのかもしれない。
ただときおり、目を合わせてちょっとした合図のやり取りをするだけの女の子。
彼女はただ、それだけの存在だった。
やがてぼくにも幼稚園に入る日が来た。
はじめて親のそばから離れ、知らない子どもたちの輪の中に入るのはさぞかし不安だったろう。
けれども今となっては、そうした不安は記憶の底に霞んでいる。
ただ、よく覚えているのは、その幼稚園に彼女の姿がなかったことだ。
いつも窓の向こうにいる、例の女の子。
同じぐらいの年の子だと思っていたから、心のどこかで気になってはいた。
幼稚園で会えるんじゃないかとも思っていた。
しかし、そこに彼女はいなかった。
上級生でもなかったし、次の年に入園してくることもなかった。
もっといえば、ぼくの住んでいた町には他の幼稚園はなかった。
※※※
そうして、彼女を見かけることはなくなった。
ぼくが彼女と顔を合わせていたのは、ちょうど幼稚園に行っている時刻だった。
他の時間に彼女を見ることは決してなかった。
そんな風に彼女を見かけなくなって以来、不思議な交流はすっかり影を潜めてしまった。
ぼくの方でも、他の友達がたくさん出来たこともあり、彼女のことを忘れかけた。
ぼくが彼女のことを思い出したのは、小学校の入学式を終えた、その帰り道だった。
アパートの近くまで戻ってきて、向かいの家を見たとき、唐突にぼくは彼女のことを思い浮かべた。
そして記憶を探ってみた。
小学校の入学式にも、やっぱり彼女の姿はなかった。
言葉を交わしたことさえないけれど、以前は毎日のように見ていた顔だった。
それなのに。
珍しい出会い方をした、奇妙な縁のあった相手なのに、今ではもう彼女を、目にすることすらなくなってしまった。
何かそのことが、彼女があるときふっと消えてしまったような、そんな不思議な感想をぼくに抱かせた。
その後、部屋に帰ってみると窓のカーテンが開いていて、向かいの家が見えた。
ぼくはその家を指差しながら、母さんに聞いてみた。
「あそこの家、前、女の子が住んでたよね? あの子はいま、どこで何をしているのかな」
母さんは怪訝な顔をしてから、こう答えた。
「なに言ってるの? あそこ、ずっと空き家よ」
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