第90話 「怖いに決まってるじゃないですか」
「怖いに決まってるじゃないですか」
その意気消沈した声がどのような表情で発せられているのか、その顔がジェニーの胸に半分埋められているため分からなかった。メルの視界に入ったのはただ、こちらを見つめる片目だけだ。
「しかしかと言って、それでみんなを恐れたところで事態は何も好転しない。寧ろ悪化するだけです。信じるしかないじゃないですか。俺が自力で出来ることなんて高が知れてるんですから。俺をこの世界に引きずり込んだ連中と、多少なりとも人となりを知るクラスメイトなら、俺は後者を選びます」
そして和成の言い分を聞けば、それはその通りだとしか言いようがない。彼が置かれた初日の状態を思えば、信じられるのはクラスメイトと友人達だけだろう。自分の意思とは無関係に召喚した国の上層部を、その上でステータス画面のパラメータが高い自分以外を優先する彼らを、信じる気になるはずもない。
だからこそ和成は、初日でその友人達を自分から引き離そうとした上層部の人間――つまりはアンドレ王女が大嫌いなのだ。
近くでこの数ヶ月接していれば、彼が露骨なほどに彼女を嫌い、あの時のことを根に持っていることは分かる。
「――信じるしかないから信じるんです」
「・・・・・・」
メルは無言を貫いた。
「それに、俺を気にかけてくれる人たちとのスキンシップすら怖がって、握手を求める手を自分の手が握りつぶされるかもしれないからって叩き落として、それで相手を傷つけるのは嫌です。それで嫌われるのは嫌です。俺に手を差し伸べてくれる人の手を振り払うなんてしたくないです」
次第に和成の言葉が単調なものへ変わっていく。ジェニーへお酌をし続けて既に一晩が立っているからだろう。そこに竜の火酒の酔いも加わり、彼の頭のはたらきは鈍くなっている様子だ。
実際、何も聞かずとも零れるように内心を吐露し続けている。
「それでも、怖いものは怖いです。――だから、意識しないように心がけて、ステータスがもたらす結果を無意識へ追いやっているんですよ。信頼は、頑張らないと維持できませんからね」
「――そうですか・・・・」
――成る程。だからこそ彼は、レッドドラゴンの様子を見学した際あんなにも油断していたのか。
その言葉を聞いて、『麒麟(仮称)』によって『瀕死』状態にまで追いやられていながら、なぜ和成は油断してモンスターに接していたのか。
その理由にメルは気付いた。
(わざと油断していたんだ、この人は)
ステータスという観点と、自分を簡単に屠ることが出来るという観点から見た場合、和成からしてみればモンスターと人の間に差はない。初日に今まで接点に乏しかった自分を気にかけてくれた姫宮も、召喚されて以降も変わらない関係を築けている慈たちも、敵意を向けるアンドレ王女の親衛隊たちも、世界を跋扈し本能で動くモンスターも、和成を『瀕死』状態へ追い込んだ『麒麟』や『白虎』に似たモンスターも、自分を簡単に仕留められることに変わりはない。
大抵の存在が簡単に、自分を壊すことが出来る。
(だからこそ、その事実から彼は意図的に眼を逸らしている。周りにいる全員を恐れていては、日常生活すら送れなくなるから。この世界に伝手も何もない身では、友人たちとの繋がりを放棄しては何もできないから)
和成は周りにいる人々を信頼している。その部分は間違いない。
ただその信頼する人々は和成にとって、地球でいうところのゴリラでありライオンでありゾウであり、それ以上の暴力を内包する生物だ。
素手や生身で敵う相手ではない。
そのパワーからしてみれば、和成の骨は枯れ枝と同じだろう。
出会ったばかりのゴリラと握手を出来る人間がどれだけいるだろうか。それができるのはゴリラの握力に対抗できる者か、よほどの剛の者か、何も考えていない馬鹿かだけだ。
しかし和成に、ゴリラの握力に対抗できるフィジカルはない。
ゴリラと握手する恐怖を抑え込み、延々と耐え続けるメンタルもない。
