15.光(前編)
エフェドラ。
最近耳にするようになった国の名前だ。
それも、カンファーの東側に横たわる山脈、ピレスラムを挟んだ向こうにある、別の大陸の国。
エルム人の子供にしては珍しく、ディルはその隣の大陸ニゲラが、エルムとはまるで別世界であろうことを感覚的に知っていた。なぜなら、自分自身がニゲラ出身の賊にしばし捕らわれ、使役されていたためだ。
ディルを捕らえていたのは山脈を越えてすぐにある、ジヌラという国から逃げてきた男たちだった。なぜ逃げてきたかと言えば、エフェドラに国を奪われたからである。
彼らは自分たちエルム大陸の人間とは異なる言葉を話し、聖者バルサムを知らず、どうやらまったく違う何かを信仰しているようだった。男たちのひとりが辛うじて片言のエルム語を話せたので、若干の意思疎通は図れたものの、他者が当然のように自分の理解できない音の羅列を発し続けるさまは異様で、ディルにとっては一種の恐怖だった。
そんな場所、いや、さらにニゲラの奥深くに、ディルを送るとグネモン卿は言ったのである。
そこでカーラントの草となるべく学べという。
元々エフェドラと繋がりが深いらしいカーラント家は、その支援のもと、一族に仕える草の一団を組織した。しかし現状、全員がエフェドラ出身者――つまりカンファー人でもなければエルム人でさえない。賊の掃滅といった任には支障がなくとも、何かの折に目につく可能性がある。草という存在の役割を考えれば、それは致命的な弱点と言えなくもない。
「まあ、草が我らの手足のすべてではないが、先々を考えればこの国の人間を同じように仕込みたくてのう。だが人選に難儀しておったのだ。そこらの何の学もない孤児を捕まえて言葉も通じぬ彼の地に送り込んだとて、ろくな結果は見込めぬ。――そこにお前の話が耳に入った。書記見習いであれば学びが何たるかを知っておる。それに加え、恐怖の只中にあってもなお動かせる手足と頭を持ち、意志を持って勝機を手繰り寄せる子供……。身体能力は未知数だが、そこに目をつぶればお前ほど適任な者はおらぬ」
流れるように滔々《とうとう》と語られ、ディルは口も挟めず呆然と老人の顔を見つめた。
(どうしよう……どうしよう。そんな遠くに連れていかれたら、いくらヴィーだって……)
本当は、このグネモン侯爵家からどうやって自分を連れ出すのかさえ疑問だった。ただ少なくともここは、ヴィー自身が予測した自分の行先のひとつである。
しかしエフェドラなどに連れていかれてしまったら、もはや、ヴィーがディルを見つけることなど不可能だろう。
一度は疑念の中で見失いかけたヴィーを、それでも信じようと決めたのは自分だ。
だから、エフェドラには行けない。
忽然と王都から消えた自分を、ヴィーにあてもなく捜させるようなことになるのは嫌だ。
……とはいえ、グネモン卿に逆らえるのか。本来ならこうして対峙することも有り得ないような相手である。
(でも……でも、言わなきゃ……!)
