34.カーラントの若木
「……カーラント!?」
少しの間を置いて、ディルは驚愕に跳び上がった。
「まあ、良い反応だこと」
「無礼な」
口許に手を添え、楽しげにくすくすと笑うオリスと、険しい表情で眉を顰めた侍女の声が重なる。
ディルは首を竦めた。
「ご、ごめんなさい……。でも、カーラントって、グネモン侯爵……さま……の?」
恐る恐るの質問に、オリスはあっさりと答える。
「グネモン卿はわたくしのお祖父さまよ」
彼女の言葉にディルは悲鳴をあげそうになるが、咄嗟に、また隣に座る侍女から非難の目を向けられるであろうことに思い至り、無理やり声を飲み込んだ。
(どうして!? どうしてカーラントの姫様が? このひとたち、ヴィーと関係ないの!?)
あの若者の質問から、てっきりヴィーが寄越した迎えなのだと思っていたのに、まるで真逆の相手ではないか。
ヴィーによってどうにかグネモン卿の許から解放されたのはつい昨日のことである。それがなぜ今、その孫娘という姫の馬車に乗せられているのだろう。
再び敵の手に落ちたようなものではないか。
ディルの顔は蒼白になった。
「あら、まるでお祖父さまを見知っているような態度ね。ソーン邸の使用人と思ったけれど、違うのかしら?」
「そう、です……けど」
昨日から、とディルは心の中で付け足す。
「そいつ、昨日お祖父様の屋敷で見たよ」
不意に馬車の外から声が掛けられ、ディルは驚いてそちらを見た。
「えっ、あ……」
先ほどの若者がいつの間にか、騎乗して馬車と並走していた。もっとも、一行のほとんどが徒歩の兵であるうえ、貴婦人を乗せた馬車は昨日ヴィーと乗ったものに比べてかなりゆっくり進んでおり、若者の乗騎ものんびりとした歩調で蹄の音を響かせている。
先ほどディルを狙う男の前に立ち塞がった彼は、歳若いながらも毅然とした口調に落ち着いた身のこなしで、ずいぶんと大人びて見えた。しかし今こちらに向ける表情は不審や敵意を隠そうともしない、むしろ少年じみた顔つきで、その差にもディルは戸惑う。
そもそもなぜ、助けてくれたのにそんな目で睨まれるのか。……いや、自分がソーン邸の関係者である以上、カーラント家の人間からすれば敵であることは確かなのであるが。
「まあリディ。そうだったの?」
オリスが目を見開く。
「ソーン卿が連れてらしたよ。なにお前、覚えてないの?」
「……あっ」
若者の言葉に、ディルはまじまじと相手の姿を見て、小さく声をあげる。
あれはヴィーと共にグネモン卿の前から退出し、屋敷の外へ向かう途上でのことだ。ヴィーと何やら挨拶を交わした少年がいたことを、今更ながら思い出す。リード様、とあの屋敷の家令がヴィーに紹介していたか。
こんなところにカーラント家の関係者が現れるなどと夢にも思っていなかったディルには、その記憶と目の前の若者はまるで結びつかなかったのだ。
(ヴィーとこのひとが何の話をしてたのかも覚えてない……)
ディルは気まずさに冷や汗を掻く。
もっとも、仮にあのとき注意して聞き耳を立てていたとして、内容を理解できたとも思えないが。
「あのあと家令に聞いたけど、お前、お祖父様に捕らえられてたらしいな」
胡乱な目線を寄せられ、ディルはさらに身を固くする。そこまで知られているなど、どう考えてもまずい。
「捕えられて!? こんなに小さな子がいったい何をしたというのかしら」
オリスは身を乗り出し、侍女はまぁ、とますます眉を顰めた。ディルは自分を取り巻く状況がどんどん悪化していくことに泣きたくなったが、そこでリードが肩を竦めて言う。
「そこまでは知らない。家令はお祖父様が保護なさっていた、なんて怪しげな言い方してたけど、拘束してたのは確かみたいだよ。ソーン卿がわざわざ迎えにいらしたうえに、その後お祖父様が憤慨なさっていたことを考えても、保護よりは軟禁の方が正しいんじゃないかと思うな」
あっさりと祖父への疑惑を口にするリードにディルは内心驚いた。しかしオリスもまた右手を頬に当て、妙に納得した顔で頷く。
