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湖畔に佇む荘厳な屋敷。
気位の高い、いかにもな主人が住んでいそうな立派な外観であり、縦格子の門扉の隙間からは庭園らしきものが見える。
有閑なマダムが茶会でも催しそうな立派な庭のようだが、時刻は黄昏時をとうに過ぎていて、その全景を把握することはできない。
所々庭園灯が設置されてはいるのだが、その数は少なく、暗い中で花々やトピアリーを照らすためというよりは、順路以外に踏み込まないように、道の判別のために最低限必要な照明という印象である。
そんなお屋敷の入り口で、屋敷への来賓にしては少々粗雑な服装の女性と、屋敷の関係者と思しき執事が話をしている。
「ではお仕事の説明をいたします」
「おう」
この女性、名を百相 歩といい、住み込みのメイド募集に応じた雇用希望者である。
彼女は、採用試験も面接も所持する資格の提示もないままに仕事の説明をと宣言され、内心では少々戸惑っていた。
実は、今に至るまでにも得がたい経験というものをいくつも味わっていた。
顔合わせかと思っていた待ち合わせ場所に馬車が停まっていたり、それに乗ったらどこをどう進んでいるのか見たこともない風景が車窓を流れていったり、下車したら自分の常識とは違うルールで生活していそうな豪邸が聳えていたりしたのである。
そこへ、だめ押しとばかりに執事からの唐突な仕事の説明というわけだ。
しかし、メイドというものにある種の憧れを抱いていた彼女は、これもメイドの嗜みなのだろうと深く考えないことにした。
「基本的には、お嬢様の身の回りの世話をお願いいたします」
「たとえば?」
「お召し変えや入浴、場合によっては話相手にもなっていただきます。」
彼女は、状況に即しているとはとても思えない、素の言葉遣いのままで応対してしまったことに焦るが、目の前の執事は何ら気にかける様子もなく話を続ける。
「ほんとにあたしでいいのか?」
「――と、申しますと?」
とはいえ不安がないわけではない。
現在の状況そのものが面接試験であった場合、応答次第ではこの場でお祈りの言葉を投げつけられる可能性も十分にある。
だからといって、この場を丁寧に取り繕って切り抜けても、そのうちに素の性格がポロリと出てしまうかもしれない。
素のままで勤まるのなら、それが最良なのだ。
それらを含めて今この場で確認を、いわば言質をとってしまおうと、このまま続行することに決めた。
「こんな立派なお屋敷に住み込みで働くのに、あたしみたいなガラの悪い女に務まるかってこと」
「子細御座いません。」
執事の弁によると、彼女の振る舞いには特に問題は無いらしい。
それならばと、このままの調子で接させてもらうことにする。
とりあえずの懸念は解消されたので、その次に気になることといえば、先ほど言われたお嬢様のことだ。
「で、そのお嬢様ってのは?」
「後ほど顔見せに同行していただきます」
「りょーかい」
執事が、終始にこやかだった表情を一転させて緊迫感を纏うと、今までよりも低い声で傾聴を促す。
「当家で働いていただく上で、いくつか注意点がございます」
「形式ばったことは苦手なんだけど」
歩は、やはり言葉遣いに関しての注意でも始まるのかと身構える。
できれば職務中もこのスタイルを貫き通したい。
雇われる立場にある者として、あるまじき身勝手さだと我ながら呆れてしまうが、そうでなくては長く勤める自信もない。
「そのような事ではありません。ですが、最悪、命に関わりますので厳守してくださいませ」
「メモとっていい?」
「必要ないと思われますが、不安なようでしたらどうぞ」
「うい」
どうやら、言葉遣いは本当にこのままで大丈夫なようだ。
しかし、彼女の中に別の懸念が生じてしまった。
命に関わる注意点があるとは、一体どんな職場なのだろう?と、彼女は再び身構える。
「まず、日中はカーテンを開けてはなりません」
「ん? あい」
「次に、銀でできた装飾品はすべて外していただきます」
「もってねーし」
「それから、満月の夜は何があっても部屋から出ないでくださいませ」
執事は、まるでそれらが常識であるかのように、淡々とした口調で注意事項を挙げていく。
その口振りからして、からかうような意図があるとは思えないのだが、歩にしてみれば何故それが注意事項になるのか得心がいかない。
「理由は聞いたらダメなの?」
「ご希望であれば、お話いたします。ただし、聞いた後で辞めるというのはご遠慮ください」
それは、彼女にとって、もっとも有り難い忠告だった。
聞いた後で辞めてはいけないとは、裏を返せば、聞いてしまえば採用確定ということに他ならないではないか。
「まあ、他に働き口ないし。聞いちゃおう」
「然らば……お嬢様は混血ですがヴァンパイア、わたくしはワーウルフでして……」
その理由は、あまりにも荒唐無稽なものであった。
確かに、彼女が書物やゲームを通じて得た知識とは合致している。
問題は、自分の上司となる立場の者が、それも大の大人がこんな世迷言を口にしたことだ。
しかし、執事の表情から冗談を言っているわけではないことが窺える。
窺えてしまう。
彼はイタい人なのだろうか?妄想癖の類なのか?彼が仕えているであろうお嬢様はどうなのか?同類なのか?おおらかな気持ちで許しているだけなのか?