少なくとも自分の意志は、口にしなければ伝わりようがない。
「あの」
意を決してディルは口を開いた。
何を考えるのか知りたいと言っただけあり、グネモン卿はディルの発した声に目線を上げ、その先を無言で促す。
ディルは口の中がカラカラに渇いているのを感じた。緊張でうまく働かない唇と舌を必死に動かす。
「おれ……は、エレカンペインに行くって……約束、してます。……だから……エフェドラには、行けません」
彼の言葉に、その場がしんと静まり返った。
グネモン卿はディルを見据えたまま眉だけをぴくりと上げる。一方背後のクローブからは、怒気とも冷気ともつかない、これ以上なく恐ろしい気配が伝わってきた。
ディルは再び背筋に冷や汗が流れ落ちるのを感じる。
実際、このまま斬り捨てられてもおかしくないのだ。自分の意志を伝えなければ、ということにばかり気を取られていた彼は、言った後にそのことに気付いたが。
「くっ……」
グネモン卿が肩を震わせる。
「っはははは……これは面白い!」
老人の哄笑に戸惑い、ディルは唇を戦慄かせた。
「お前、すぐ後ろでクローブがどのような顔をしているか想像がつくか? 恐ろしくて振り返ることもできぬか。それでようもまあ……!」
「……っ」
ディルは泣きそうな顔になりながら身を竦ませる。グネモン卿が言ったように、とてもではないが振り向いてクローブの顔を正視する勇気はない。
その様子に老人はどうにも可笑しさを堪えきれないといった風情で、笑いに声を震わせながら続けた。
「これでは賢いのかどうか分からんの……! だがその気骨は気に入った。お前には強固な自我と意志があるとクローブが言うておったが、確かにの」
グネモン卿は立ち上がり、ゆっくりとディルに向かって歩き出す。
何をされるかと、ディルは見開いた目で近付いてくる老人を凝視した。
「約束、か。児戯と笑い飛ばすことは容易いが、このグネモン侯を前に言い放てるとは本物よな。それともエフェドラという遠国の名に恐れをなしたか。どうだ? 正直に申してみよ」
言いながらグネモン卿はディルの目の前に立ち、彼の顎を掴んで顔を引き上げると、真っ向からその目を見下ろす。
ディルは老人から目を離すこともできず、慄きながら答えた。
「っ……エフェドラに行くのは、怖いです。でも、あの……行けないっていうのは、遠くに行ったら……そのひとが、おれを捜せなくなる、から……」
「……ほおう?」
グネモン卿は興味深げにディルの顔を一瞥し、手を放す。
「どうあってもその連れと行くつもりのようだな」
老人の言葉に、ディルは震えた。相手は特に気分を害した様子も見せず、むしろ面白がっている気配さえ感じられたが、それはそれで得体が知れない。
しかしもう、後には退けなかった。国で一、二を争う権力者相手に、この場を無事に切り抜けられる策など彼には考えつかない。
それなら、思いのままを吐き出してしまいたかった。ディルは必死に言葉を紡ぐ。
「おれが……どこにだってついてくって、言ったんです。助けてくれたひとに……言ったの、嘘になったらいやだって、思って……っ」
ヴィーはディルのことを恩人と言ったが、本当に助けられたのは間違いなく自分のほうだ。初めこそ自分が手を貸したかもしれないが、もはやヴィーがディルにくれたもののほうが、はるかに大きくなっていただろう。
しかしありったけの勇気を振り絞って伝えようとしても、鋭い相手の視線と威厳の前に、なかなか最後まで言葉を声にできない。ディルの語尾は儚く掠れていった。
言葉が途切れた彼を吟味するようにしばし間を置いて、グネモン卿は口を開く。
「だがその連れは未だ現れぬ。すでにお前が捕らわれてから幾日と過ぎておるぞ」
痛いところを突かれ、ディルは顔を歪めて俯く。
その様子にグネモン卿はわずかに目を細め、口許に笑いを滲ませた。
「先約のある身ゆえ、軽々しく誘いを受けぬというのは見上げた心掛けだ。――だが、互いに結んだ約定というのは両者に果たす気があって初めて意味を成すものぞ。今のお前の場合、その約は成り立っておらぬ。他ならぬ相手の行動によってな」