「お祖父さまのなさることですもの、確かにそう考えた方が自然だわ。……ということはやっぱりお祖父さま、また企み事をなさっていらしたのね」
「企み事をなさってない時なんてあるの?」
「無いわね……」
呑気な口調で語るふたりだが、そんな彼らに侍女が顔を顰めた。
「またそのようなことを仰って! この者が不心得な行いをして、旦那様のご不興を買ったに違いありません!」
しかしグネモン卿の実の孫たちは同時に首を振った。
「それは考えにくいわ」
「違うと思うな」
異口同音に否定され、侍女は更に言い募ろうとしたが、オリスがそれよりも先に言葉を続ける。
「たとえこの子が悪さをしたのだとしても、その程度のことでお祖父さま直々に動かれるなんてことはないわ。騎士の誰かに任せれば十分だもの」
理路整然とした反論に、侍女は口を噤まざるを得なくなる。
「……あ、あの」
ディルは意を決して口を開いた。
全員の視線が一斉にこちらに集まり、ディルは緊張しながらおどおどと言葉を続ける。
「おれ、これから……どこに……? その……これ、侯爵さまの命令じゃないんですか?」
あの場から自分を連れ去ったわりには、こちらが何者か、オリスもリードも分かっていない様子だ。そのうえ先ほどのグネモン卿についての会話からして、彼らが祖父の指示で動いているようにも感じられず、ディルは訳が分からない。
「あら」
彼の問いにオリスが口許に手を当て、侍女は言わぬことではない、とばかりにため息をついた。
「ほら、姫様もリード様も、御覧なさいませ。お口を慎まれないからこの者が余計な詮索を始めたではありませんか」
従姉と共に非難がましい視線を向けられたリードは、しかし平然と答える。
「別に構わないよ。疑問に思うのは誰だって当然だからね。ただ、私たちにはこいつの質問に答えなければならない義務は無い――まあ、要するに教えないってこと」
最後自分に向かって突き放すように加えられた一言で、真正面から回答を拒否されたディルは、情けない顔で眉根を寄せる。
リードはそんな彼から視線をオリスに移すと、真顔で言った。
「オリー、平民の子供だし無害だろうと思ってるのかもしれないけど、君から言われたあの質問に答えたのはこいつだよ。つまりこいつはある程度教育を受けていて、私たちの会話を多少なりとも理解できる頭を持っているってこと。私も――はじめは今回の『標的』があの下男風情の男の方でなくて良かったって思ったけれど、むしろこいつの方が厄介かもしれない。お祖父様のように牢に放り込んでおければいいけど、それは駄目なんでしょ? だとすると余計な情報を与えないようにするのは難しいよ。ほんとうに屋敷に連れていくつもり?」
オリスは口を噤み、真剣な表情のリードの目を見返す。その眼差しに凛とした光を湛え、彼女は答えた。
「ええ、連れていくわ。わたくしはこの子を離れた場所で適切に管理できるほど、たくさんの人間を動かすことはできない。かと言ってわたくし自身が屋敷から出て直接この子を監視するのも無理だもの」
オリスはこれまでのはしゃいだような様子を引っ込め、真摯な面持ちで言葉を続ける。
「それでもこれはわたくしが命じられたこと――つまりわたくしの責任において全うしなければならないことなの。……それはあなたたちも理解してくれているでしょう?」
そう言って、彼女はリードと侍女の顔を順に覗き込んだ。どちらも否定はせず、小さな頷きを返す。
「リディの言う通り、難しいことになりそうだということは分かったわ。でも、この子についてどうするかは、わたくしが決めます。――リディ、あなたは父上に仕える身だけれど、協力してくれるかしら?」
彼女のあらたまった問いに、リードは背筋を伸ばして力強く答えた。
「もちろん! それこそ、主の姫に尽くすのは騎士たる者の使命だもの」
彼の顔が誇らしげに輝く。
「私の力及ぶ限り君を助けるよ。我が姫君」
リードの溌剌とした表情と言葉に、傍らで見守る侍女も目を細めた。
