7
その日は雨が降っていた。
まあ、雨が降ろうとも、お屋敷での仕事には殆ど影響がない。
メイドとっては、洗濯物を干す場所が屋内になる程度であり、骸骨たちはもともと全天候対応型である。
お嬢様は、メイドの手が空いている様子を確認すると、彼女を応接室に呼びつけた。
この部屋が使用されるのは、メイドが働き出してから初のことであり、彼女も場所だけは知っていたのだが、実際に中に入ったことはなかった。
「メイドよ、私に字の書き方を教えてくれ」
「字って、文字の字?」
「うむ」
お嬢様は、メイドが入室してきたことを認めると、開口一番に要求を告げる。
字と聞いてメイドは思わず聞き返す。
義務教育が当たり前だった彼女にとっては、読み書きは一般教養に過ぎず、それをわざわざ教えろと言われたのは中々に衝撃的な出来事だった。
「わかんないの?」
「読むことはできるのだが、書けぬ。ペンを持ったことすらない」
「まあ、学校とか行ってないもんね」
「学び舎など、私には通う必要の無い場所だからな」
確かに、お嬢様の境遇を考えると、別におかしなことでもなかったと思い直した。
そもそも、戸籍とか学区とかはどうなっているのだろうか、その辺りからも追求するだけ無駄に終わりそうな臭いがプンプンする。
「でも、あたしに上手く教えられるだろうかね?」
「アンズよりイモが安いと言うぞ?」
「うんうん、教育って大事よね」
突如として、教育の大切さに目覚めたメイドは、使命感に燃えながら、頭の中で教育プランを練る。
しかし、よくよく考えれば、お嬢様がわざわざ意気込んでお勉強などと、特に頑張る必要もないような気がする。
言ってしまえば、すべて人に任せてしまえばよく、お嬢様はこのお屋敷ならばそれが許される立場にあるからだ。
「でも、どうして急に字を書きたいなんて思ったの?」
「発せられた言葉は留めておけぬ。書き記しておかなければ霧消してしまう」
「まあ、録音とか録画とかそういうの縁遠い感じだしね。ここ」
「素晴らしい組み合わせや並びを思い付いても、明日には忘れてしまう事もある」
「何か書き留めておきたい事でもできたんですか?」
「それは今は伏せておく。まずは文字を綴れるようになる事が肝要だ」
どうやら後のお楽しみにしておきたいらしく、概要を教えてもらうことはできなかった。
お嬢様は、ただ凛とした表情で、決意でも固めるかのように言い放った。
彼女からは、思わせぶりな態度で答えを引っ張るような、卑しい思惑は感じられなかった。
お嬢様に何かしらの目的があり、それを叶えることが学習の原動力になるのであれば、応援のし甲斐もあるものだとメイドは思う。
つまりは、望みを叶えるために力を貸してくれと頼られているのだ。
「もともと読めるんだから、そんなに難航しないかな?」
「まず、何から始めれば良いか?」
「とりあえずは紙と鉛筆用意して、書きとりから始めればいいんじゃね?」
そして、その日から、お嬢様の猛特訓が始まったのだった。
とはいえ、文字の形状とその発音の対比は現段階で出来ているので、課題となるのはアウトプットの確立である。
お嬢様は、メイドに教わったとおり、お手本に沿って字をなぞったり、見本を真似てひたすらに書き写し、書き方を覚えていった。
メイドは折を見て、お嬢様の書いた字を見せてもらい、鏡文字になっていたり、線が不必要にはみ出したりしていないかを確認し、該当部分があれば指摘していった。
この勉強会は最初の日からずっと応接室で行われており、当面の間は執事の関知するところとはならなかった。
適度な高さのテーブルと椅子が据えてあるという理由で、お嬢様が選定した部屋であったが、偶然にも使用頻度が極端に低い部屋でもあり、執事も立ち寄ることがなかったためである。
定期的に部屋を訪れ、備品や調度品の整備をしていた執事だが、お嬢様の居る時間に鉢合わせたのは、彼女がそれなりに習熟した頃であった。
「おや? お勉強で御座いましたか?」
「うむ。メイドに字を教わっている。だいたい覚えたぞ」
「一体どういった風の吹きまわしで?」
「もう明かしてもよかろう。実は、詩を書いてみようと思っている」
そろそろ実行に移しても問題ないと自信を付けたお嬢様は、当初は秘していた自らの目論見を声高に掲げる。
「恐れながら申し上げます」
「何だ? 申してみよ」
