大久保長安を招聘せよ
多賀谷重経とともに岡見氏の攻略を目指して栗林義長から逃げ回る日々を送る俺の所に常陸太田の佐竹義重様からお呼びがかかった。
…息子の義宣様ではないから謀殺はされないと思うが(佐竹義宣は行方三十三館謀殺など結構謀殺大好き)おっかなびっくり常陸太田を目指す。
ようやく常陸太田に着いた俺は常陸太田城の御殿に入り、広間で義重様を待つ。入ってきた義重様は上座にどっと座り、俺は平伏して
「お館様にあられましてはご健勝のこと喜ばしく思います。」
「堅苦しい挨拶はよせ、気楽にせよ。」
と義重様から声がかかる。
「さて今回は相馬典薬(俺)と旧手子生衆の豊島、織部、天羽などに来てもらったわけだが…貴殿ら、先の長篠での武田と織田の戦の顛末を聞いて『そんなバカな』と言ったそうだな。武田は我らの同盟国、その武田の首尾が気に入らぬのか?」
ちょっと冷や汗を垂らして俺は答える。
「い、いえ。鉄砲を多く持つ織田が攻めあぐねるとは思いませんでしたので…」
「確かに鉄砲の数では武田が劣っていた。しかしその鉄砲の陣地をうまく作る方法はそちらのやり方を真似たというではないか。世に武名が轟きかえって喜ばしいことではないのか?」
…義重様の顔、どこかニヤニヤしている。答えるのに正直困る。
「織田と武田の戦い、これで織田・徳川優位に傾いたかと思ったがまだわからんな。これまで通り武田とも友誼を保つほうが良さそうだ。」
「お言葉ですが。」
と天羽先生
「お館さま、武田は北条と結びつきが強いので、いざというときには北条の味方をするかと。」
「そこはうまく行かないかのう。」
「北条は下総飯沼に逆井城を改築して飯沼城を作りました。そこに風間一族を常駐させ、我らを探っております。」
と俺は北条康成あらため氏繁殿が作り上げた飯沼城について報告した。飯沼城は現代でも逆井城の名で復元され、戦国時代の城のリアルな姿を楽しめる素晴らしい城址だ。
更に北条氏は足高城、東林寺城、牛久城などの岡見氏の諸城を拡張し、交代で兵を在番すらさせるようになった。多賀谷重経(と俺たちが)それらの城を(栗林義長が不在の時に)攻め立てると北条の援軍がわらわらと湧いてくるのである。ひどいときには北条当主氏政の弟である氏照が登場するという豪華ぶり。
「うむ。それ故貴殿らが岡見を攻めあぐねていても今は静観しているのだが…」
と『余りノロノロ成果を挙げないと首を飛ばすぞ。』と言ったふうに睨む。怖い。
「ところでもとの話に戻すと武田と友誼を保っている現在、我らにとって利となることはないか?これを尋ねるために貴殿らを呼んだのだ。」
と義重様。
「それならば武田の配下の猿楽士、土屋長安というものを佐竹家に招けませんか?」
と豊島くん。『土屋長安って誰よ?』と俺が小声で聞くと『大久保長安ですよ。』と言われて旗と膝を叩く。
「大久保長安か!」
「その土屋だか大久保だかわからない奴は何者だ?」
と義重様が不審な顔で聞いてくる。
「大久保…じゃまだなかった土屋長安という男は金堀の専門家なのです。この佐竹の領地には多くの大久保,保内,栗山,山尾,瀬谷,部垂,金澤,八溝,胴坂,木葉下などの金山があります。長安を招けば生産量を格段に増すことが出来ます。」
「な、なぜそれを!」
と義重様の脇に控えていた佐竹義久様が狼狽える。
「よいよい、相馬典薬はあの飛加藤を配下に持っておる。その伝手でしっておるのだろう。」
と義重様、ちょっと目配せをしているのは『俺は違うのを知っているけどな。』といいたけだ。
「その長安とやらはそれほどの手練なのか。」