それは、移動中の馬車内とそれに並進する馬上という状況でなければ、オリスの手を取り、面前に跪いたうえで捧げられたであろう誓言だったが、リードの口調には気取った様子も気負いもない。従姉から頼りにされたことへの喜色は表しつつ、その態度はあくまで実直なものだった。
先ほどの荒事を難なく収めてみせた手腕と言い、彼が成人前という年齢に似合わぬ経験と実力を持ち合わせているのは確かである。
しかしそんなリードを見つめる当のオリスの瞳が、なぜか哀しげに揺らいだ。
「……オリー?」
気付いたリードは怪訝な顔で、黙り込んでしまったオリスを覗き込む。しかしすぐにオリスはかぶりを振り、静かに微笑んだ。
「なんでもないわ。――ありがとう、リディ」
リードはもの問いたげな目を彼女に向けるが、すでにオリスの表情から先ほどの翳りは消え去っていた。
完全に会話から外されてしまったディルは所在なさげに彼らを見上げていたが、誰もこちらに注意を払わないので仕方なく顔を戻す。
(おれ……結局どうなるの? お屋敷って、どこのお屋敷なんだろう)
視線を自身の足元に落とし、ディルは心の中で問う。自分の質問には何一つ答が得られなかったことが、ディルの心に重苦しい影を落とした。
まさかグネモン卿の屋敷に連れていかれるのでは……そう思うと恐ろしくて居ても立ってもいられない心持ちになったが、だからと言ってここから逃げてソーン邸に戻れるかというと、そこにもまた先ほどのような危険が待ち受けている。
心細さに膝の上に置いた両拳をぎゅっと握り締めた。すると俯いた視界に映る胸元に、縄の切れ端がぶら下がっているのに気付く。あの男に巻かれた縄が、まだ首に掛かったままだったのだ。
締め上げられた恐怖を思い出し、ぞっとしてその縄に手をやると、いつの間にかこちらの様子を観察していたらしいリードが馬上から声を掛けてきた。
「外したら? それ」
言われるまま、両手で首のあたりの縄を掴む。上にずらして頭から外そうとしたが、顎で引っ掛かってしまった。
不器用な手つきで首周りの輪を広げようと引っ張るが、力を入れるとかえって縄が絞まってしまう。ディルは焦った。
「大丈夫かしら?」
オリスは心配そうにこちらを見遣り、リードは呆れた顔をする。
「あーあ、ただ引っ張ったって取れるわけないだろ」
しかしディルはどうしてよいか分からない。
見かねた侍女が仕方なく手を貸そうとしたが、既に固く締まってしまった縄は容易に解けず、ディルは苦しげな息を漏らす。
そんな馬車の中の悪戦苦闘に、リードはため息をついた。
「しょうがないな、ちょっとじっとしてろ……あっ!」
自身の腰に手を遣るなり、リードは大きな声を上げる。
「リディ? どうしたの?」
オリスが驚いて彼を振り返ると、リードは慌てた様子で答えた。
「短剣! 投げたまま拾ってくるの忘れてた!」
しばしオリスは思案顔で小首を傾げたが、蒼白になった従弟の顔つきを見て何かに思い当たる。
「……もしかしてお祖父さまから拝領した?」
「そう! いきなりこいつが首絞められてたから……咄嗟に投げてこの縄切ったんだ。しまったな……」
言いながらリードは急いで剣帯に取り付けていた小刀を抜き、身を乗り出して器用にディルの首の縄を切る。そして小刀を元の場所に収めると、馬首を返した。
「戻って拾ってくる。すぐに追いつくからこのまま進んでいて」
次いで自身の傍らに随行していた一人に声を掛ける。
「ケイパー、オリーを頼む」
そのまま駆け去ろうとしたリードを、しかし指示を受けた相手は制止した。
「リード様、お一人で向かわれてはなりません!」
彼は先ほどディルを運んできた兵だ。どうやらただの兵士ではなく、リードの従者らしい。その証拠に彼も隊列に戻ってからは騎乗していた。彼は他の兵の一人に声を掛け、それからリードを追って進路を変える。
「私のことはいいから!」
リードは叫んだが、ケイパーは承知しない。
「あちらは他の者に任せます。それよりソーン卿のお屋敷の周囲を単身で探ってはかえって不審です。貴方にもまた、お立場があることをご自覚ください」
冷静に言われ、リードは仕方なく彼の随行を受け入れた。