しかし同時に和成は、時にそれをしなければいけない立場にいる。そうでなければ友好というものは築けない。だからそれを実行に移すには、相手がゴリラであるということを忘れる必要があった。
それをするために和成は、相手の危険性を意識の外に置いたのだ。
仕事仲間。同士。家族。人間関係。
その中でも友人関係というものは、特に対等な関係を指す言葉である。
対等でなければ友情を築くことなどできない。
一方が暴力を振るおうと考えても、一方が暴力を恐れても成り立たない。
そして和成は、みんなと友人関係を築きたかった。
頼れる人のいないこの世界で、頼れる誰かが欲しかった。
「――何故、ジェニー様にそこまで気に入られたのか、と聞かれましたね」
「はい、聞きました」
「それは矢張り――平賀屋様の行動の結果であると考えます」
眼鏡の奥のメルの瞳と、和成の片目が合致した。
その酒と徹夜とジェニーの体温による眠気の誘発から、脳のはたらきが落ちていそうなぼんやりとした視線が、その次の言葉を引き出した。
「嬉しいものなんですよ、単純に。絶対的にステータスで劣る―言うならば絶対の弱者が―圧倒的に優位な状況にいる自分に対して、それでも自分を信頼し接してくれるというのは、やっぱり嬉しいものなんです。攻撃の意志をもって腕を振れば、それだけで貴方は深く傷つく。それなのに平賀屋様は信頼し、距離を詰められます御方。
それを愛おしく感じる人は、一定数いらっしゃるでしょう。
ジェニー様がお酌されて機嫌よくいらっしゃったのも、脆弱な貴方が気安く接近してくれたことが嬉しかったからだと思います。本来この程度の酒量で酔うことのない竜人が酔っているのも――それが嬉しくて飲むペースを間違えたからではないかと」
それは、メルから和成への明確な励ましであった。
「――ありがとうございます」
座敷の窓、ひさしの端から視界を照らす朝の光りを厭う様にして和成は眼を閉じた。
「メルさんが俺の護衛でいてくれるのも、同じ理由―――。……いえ、やっぱり何でもありません。忘れてください」
「――――――――――――――」
その後に何と言葉が紡がれたのか、酒のせいで頭に霞がかかる和成は覚えていない。
☆☆☆☆☆
「あ゛あ゛・・・・頭が痛い」
冷気が立ち込める朝の民間街から和成は、研究区画の自室への道を歩いていた。
ジェニーからは竜車で送ると提案されたが、酔い覚ましもかねて歩きたかったので断った。
なお、和成は酒を一滴も飲んできない。ただ熱燗から漂う蒸気を吸っただけだ。
そこに含まれていた僅かな酒精に当てられて、今頭を押さえ呻いている。
「まったく俺はアルコールに弱い・・・・いや、あの龍の火酒に含まれてるのがアルコールなのかは分からんが」
ミスリルのような地球には存在しない金属――つまりは原子が存在するのがこの世界だ。組成式が根本的に異なる可能性はある。それをどうすれば確認できるかといった知識は、あいにく彼が脳内で所有する雑学の中にはないが。
「以後、気を付けるのが一番であると提案致します」
目立つメイド服から市井に溶け込める普段着に着替えたメルが、和成の三歩後ろを歩きながら答えた。
「まったくです」
そう呟く和成の視界に、懐かしいものが移る。
灰色の見た目だけで質感が分かりそうな古紙の束が、既に開いている店の軒先に置かれているのだ。
そこは現在の和成のような、朝帰りをした客をターゲットにした雑貨屋である。ちょっとした軽食や飲み物が少し割高に買える代わりに、朝早くからやっている。
(この世界に新聞ってあったか? なかったよな)
そこには細かな文字がびっしりと並んでいて、近づいてみると白黒ではあるが写真のようなものも映っていた。人の気配を察したのか、店主らしき男性が店の奥から顔を出したので聞いてみる。
「これは? この辺りで見たことがないものですが」
「ああ、そりゃあ新聞っていうやつでしてね、何でもどこぞの国が主導して作ってるとか。エルドランド王国だったかね。あそこでは異界より『勇者』様方が召喚されたらしいとか、ねぇ。大将」
そう店主らしき前掛けをかけた禿頭の親父は、気安く笑いかけながら気前よく説明してくれた。