「……それは……っ」
「その心意気に免じ、お前の約束とやらが果たされるのか見届けてやりたい気もせぬではない。……が、あいにく我らも慈善家ではなくてな」
老人は身体の後ろで両手を組んでディルに背を向け、椅子に向かって足を踏み出した。ゆったりとした歩調で数歩進んだのち、途中でこちらに向き直る。
「一日だけお前に時間をやろう。我が一門に忠誠を誓い、その身を捧げるというなら篤く遇してやる。だがそれを蹴るというのであれば、お前はただの知りすぎた子供だ。早々に始末し、切り刻んだその身を山野にでもばら撒いてくれよう。お前の骸も魂も跡形もなくニームに喰われ、天におるであろう父母には永劫、会うこと叶うまいな」
蒼褪めたディルに、グネモン卿は酷薄そうに笑ってみせる。
「ひと晩、ようく考えるがいい」
ディルは元の部屋に戻された。
目隠しと縄を外され、来たときと同じように自分を運んできたクローブの顔を、恐る恐る見上げる。
意外にも、クローブは不機嫌そうではあってもさほど怒りを露わにはしていなかった。
「お前は、思った以上に往生際が悪いようだな」
正面に立ち、腕組みをしてディルを見下ろしながら、彼は言う。
どんな厳しい叱責や恐ろしい脅迫が待ち受けているかと思っていたディルは拍子抜けし、ぽかんと相手を見つめた。
「お前は騎士ではない。地位も責任も無い平民の子供だ。権力に抗ってまで何者かも分からぬ相手との約束を守ろうとするなど、決して褒められたものではないぞ」
「……そう、ですけど……」
「第一、お前は私が伝えたことをまるで信じなかったのだな」
言われてディルはこの上なく気まずくなり、さりとて謝るのもなんだか違う気がして、クローブから目を逸らす。
「私が偽りを言ったと思ったのか」
ディルは強く首を振った。
「そういうんじゃ……ない、んです。置いてかれたって思ったときはすごく……悲しかった。でも、おれ、あのあとたくさん考えたけど、ヴィーがそんなことするなんてどうしても……どうしても、思えなくて……」
ディルの言葉に、クローブは特段腹を立てた様子も見せず、呆れたように長いため息をついた。
その眉間に微かな苦悩が刻まれている気がして、ディルはほんの少し不思議に思う。
「あの……怒って……ないんですか?」
ディルの単刀直入とも言える問いに、クローブはじろりと彼を見遣った。
「なぜ私がお前ごとき軽輩の愚行にいちいち腹を立てねばならん。お前の賢しさは残念ながら、その命を存える役には立ちそうにないようだ」
「……」
「信ずるものがある者には、他者が何を言ったところで無意味だ。お前もそうなのだろう。私の言ったことが偽りか否かなど、お前にとってはもはやさしたる問題ではあるまい」
ディルはクローブの言葉に理解が追いつかず、わずかに小首を傾げる。
昨日彼が語ったヴィーの話が、本当なのかどうかは知りたい。……けれど、あらためて考えてみれば確かに、彼が本当だと言おうが嘘だと言おうが、自分は結局、ヴィーを信じるという選択しかしないだろう。
クローブはきっと、そのことを指摘したのだ。
「お前の心映えは騎士に近いが、しかし不幸なことにお前は騎士ではない。その心のままに進めるだけの力をお前は持たぬ。……憐れなことだな。不釣り合いな意志がお前の首を絞め、命を縮めるのだ」
黙したディルを置いて、クローブは部屋を出る。鍵を掛けて振り返り、小さくため息をついた。
「……また貴方は」
そこにはいつぞやと同じように、グネモン卿が悪童のような顔つきで立っていた。
「お前とあの子供の珍妙なやり取りも、これで聞き納めかもしれぬと思うてな」
「暇を持て余した隠居のようなことを仰る」
言外に、貴方はそこまで暇ではないはず、と匂わせるも、この老人にそんな厭味は通用しない。クローブとて百も承知だが、言わずにはいられないのだった。
「……もはや、さして面白いものでもありますまいに」
「お前自身は初めから面白いなどと思うておらぬのだろうが」
「……」
悠然とした足取りで歩を進め、老人は顎を撫でながら言った。