「ああ、なんて失態だ……ソーン卿の領域にカーラントの剣を落とすなんて」
落ち込むリードに、並走するケイパーは気遣わしげな表情で言った。
「先ほどはあのように申しましたが、此度のことに限っては、仮にソーン卿の知るところとなったとしてもさほど問題にはなりますまい」
「それはそうかもしれないけど、よりによってオリーの前で……」
そちらの方か、とケイパーは納得し、そっと苦笑した。
「貴方はよくやっておいでですよ。姫君からのお話自体が急であったというのに、きちんと役目も果たされているのですから」
しかしリードの表情は晴れない。彼はしばし考え込んだのち、口を開いた。
「それなんだけど……。このところ引っかかってることがあって」
「はい?」
ケイパーの相槌を待って、リードは軽く眉根を寄せて続ける。
「……オリーって、私が騎士らしく行動すると変な顔するんだよね」
ケイパーは驚いたように眉を上げた。
「リード様がご立派になられたことに戸惑われているだけでは?」
相手の言葉に、リードはうーん、と難しい顔で天を仰ぐ。
「……それが、どちらかと言うと……がっかりしてるように見えるんだよね……」
ケイパーは目を瞠り、そんな馬鹿な、という言葉を辛うじて飲み込んだ。
リードが駆け去った馬車の内で、オリスは彼が消えた方角を眺めてふふ、と小さく微笑む。
「大切な短剣を投げてしまうなんて、リディも焦っていたのね」
「それは無理からぬことでしょう。まさか到着前からあのようなことが起こっているなど、姫様のお話からは想像できなかったはずですわ。むしろ咄嗟に助けに入られたリード様はおさすがです」
すぐさまリードの擁護に回る侍女に、オリスは唇を尖らせた。
「わたくしの説明が悪かったように言わないでちょうだい。これはきっと、誰かがことを読み違えたか、あるいは予測から外れた行動に出たのよ」
そう言って、オリスはちらとディルを見る。ディルは直感で、「予測から外れた行動に出た」のが自分であろうと察して縮こまった。
どのような経緯にせよ、彼らが、ヴィーに言われた道を使った自分を待ち受けるつもりだったのは間違いない。そして、ディルが本来とは異なる目的であの場に近付いたために、誰もが予想しない早い段階で、例の木戸に駆け込むことになってしまったのは確かなのだ。
「……間に合って良かったわ。ほんとうに」
目的地でただならぬ事態が発生しているのを目にするなり、リードは猛然と駆け出していった。そんな従弟の後ろ姿を思い返し、オリスは小さく呟く。
「それはそうと姫様」
彼女の回想を遮るように、侍女が固い声で切り出した。
オリスは口を引き結んで振り返る。オリスの使命そのものには興味が無いが、彼女の一挙手一投足は注意深く監視――もとい、見守るこの相手が、次に口にするのが何らかの苦言であることは分かりきっていた。
「リード様が頼もしく振る舞われるたびに、あからさまに残念そうになさるのはお止めなさいまし。助力をお願いしながら、あんまりでございますよ」
常日頃、彼女のお説教は適当に聞き流すオリスであったが、このときはしばし表情を消して相手の顔を見つめ、やがてふいと目を逸らした。
「……そうね」
外の景色を遠い目で眺めながら、ぽつりと答える。
反応のあまりの手応えの無さに、ほんとうに分かってらっしゃるのだか、と侍女は嘆息する。
(だって、他にどうしようもないのだもの)
彼女を横目に、オリスは心の中で独り言ちた。
無邪気にこちらを慕う眼差しの中に、少しずつ異なる色の熱が混じるようになったのは、いつの頃からだったか。
(ほんとうは、こんなわたくしがリディを頼るべきではないことも分かっているわ。でも、今のわたくしに何の力も無い以上……ほかに方法が無いの。彼の想いを使い捨てにするしか)
そこまで考えて、オリスは内心で自嘲気味に笑う。
(他者の好意を絡め取り、利用し尽くす――わたくしって、立派にカーラントの人間なのね。結構なことだわ)
「何も無い……」
先ほどのソーン邸の土手に立ち、辺りをぐるりと見渡しながらリードは呟く。
