備えあれば憂いなし
ホムセンに戻った俺達はガソリンスタンドの燃料を使ってホムセンにあったショベルカーなどを使って工事を始めた。
ここは戦国の世、地元の領主のお許しは頂いたとは言え、ここが小田領だとすると、いつ結城や佐竹が攻めてくるかわからないのだ。ホムセンの周囲に堀を掘って土嚢を積み、ちょっとした土塁を作り、その上に柵を立てた。守りを固めるため太陽電池で余裕がある範囲だが、監視カメラと電線に電流を流し、柵の上や土塁の底など各所は鉄条網を張った。
「工事にショベルカーなど使って燃料だいじょうぶですかね?」
と俺は尋ねると真田店長は
「ここは使いどきでしょう。」
と答え、結局二重の土塁に鉄条網を張り巡らせたちょっとした基地というか要塞のようになった。
真田店長の『こんな事もあろうかと。』はまだ続いた。
「鉄条網で侵入は防げそうですけど、いざ攻めてきたら槍やボウガンで戦うほかないので?」
「ふっふっふ、相馬先生、これはなんだと思います?」
「…って肥料ですよね。これ。」
「そう。肥料。肥料だけどその名を『硝安』というのです。」
「硝安?」
稲見薬局長がそこに助け舟を入れる
「硝安というのは硝酸アンモニウムで…アンホ爆薬という強力な爆薬の原料なのです。」
「マジで?」
「マジで。油と混ぜて使うのですが、そのままじゃ爆発しないので、花火を使って起爆装置を作って…こういうものが。」
と出てきたのは手榴弾であった。といっても米軍がよく使っているようなパイナップルじゃなくて元が鉄パイプ使っているのでドイツ軍の使った柄の先に缶が付いているようなM24型柄付手榴弾みたいな形をしている。
「信管は花火転用ですから信頼性は今ひとつなところもありますが、威力は抜群です!」
うん。松林爆破していたからわかる。燃え広がらないように予め放水していたけど結構すごかった。
「銃を作るのは…」
「流石に銃を作るのは色々難しくてですな。ゲフンゲフン。それよりは単純な構造ということでこの手榴弾を。」
「流石に難しいですか。」
「手榴弾だけでは心もとなかったのであとこれを。と言ってホムセンスタッフが引っ張り出してきたのは…」
「まさか迫撃砲。」
「おお、よくご存知で。そう迫撃砲です。打ち上げ花火の原理で飛ばして、雷管でドーン、と。普通の大砲やら銃は難しくてですな。雷管とか。これはあの運動会で使うスタートを合図するあのピストルの火薬を転用してバネで叩くようになってましてな。」
砲身とか作るの難しいよね。きっと。でもこんなもの凄いと言うかどう使うのよ。
「ひとまずそれらはおいておいて、土塁に対人地雷を複数設置しました。はっはっは。」
「地雷ですか!」
「そう。埋めちゃってわからないと使いにくいのでクレイモア地雷風で。風、なんで威力オリジナルほど出ませんけどね。ワイヤーとリモコン爆破のコンパーチブル式。」
…えげつねー。
と武器とホムセンの城塞化が進められていったのであった。
ホムセンの工事と整備を勧めながら、俺達は飯田村長に紹介されて近隣の寺、神宮寺に来ていた。飯田村長いわく
「神宮寺の住職は今所用でしばらく不在なのですが、その代わりに今滞在していて代役を努めている僧が天野殿に頼まれた件を引き受けてくださりましてね。」
「おお、我らにこの近辺の言葉や読み書きを教えていただけると言う。」
「わしから見るとどう見ても貴殿らは読み書きできそうなのですが…」
と村長。天野先生は
「いえ、我らは遠方から来たゆえどうも当世の習いには疎くてですな。教えていただけると非常にありがたい。」
「ならば。」
と村長の案内でホムセンから少し離れたところにある天台宗の寺、神宮寺を目指した。村長の話では俺達の異様な風体に近隣の寺は軒並み尻込みをしたのだが、その神宮寺の住職代理だけが乗り気だったというのだ。
しばらくして、俺達は神宮寺にたどり着いた。
「当寺で住職代行を務めさせていただいております、随風と申します。」
年の頃は二十代中盤であろうか。異様な風体の俺たちに興味を持っている、と言うからどちらかと言うと知的な物静かな僧侶が出てくるかと思いきや、言葉こそ丁寧であるものの…見た目はどうみても男○塾の江○島塾長みたいな豪傑である。随風…その名は俺の知識では頭に浮かばないがなんかこの人、心に引っかかるものがある気がする。
見た目では脳まで筋肉で出来ていそうな豪快な随風様であったが、その知識と教師としての腕前は確かなもので、俺達は交代で神宮寺に通ってこの時代の言葉やあのうねうねした書状の読み書きを随風様に教えていただいた。
数ヶ月もすると俺や勉強熱心だったメンバーは天野先生を介しなくても結構やり取りが出来るようになってきた。オタク軍団も特に歴ヲタの豊島氏を中心に
「こんな第一次史料ゲットのチャンスなどないですぞ!」
と嬉々として学んでいたが、ヤンキー軍団は小島団長(となぜか呼ばれるようになっていた)を筆頭としてほとんどのメンバーは、話し言葉は覚えたけど(むしろ訛りは近くて早く馴染んでいた。)
「うねうね読んだり書いたり勉強するのは御免こうむる。てか義務教育もない所でこれ以上勉強したくねー。」
と言って読み書きはやらなかったのであった。
随風様に読み書きを教えてもらうようになって間もない頃、天野先生は随風様にかねがね抱いていた疑問をぶつけた。今は一体何年か、と。
「永禄5年ですな。」
と随風様は答えた。
永禄5年…天野先生によるとそれは西暦に治すと1562年である。
「となるとあの第四次川中島の戦いの翌年で。上杉と武田の八幡平の死闘!」
と興奮した様子で歴オタ豊島氏が思わずシャウトする。天野先生は思わずたしなめて
「これ豊島くん、第四次川中島の戦いが本当にあのようなものであったかは研究上は明らかでないのですよ。」
「それは残念。でも。」
と豊島氏が言いかけた所で随風様が口を挟んだ。
「天野殿、第四次、かどうかはわかりませぬが拙僧、上杉と武田が信濃で戦うのは昨年見ましたな。」
え?という顔で天野先生は随風様の方を見る。
「豊島殿が知る川中島の戦いとはどういうものだったのですか?」
と随風様が聞いてきた。