なんでもエルドランド王国が主導になって『勇者』たちの活躍を世に知ら占めるため、『勇者』本人が提案した方法で喧伝することになったらしい。そう言われて手に取ってみると、解像度が悪いために分かり辛かったがそこには確かに『勇者』天城が映っていた。
そしてその後ろには、竜のようなモンスターも同時に映っている。
見出しにはでかでかと、「勇者がメタルドラゴンを討ち取った」の文字が記されていた。
「1つください」
「へい、まいど」
店主がステータス画面を開いたので和成もそれに応じて開き、タッチパネルのような画面からGを入金した。ジェニーと行う酒場での商談も4回目だ。その度に何度か練習もかねて、お土産をサファイアやナインへ買っている。エウレカに来て既に二週間が経過しようとしており、この世界での硬貨をわざわざ手渡しする必要のない支払いにも慣れてきた。
チャリンチャリン――と、硬貨を鳴らすような効果音がステータス画面から聞こえる。
「しかしダンナもいい買い物をした。情報がすぐに手元にくるのは、国の中枢を除けばここぐらいのもんだ」
その新聞は少々割高であった。おそらく運搬にかかる費用だろう。
それでも2000Gに抑えているあたり、国が金を出しているのではと和成は考えたが、その辺りのことは新聞には書かれていない。
しかしそれはそれとして、年上の親父からダンナと呼ばれることが和成はむず痒くて仕方ない。
おそらく後ろで自分と店主のやり取りを見守るメルの存在によるものだろう。高級めな酒場が多いこの区画には、一晩二晩止まれる程度の壁が厚い宿も存在する。そして何時もの学生服――この街の住人からしてみれば見慣れない服――を着て研究区画の方向へ歩いていく和成は、初めて入荷した新聞にポンと金を支払い購入したこともあって、研究機関関係者のお金持ちとでも思われているのだろう。
勘違いされてはいるが、外れているとも言い難い。
「ふーむ。へぇ、『姫騎士』さんも中々。『聖女』さんもかなりな成果を出して」
改めて新聞を読み込むと、人面獅子の群れを『聖女』の一党が、双頭狼の群れを『姫騎士』の一党が壊滅させたとの文字が並んでいた。
(元気そうで何よりだ)
そしてさらに、その後に続く一文へ視線が移る。
“エウレカへの来訪が三カ月後に決定!”
友人たちから送られた和成宛の手紙がエウレカの役人から手渡されたのは、和成が研究区画の自室へ帰宅した直後のことであった。
☆☆☆☆☆
封筒に入っていた手紙は、親切たちパーティメンバーからの4通と姫宮からの1通であった。特に姫宮の手紙には溌溂とした文字で、
「だいたい三カ月後にエウレカへ行くから、そこで会おうね!」といった内容が書かれている。そのため、差出人の名前に辿り着く前に誰のものか分かった。
というか、読むだけで内容や筆跡から差出人が分かるものが意外と多い。
読みにくいほどの達筆で時候の挨拶をかきつつ、主に将棋を指そう次は勝つ云々と書かれているのは剣藤のものだろう。手紙の作法を知識として知っているのは流石だと素直に思う。和成も文化に凝っていた時期に一度調べたことがあったが、既に忘却の彼方だ。何も覚えていない。
ほのかに花弁の香りがする、押し花と共に漉かれた風流な紙を使用しているのは慈だろう。内容が主に本に関するものが多いのですぐに分かった。
また、中には筆者の筆跡を知っていたので一目で分かるものもあった。親切の手紙である。ただ内容はおそらく化野が口を挟んでいる部分が多いのだろう。エウレカの研究や技術に関する質問ばかりだ。彼女が自分に手紙など出さないことは知っていたので、消去法で最後に残る手紙は裁のものだと分かる。
それは最も無個性で無難な、真面目が透けて見えるような手紙であった。
ただそれはそれとして和成は、たとえ途中で魔法を習得して目的を果たしたとても、果たせないことが分かったとしても、一先ず三カ月は滞在することを決めた。
「というわけでナインセンセイ。友達が来る時までは、エウレカに滞在する前提でいたいと思います」
「分かった。了解了解」