まばらに生えた草を、穏やかに吹き渡る風が揺らす。王都の、それもこれほど王宮に近い場所だというのに、人気の無いこの一帯は静まり返っていた。
見当たらないのは目的の短剣だけではない。彼が指を斬り落とした男も、その血痕も、あのディルという子供と揉み合った足跡すら消えていた。
この短時間でこんな真似ができるのは、屋敷の手の者だけだろう。つまりこの屋敷の主は、今回の件を「無かったこと」にしたいのだ。
(ということはいよいよ、短剣を取り戻すのは難しいかな……)
リードが暗澹たる気持ちでそう思ったとき、
「リード様!」
数歩離れた場所で地面を探っていたケイパーが、警告するように叫んだ。その目線はこちらの肩越しの向こうに据えられている。
はっとしてリードは顔を上げ、剣の柄に手を遣りながら背後を振り返った。
いつの間にか、一人の男がそこに跪いていた。リードからは、剣を抜いたとしてもわずかに届かないであろう距離を保っている。
平民の使用人といった様子の服装に身を包んだ中年のその男は、驚くほど完璧に気配を消して現れた。それは、この近くのどこかにあるであろう隠された出入口の場所を、こちらに覚らせないために違いない。
(これが噂の『リリーの草』か)
リードは内心の驚愕を押し隠し、静かな眼差しで油断なく相手を見下ろした。ケイパーが小走りにやってきて、すぐ後ろに控えるのを足音で把握しながら、リードは口を開く。
「ソーン伯爵邸の者か」
問われた相手は頭を垂れた。
「……は。畏れながら、次期リンデン総督、カーラント家縁のリード・バーレイ様でございますね」
低く武骨な声だが丁寧な口調で、リードの名を口にする。
リードは否定はしなかったが、かといって明確に肯定もしなかった。相手がどういうつもりでここに現れたかがまだ分からないからだ。
彼の沈黙を答と受け取ったのか、相手は恭しい手つきで何かを差し出した。
「こちらをお預かりしておりました。主より、お返しするよう申し遣っております」
それはまさにリードが探していた、カーラントの紋が刻まれた短剣だった。鞘が無いため、刀身は革の端切れで丁寧に包まれている。抜き身のまま差し出すのは、元来敵対する家同士の間柄ということもあり、敵意が無いことを表すためにも避けたのだろう。
リードとケイパーは互いに目配せをする。心得たケイパーが進み出て、相手からそれを受け取った。
彼を介して手渡された短剣をリードは念のために検分し、間違いなく自身の物であることを確かめると、ようやく口を開いた。
「忝い。手間を取らせてしまったようだ」
素直に謝意を伝えると、相手の男はかぶりを振る。
「とんでもございません。主は此度のご助力に感謝の意をお伝えしたいと申しておりました」
「私は我が主の姫の意向に従ったまでのことにて、お気遣いはご無用と伝えられよ。また、こちらをお返しくださったことについては、深く御礼申し上げる、とも」
男は深く頷き、神妙に答えた。
「承りました」
「――では、これにて失礼する」
リードは踵を返し、足早にその場を去る。
土手下まで降り、路上で待たせていた自身の馬の手綱を取りながら、半ば無意識に先ほどの場所を見上げたが、当然のように男の姿は消えていた。
鞍に跨り、来た道を急ぐ。もっとも、昼日中の王都で大仰に馬を飛ばすわけにもいかず、逸る心を抑え、速歩で進んだ。規則正しい揺れが全身に響く。
すぐ後をついてきたケイパーが彼の横に並び、馬の歩調を合わせながら話し掛けてきた。
「短剣をお返しくださったのですし、もう少し懇ろに使者に対応されてもよろしかったのでは?」
リードは固い表情で首を振った。
「オリーを野放しにはできないよ。それに私もオリーも、ソーン卿に何かを依頼されたわけじゃない。そこを履き違えるとオリーがカーラントの中で面倒な立場になってしまう。お互い知らぬふりで通すのが最善のはずだよ。だいいち――私はソーン卿とあんまり関わりたくないんだ」
ケイパーは意外そうな顔をする。