「はい。間違いありませぬ。彼に任せれば佐渡の金山を日本一にすることは容易…しかし武田の黒川金山はすでに枯れてきていて力量をふるえませぬ。」
「よし、典薬がそこまで言うのならば武田に長安を貸してもらうように頼んでみよう。」
…と佐竹から土屋(元の名字は大蔵)長安をしばらく佐竹に送ってもらえないか、との書状が送られたのである。
…しらばくして武田からの返事があった、とのことで俺はまた常陸太田に呼ばれた。
「典薬よ、その長安は長篠の戦のあとに勝頼と揉めて逐電してしまったそうだぞ。」
「なんと。」
「勝頼はそのような者のことを聞いてくるとは、とえらく立腹しておる。」
「あらまぁ。」
「で、その長安をどうすればよいのだ?」
「ならばおそらく長安は三河の国境近くに潜んでいるはず。」
「今度は三河か。」
「三河なれば最近徳川家康様と親しくしている江戸崎不動院の天海様が我らの旧知ゆえ頼んでみます。」
と比叡山での修行を終えて江戸崎不動院(と川崎喜多院)に来ていた懐かしの天海様に会いに行った。天海様は俺達との再会を喜ぶとともに徳川家康様に丁寧な書き添えをしてくださった。
そうして何度か書をやり取りした後、徳川家康様も『本当に役に立つようならこちらで必要になった時に送ってほしい。』との条件で長安を見つけ出して海路浜松から鹿島を経由して送ってくれたのである。
いきなり常陸に呼び出された土屋長安は義重様の前で平伏していた。そりゃ遠くの大名からいきなり名指しで呼ばれて意味がわからないだろう。
「そう緊張するな、長安よ。」
と義重様は声をかける
「そこにいる相馬典薬がお主が金堀りの匠と聞いて招くようにいったのだ。」
へ、という顔で俺を見る長安。うん。どっちかというとジャバ・ザ・ハットだな。さすが『ダラダラ長者』と呼ばれただけのことはある。
「ぜひこの佐竹領内の金山開発を手伝ってはもらえぬだろうか。それ相応の報酬は与える。」
「金山なら覚えがありますゆえ…よろしいでしょう。」
と長安は答えた。
「そうなると佐竹における長安の世話役は典薬、お主が。」
「いやそこは派手好き同士で多賀谷重経殿はいかがでしょう?」
と腰が引ける俺。
「多賀谷は下総から常陸の攻略で忙しかろう。」
「某もそろそろ栗林義長をなんとかできようかというところなのですが。」
「うーむ。ならば車丹波に任せる。」
と長安の世話を押し付けられてしまった猛将車丹波なのであった。
土屋の姓のままでは居心地が悪い、ということで長安は改名を望んだ。俺たちがうっかり「おおくぼちょうあん」と口走ったのを聞いていた佐竹義重様は長安を車丹波と親しい銃身の大窪久光の猶子として大久保長安ならぬ大窪長安が誕生してしまったのであった。
長安を佐竹に招くやり取りを経て、佐竹家と武田家は関係が悪化した。武田勝頼が『あの様な小物を重用しようとするとは佐竹義重恐れるに足らぬ。』と見下すようになったためだ。
逆に徳川家康様とは天海様を通じたやり取りもあって親密になり、徳川様の伝手で織田信長とも交流が広がったのであった。
大窪長安は金山総奉行に命ぜられると早速金砂郷などの金の産地に入り、猛然と働き始めた。
欲深いので有名な長安だが、金山総奉行の立場に燃えたらしく、灰吹法などの新しい技法を各鉱山にガンガン導入し、佐竹氏の金の産出量は跳ね上がった。
その事が佐竹財政にかなりの余裕をもたらした。
長安の活躍に加えてホムセンから広がった各種農作物、特にジャガイモとサツマイモは安定したカロリー供給をもたらし、佐竹は関東の中でも突出した豊かさを誇るようになってきたのである。
そんなある日、佐竹義重様から多賀谷重経殿と俺たちに命が下った。
「下総守谷城の相馬氏を攻略せよ。」




