…というお話だったのさ。
小田原征伐の後、佐竹氏は流石に領土が大きすぎたのか、常陸と南陸奥(相馬領を除く)150万石あまりの所領とされた。葛西・大崎などの諸氏の(本来だったら江戸期の伊達領)領地には木村氏でなく、史実だと会津に入った蒲生氏郷が封じられたのであった。
そして江戸には徳川家康公が入府した。その際忍者軍団の太田さんちの娘はつさんが見初められてしまい…はつさんは家康様の側室となり、お勝の方と名乗るようになった。そして太田角兵衛さんの息子の重正が江戸太田の名跡をついで大名になってしまったのである。
それから年月が経って関ヶ原の戦が起きた。会津は佐竹氏系の蘆名義広が収めていたため、蒲生氏郷の後に転封された上杉景勝の『利府征伐』が行われたのが引き金だった。
小田氏治公は徳川にはっきりと加勢したことが認められ、本領を安堵された。結果小田城を保ち、そこで寿命を迎えられたのであった。
そして俺たち手子生衆は真壁を引退領として与えられた浅野長政様の寄騎扱いとなった。
真壁城から江戸や駿府城に長政様が出向く時に俺も付きしたがって天海様や家康様と馬鹿話をして余生を過ごしたのだった。
…こうしてみるとちょっと変なのところはあるけれど、現代から戦国の世に潜り込んだ身としてはまずまずなんとかなったかな?と思いつつ、俺は晩年を過ごしたのであった。戦国の世に来てからもう50年になろうとしていた・・・。
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ホムセンが突然消え失せたその日、光の中から抜け出してきた家族がいた。
「…あれ?こんなところに山ってあったっけ?」
子供が指差したところには神社が建った小高い山がある。
神社の前の看板には「真田神社」
と書いてあった。説明には
「ここには安土桃山時代に数々の発明を作り出した武藤天千代の屋敷がありました。武藤天千代は真田氏の出で、子孫が幕府に願い出て屋敷の跡を真田神社としました。屋敷は徳川家康の命で武藤天千代の死後埋め立てられて山が築かれたと言われています。内部には当時の遺構が残されているとも考えられますが、幕府や幕府からの申し書きを引き継いだ政府によって発掘は固く禁じられています。」
「…ホームセンターじゃなかったけ?」
「とりあえず家に帰ろう…お、車はちゃんとあるな。」
駐車場の端に止めておいたせいか、家族の車は道路脇に残されていた。
車は何事もなかったかのようにエンジンが掛かった。家に帰ってテレビを付けると、ニュースが流れている。
「…夏を迎えた佐竹氏100万石の城跡、会津若松城では美しい星型土塁がお堀に映し出されています。」
「会津って佐竹氏?会津若松城って石垣でなかったっけ?」
「…天守も建ってたよね?あそこ?」
家族は微妙に違和感を覚えた。ふとスマホで地図を開くとつくば市の西側に大きな神田大明神がある。ちょうど手子生のあたりである。
「あれ?」
「何言ってるのよ。つくばの神田明神と言ったら将門公の娘五月姫が再臨して開いたって有名じゃない。」
一家の母親が言いだした。
あれ、そうだったっけ?と夫は思った。そう言われてみればそんな気もしてきて、違和感は気の所為、と思うことにしたのであった。