「昨日はわざわざ足を止められて、リード様にお声掛けくださったではありませんか。お若いのに大変温厚な方であらせられたような……」
「温厚、は否定しないけどあの方、絶対それだけじゃないよ。あのお祖父様に煮え湯を飲ませるような方だよ? 何の策も無しに単独で近付いていい相手じゃないと思う」
ケイパーはなおもリードの慎重な態度に不思議そうな顔をしていたが、年若い主の珍しく頑なな表情に、ようやく引き下がった。
「……お考えあってのことであれば、何も申し上げますまい」
「最低限の礼節は守ったつもりだよ。――そういうわけでね、私はそのソーン卿と個人的な繋がりがありそうな、あのディルとかいう子供のことも警戒している。本当はオリーに近寄らせたくないんだけれどね……」
「難しそうなご様子でしたな」
苦笑交じりにケイパーが言うと、リードは大きなため息をついた。
「なんでオリーなのかな……あの書簡を見せられてもまだ信じられない気分だよ」
「そう仰いますな。王妃様には深いお考えがあるのでしょう」
「そうかな……? 密命だっていうのにソーン邸までついてきてさ。いくらオリーの寄り道癖が日常茶飯事だと言ったって、兵の誰かの口に登ればおしまいじゃないか」
「……その心配はご無用かと」
含みのある口調でケイパーは言う。リードは意外そうな顔で彼を見返した。
「どういうこと?」
「姫君の護衛のあの一隊……彼らは全員、熱心な王妃様の信奉者です。ひとかたならぬご恩を受けた者や、お人柄に心酔した者など……。あの方のご意向である限り、彼らはたとえ目を抉られ鼻を削がれたとて、口を割らぬでしょう」
リードは我が耳を疑い、思わず馬の手綱を引く。彼の馬は歩調を緩め、やがて停止した。
「リード様?」
ケイパーが怪訝な声を掛けつつ、主人に合わせて自身の馬を止める。リードは呆然と言った。
「……なぜそんな集団がオリーに!?」
「詳しい経緯は存じませんが……王妃様がお輿入れされ、直接お仕えすること叶わなくなり悲嘆に暮れていた者たちをデーツ伯爵家が引き取り、後年オリス様付きとされたのです。オリス様は王妃様に目を掛けられておいでですから、王妃様のご意向であった可能性はあります。……もしやすると、こういうときに備えてのことであったのかもしれません」
自分の説明に納得した顔つきで語る彼に、リードの顔から血の気が引く。
「オリーは知ってるの!?」
「ご存知かと。聡明な方ですから、そうでなければさすがにこのようなことはなさらないのでは?」
リードはにわかに疑念に満ちた目付きになり、ケイパーを見た。
「……もしかしてお前もその一派なの?」
彼はリードが伯父であるデーツ伯に仕えることになった際、リードに付けられた従者である。
ケイパーはさっと目を逸らした。
「そのようなことは……」
否定する声音はいささか弱々しい。リードは確信した。
別にそのことが悪いとはリードは思わない。他者に誠心を抱く人間のほうがよほどその人柄に信を置ける。
ただ、その対象があまりにも強力な存在である場合――。
リードはそこで一度思考を止め、気まずい沈黙を振り払うように小さく肩を竦めた。足を止めて考え込んでいる場合ではない。
「……行こうか」
ケイパーに対して深くは追及せず、リードは再び馬を走らせた。
緩やかに流れる王都の景色を横目に、リードは黙したまま従姉の馬車を目指す。元から心の中に渦巻いていた不安が、より明確なものになるのを感じた。
(……オリーはどこまで承知で動いてるのだろう。もちろんこの国で王妃であられるパースレイン様の命令に従うのは当然だ。けれど……)
祖父を宗主に戴くカーラントの中に、祖父の意向を無視して王妃が意のままにできる勢力が生まれようとしているのではないか。
(パースレイン様がカーラントに不利になることをなさるはずがないと思うけど、でも……あのソーン伯が絡んでるというのがどうしても気に掛かる……)
それが理屈ではなく、ただの印象から来ている感情でしかないことは分かっている。だからこそ尚更、得体の知れない恐ろしさにリードは身震いした。