「そのようなことはおやめください。それらは必ずやお嬢様に牙を剥くでしょう」
しかし、それを受けた執事は、その行為の危険性を示唆して、お嬢様に制止を求めた。
「どういう事だ?」
「近しい未来、必ずやお嬢様の御身に災いとして返ってまいります」
「ほう」
明言こそしないものの、それはまるで地雷か不発弾かという扱いであり、執事の鬼気迫る表情には、お嬢様もメイドもその心胆を寒からしめた。
「なぜそのようなことを試みようと思われたのですか?」
「このようなモノを見つけてな」
「ノート?」
「広間の額縁の裏に、まるで隠すように置かれていた」
それはB5サイズ、無線綴じの既製品らしきノートに見えた。
執事は驚愕の表情を浮かべてその冊子を凝視する。
「それは……まさか……」
「む? これを知っているのか?」
「そ、それは、えーと……呪われた禁断の魔書で御座います」
なにやら不穏な言葉が執事の口からこぼれる。
相当に物騒なものであるらしく、彼はもはや視界にすら入れてなるものかと、冊子から目を逸らすように床を見ていた。
「でろ・でろ・でろ・でろ・でんでん♪」
「お戯れはお慎みください、今すぐに手放すべきかと存じます」
「そんなに危険な代物なのか?」
「それを読むなど自殺行為に等しい愚行で御座います」
「読むとどうなるのだ?」
お嬢様は、無知ゆえの楽観視なのか、執事の纏う緊迫感などどこ吹く風で、興味津々の様子。
危険性よりも、何が起きるのかの好奇心に意識を支配されているようだ。
「その……い、古の呪いがその身を蝕むでしょう。命の保証は出来かねます」
「今のところは何ともないぞ?」
「まさか……読んでしまわれたのですか?」
「うむ。詩のようなものが綴られていた。だから、私もやってみたくなったのだ」
「あー、そういう……私は読んでないんで、安心してください」
そしてお嬢様が事の発端と共に、魔書の内容を暴露した。
彼女は、そのまま禁断の魔書を開き、呪いの影響を証明するかのように、その内容を読み聞かせる。
「<月に吠ゆる> 星屑降りしきる宵の丘 湖が内に望月を宿し……」
「あべし!」
「<主従> それは魂の足かせ 契りという名の手綱 絆という名の轡……」
「ひでぶ!」
「<花香る君へ> 君は言った 鉢よりも花壇が良いと 願わくば君の花壇は……」
「お、おやめください……後生に御座いま……ウボァー!」
執事は、まさに這う這うの体といった有様で、服の胸元を握り締め、額には脂汗を浮かべていた。
「どうした!? まさか、私ではなくお前に呪いが?」
「まあ、そういうことにしておいてあげましょう」
「なかなかに興味深いものではあるのだがなぁ」
「わたくしの身がもちません」
ただ事ではない執事の様子を目の当たりにし、ひとまず魔書を閉じて机の上に置くお嬢様。
しかし、未だ興味は尽きていないようで、視線は机の上に向けられており、難しい顔で顎に手を当てている。
「うーむ……この呪いとやらを転用できぬものか」
「これは人智の及ばぬ太古の術式によるもので御座います。不可能です」
お嬢様は、呪いが現実のものであるのなら、解き明かすには至らぬまでも、因果関係などの隙をついて、何とか利用できないかと勘案していたようだ。
執事は、それを真っ向から否定する。
お嬢様は、実際にその身に呪いを受けたわけではないので、やはり危機感なども伴っていない様子。
「てか、なんで処分しなかったのさ」
「処分する過程で人目に付く可能性を考慮いたしますれば……」
「まあ、お前に死なれるといろいろと不自由であろうし、封印しておくか」
「ありがたきお言葉、その心遣いに感謝いたします」
「ということで、私が厳重に保管しておく」
「え?」
こうしてお嬢様は、禁断の魔書をその管理下に置くこととなった。
それは少々厄介な性質を持っているようだが、毒も刃物も使い方次第だということを彼女は知っている。
軽々しく封を解くことはないだろうが、持っていればどこかで使うこともあるかもしれない。
しかし、もっと素晴らしいものを彼女は手に入れた。
自分で字を書くことが出来るようになったのだ。
このことはきっと、禁断の魔書よりも自らの役に立つだろうと、彼女は確信している。
そして、これからのことを考えると、いろいろと楽しみになってゆくのであった。