「人並みに怯えているようで頑固な子供よ。震えながらそのくせ、この儂に対して自分の言葉で話しよる。時間さえかければ手懐けられようが……」
クローブは首を振った。
「あれは一から仕込むにはいささか齢が行っています。すぐに送り出せぬならものにはなりますまい」
「ふん……まあそうよな。一夜で気が変わると思うか?」
「さて……」
あまり期待できない、という様子のクローブに、グネモン卿は若干の不満を込めて言う。
「やはり連れは消されたとでも言えばよかったのだ」
しかしこれにもクローブは賛同しなかった。
「少々迂遠でも事実は隠さぬ方がよいかと。偽りを前提に臣従を誓わせるのは後々面倒なことになりかねません。特に草として使うつもりであるならば、下手な隠し事は初めから裏切りの種を撒くようなものです。……それより同行者が自らの意向で見捨てたとあれば、彼には為す術もない。諦めさえつけばこのほうが綺麗に収まります」
「その諦めがついておらんようだぞ、微塵も」
「そのようですな」
淡々と認めるクローブに、老人は鼻を鳴らした。
「まったく、ただの平民出の子供をあそこまで頑なにさせるなぞ、いったいどういう人間か興味が湧いてきたわ」
「やはりこちらで追うべきでしたか」
グネモン卿は首を振る。
「いや、リリーがあれほど梃子摺る相手、それもエレカンペインの者など関りとうない」
「ならばよろしいのですが。……しかし、私個人の印象として、あれは裏の仕事には不向きに見えます」
「んん?」
「全てを失いはしても、価値観や倫理観が壊されていないのです。そうなる前に拾われ、光を与えられてしまっている。仮に元凶をこれから排除したとて、もはやあれの性根は容易に転落しますまい。……彼が心底からカーラントに忠誠を誓い、カーラントこそが唯一の正義となれば、非常に有用な手足ともなったでしょう。――が、残念ながら今のところ、彼の正義は彼自身の中にある」
「……」
「あれでは己れの一挙手一投足に、無意識下で善悪を問うてしまう。我らがどうにか仕込んで使ったとて、肝心なときに振り下ろす刃の切っ先を自己の良心で狂わせかねません。そのような草など、不要を通り越して害悪というもの」
クローブの言を、老人はしばし真剣な面持ちで吟味する。
「……ならば、明日にもお前に始末を命じることになりそうだな」
「ご下命あらばいつでも」
顔色も変えずそう答えたクローブを、グネモン卿はいささか納得がいかない様子で振り返った。
「お前、惜しいとは思わぬのか?」
「思ったとて、こちらに靡かぬ者をどうしようもありますまい」
「憐れんでおったくせに」
「共感するものはあります。――が、それがなんだと言うのです。信条を持つ者同士が殺し合おうと、騎士にとってそれはただの日常でしかありません」
グネモン卿は肩を竦めた。
「お前は見上げた堅物よ。……まったく、リリーがさっさと仕留めぬからこのようなことになるのだ」
「貴方が非難できるお立場ですか……」
元凶はこちらだというのに、早々に追跡から手を引いたのは他ならぬこの主人である。
が、老人は拗ねたように口を尖らせた。
「是が非でも書簡を取り返さねばならんのはリリーのほうなのだぞ。どうせこちらでやると言うたところで、小心なあやつらは必ず草を放って余計な手を出してきたに違いない。草同士が無用にぶつからぬためには、これが互いにとって最良ぞ」
手の内を秘することを考えれば、他家の草との共闘など以ての外である。それゆえ、彼は連携もなく互いに標的を追うことによる要らぬ混乱や衝突を避けたのであるが。
クローブは小さくため息をつく。
「あちらがその深慮を察してくれるとよいですな……」
彼とて、主人の指示が合理性に基づいたものであることは承知している。
だが、この老人はとにかく他者に対して体裁を取り繕うということを面倒がり、周囲からは勝手気儘に動いているようにしか見えない。ゆえに物事を表面的にしか捉えない連中から何かと非難の目を向けられがちだ。
そしてその視線を実際に浴びるのは屋敷の奥から指示を出すこの主人ではなく、おもに腹心として奔走するクローブのほうだった。