彼女はものすごい速さで思考を巡らせ、かつてないほど神経を使うと、その反動で制御を離れてしまった口が、心の声を漏らす。
「……少しくらいトチ狂っててもお金もらえるならいっか」
「伊達や酔狂ではございません。聞いたからには勤めていただきます」
彼女にしてみれば失言ではあったが、それとカウントされることはなく、やり取りの一部として処理されたようだ。
「辞める気は無いよ。で、満月の夜はどうなるの?」
「満月になると完全に人狼となり、自制が効かなくなります」
歩は質問の仕方が悪かったなと思った。
自分の身がどうなるのかが知りたかったのだが、返って来たのは彼がどうなるかであった。
しかし、前後の内容から判断すれば推して知れるというものだ。
命に関わる注意事項と、自制が効かない月夜の怪物。
ホラー映画の定石といえる。
……事実ならば、であるが。
「お嬢様は?」
「新月の時は完全に人間、満月のときはその逆、それ以外は満ち欠けに比例いたしますれば」
「半月の時は半分人間、半分吸血鬼ってこと?」
「左様でございます」
結局のところ、信じようが信じまいが、そういう条件で雇われるということは理由を聞いた時点で確定している。
なので、今さらそこを気にしてもしょうがない。
ごっこ遊びがしたいのであれば付き合うし、給金をもらう立場である以上、それも業務の一環だというのなら勤め上げようと彼女は決めた。
そして、自室として宛がわれた部屋へと案内され、そこで支給された服に袖を通すと、部屋を出て執事に声をかける。
いよいよお嬢様のところへ向かうのだという。
執事の案内に従って廊下を歩くと、途中で何度か階段が目に入った。
彼女の実家にも階段はあるが一つだけである。
このお屋敷と、一般的な民家であった自分の実家など、比較するのも妙な話だが、それだけ建物としての規模が違うことはわかる。
そんなことを考えているうちに、どうやら目的の部屋へとたどり着いたらしい。
執事が豪奢なドアをノックし、室内の人物から入室の許可が降りるのを待つ。
「ん、入れ」
鈴を転がしたような声に、入室を促される。
歩は、この声の主が先ほどの話に出てきたお嬢様なのだろうと確信し、どのような挨拶をするべきかと内容を考え始めた。
「失礼いたします」
「礼を失するのであれば入るな」
「……では後ほど」
「あー待て待て! 大目に見る! だからつれない事を言うでない」
執事がドアを開け、入室を宣言したところで、お嬢様に揚げ足を取られた。
しかし、彼がそのまま言葉通りに応対すると向こうから折れてきた。
「まったく、何度目でございますか? 今度同じことをやらせたら噛み千切るぞド低能」
「それで、用件は?」
「今日から働いてもらうメイドをお連れしました。お目通りを。」
「ほう」
存外汚い言葉を吐いた執事を、思わず二度見してしまう歩。
聞き間違いかと思わないでもなかったが、状況に即した空耳候補は思い当たらない。
だが、彼が咎められる様子はない。
彼女は知る由もないことだが、ここではそれが平常なのだ。
次に、お嬢様と思われる少女へと視線を移すと、そこには絶世の美少女が鎮座していた。
まさに、お人形さんと呼ぶに相応しい美少女を目の当たりにし、歩は決意する。
値千金の自己紹介を披露して、自分のことを覚えてもらうべきであると。
「お控えなすって」
「は?」
「お控えなすって」
「おい、これはどういう事か?」
「さあ? わたくしめにも皆目……」
「お控えなすって」
中腰になり、手のひらが見えるように右手を下から出し、同じ言葉を繰り返す歩。
「とりあえず、控えればよろしいのではないかと存じます。」
「ふむ。では控えるとしよう。」
「早速、お控えくだすって有難う御座います」
「どうやら正解だったようだぞ」
「左様で御座いますね」
意を得た執事が控えることを進言し、お嬢様がそれを汲むと状況が進行していく。
「手前、粗忽者ゆえ、前後間違いましたる節はまっぴらご容赦願います」
「まだ続くのか?」
「向かいましたるお嬢様には、初のお目見えと心得ます」
「初めまして。と、言っているようで御座いますね」
「ほう」
聞き慣れない言葉遣いに対し、お嬢様の理解度を危惧した執事は、誰に乞われるでもなく通訳の真似事を始める。
「何処、何処方におりましても、兄さん姉さんには世話になりがちな若輩者でござんす」
「自らの至らなさを誇張気味に暴露しているものと思われます」
「ほう」
「以後、見苦しき面体お知りおかれまして、恐惶万端引き立って宜しくお願い申します」
「ほう?」
やり遂げた顔を浮かべる歩と、満足気に目を閉じて何度も頷く執事。
お嬢様は、二人とは対照的に、理解が追いつかず困ったような顔で、自らの内に浮かんでは弾ける疑問符を整理しようと試みていた。
「時に、我が忠実なる下僕よ」
「は、お傍に」
「お前、いったい何を連れて来た? この駄犬」
「は、メイドに御座います。先刻申し上げました通りです。この鳥頭」
「お前の目にはこれがメイドに見えるのか?」
そして、お嬢様より投げつけられる最大級の疑問符。
彼女自身は、メイドの生態に明るいわけではない。
しかし、目の前に居る女性と、メイドいうものを等号で結んではならぬと、何かが必死に彼女へと訴え掛けているのだった。
「制服は支給したものではございますが、エプロンにキャップ、まごうことなきメイドかと」
「…………」
執事はそう主張した。
黒いクラシカルなロング丈のエプロンドレスを纏い、メイドキャップを被ったこの女性は、メイド以外に形容すべき言葉が存在しないのだと。
「とりあえず、お嬢様もご挨拶を返すべきかと存じます。」
「そうか? では、よろしくお願いするぞ」
「よろしくお願い申し上げます」
そして、お嬢様は納得した。
支給の制服はブリムではなくキャップ