しかし、グネモン卿は彼に及ぶ被害になど頓着しない。
「どうでもよいわ。文句を言うてきたとて、フレーズの若造などいくらでも言いくるめられようぞ」
「……貴方は、見所があると思えば平民の子供であろうと対面なさるくせに、他家には実に傍若無人であられる」
「他の一門など知ったことか。使うか潰すかどちらかの存在ぞ」
その極端な思想でよくぞ王家の外戚にまで登り詰めたものだとクローブは思ったが、多分に自分をはじめ、この一族に仕える者たちの大小さまざまな苦労の積み重ねが、彼の野望に貢献してきたことは間違いない、とも思う。
軽輩といえど迎え入れるなら自分の目で見、選ぶことを怠らないこの主人のやり方は、ある意味理に適っているのかもしれなかった。
陽が傾いてきたらしい。部屋の中、頭上の隙間のような小さな窓から、外の光が差し込んでいる。暗い室内を斜めに横切り、床を小さく照らしていた。淡い光は漂う塵にぶつかって気儘に爆ぜ、まるで宙空に金粉を撒き散らした小道が浮かんでいるようだ。
山中の暗い小屋、野盗の男たちの視界に入らぬよう、できるだけ身を縮こませて過ごした日々を思い出す。あの小屋も、朽ちかけた壁に空いた穴から同じように陽光が差すことがあった。
死んだ人間の魂が天に昇るときは、こんな道を往くのだろうか。
そんなことを思ったものだ。
ディルはことさらに信心深くはなかったが、書記の子という生まれ上、僧侶である司祭を師に、聖典を教本に育っている。それだけに、教典の内容は他の子供たちよりよほど頭に叩き込まれていた。
教会が遠ざかった反動か、王都を追われてからのディルは、聖者や天について考えることが多くなった。目を背けたくなるような現実を前に、他に心が逃げ込む場所がなかったとも言える。
そんな日々の末、ヴィーが現れた。暗い屋内では、彼の姿があんなにも美しいなどということには気付かなかったが、これまで誰からも感じたことのない粛然とした空気と静謐さを纏った彼から、目が離せなくなった。
共に旅したのはたったの三日。思えばその間、教典のことなどほとんど考えなかった。ヴィーについていくのが精いっぱいでそれどころではなかったということもあるが、現実が、自分にとって逃げ場を求めたくなるようなものではなくなったからかもしれない。
しかしもう、それも遠い昔のことのように感じる。夢だったのではないかとすら思えてしまう。
(おれ、まさか死ぬより先に聖者に会っちゃったの?)
いや、いくらなんでも聖者にしては頼りない。
けれどリリーの屋敷で会ったあの姫が言ったように、現実に、聖者の描写が当て嵌まるような人間は存在したのだ。
あのときは、まさか自分がそんなひとに出会うなどとは思ってもみなかったが。
よもや、天にも召されぬ非業の死を予見した神々が自分を憐れみ、仕組んだ出会いだった……などという可能性もあるのだろうか。
(冗談じゃない!)
自身で思い至った考えにディルは首を振る。グネモン卿の脅しのような言葉は、さすがにディルの心に暗い影を落としていた。言い知れぬ不安に心が竦む。
(なんでこんなことになったのかな……)
寝床の片隅で両膝を抱えながら、ディルは思う。
拾ってくれるという、ヴィーについていきたかった。
けれど実は自分は追われていて、そうと分かったヴィーは、ディルを手放した。
……それだけなら、もう仕方がないと諦めもついただろう。
どんなに得体が知れず恐ろしかろうと、新たな素性を与えるというグネモン卿の言葉に縋って生き延びて、父とも母とも他人である『誰か』になり、言われるまま、エフェドラに送られたに違いない。
あの赤夜狐のように不要になれば捨てられるだけの、裏の仕事の道具にされると分かっていても、他に選択肢などないのだから。
けれどヴィーは言ったのだ。
約束を忘れないで、と。
明らかに厄介事に巻き込まれていると分かった自分に対して、わざわざそう言った。
そのせいで、ディルはどうしてもヴィーのことを諦められない。
「……ヴィーの、ばか……」
両膝に額を押しつけながら、ディルは独り言ちた。
(今どこで何してるの。おれ、殺されちゃうよ……)