第74話 四谷綺羅々
結論から言うと、四谷は姫宮への告白を取り下げた。
☆☆☆☆☆
「私は、昔から男の子が苦手、でした。幼稚園の頃からどんくさくて、運動ができなくて、いつも意地悪されて…思い返せば、あの意地悪は傍から見れば微笑ましいものだったかもしれない…。けど私としては、とにかく嫌だった。辛かった。アレルギー。喘息。それに伴うアトピーと脆弱な敏感肌。体力はもともとあまりなくて、激しい運動をすればすぐに息が切れる。鬼ごっこをすれば私が一番遅いからみんなが私を狙ってくる。そして私は、遊び時間の全部を使っても誰にもタッチできなくて。できるのは、遅い私が鬼でいることに飽きた誰かが、変わってくれる時だけ。それでようやく鬼から解放される。心よりも、息を必死に吸おうとする喉の方がしんどくて、悲しいだとか思う暇もない。けど、ずっと鬼でいなきゃいけないことよりも、仲間に入れてもらえない方が寂しくて。
だから怖かったんです。小学生になって、体育の時間に私がグループに入ると、空気がぴしって固まるのが怖いんです。足手まといな私が入るのをみんなが嫌がっているのが分かる。それがずっと怖かった。嫌だった。仲のいい人たちで固まったグループの和を乱すなんて、私もしたくなかったのに」
彼女は常に、中途半端な敬語を使う。
同年代の、クラスメイトにも敬語で話す。
それは彼女の育ちがいいからではない。自分に自信がないからだ。
自分を同年代の連中と対等であると思えない。
自分が周囲よりも劣等であるとしか思えない。
自分なんかがタメ口で話したら怒られるんじゃないかという恐怖が根源にある。
だから彼女の敬語は相手を敬うものではない。
単に自分を卑下するだけのものだ。
だから二年八組のクラスメイトには、彼女と会話すること自体を不快に感じる者も多い。話しているだけで、自分に弱者を虐げる加害者の立場を押し付けられている気分になるからだ。
「アレルギー性鼻炎の所為でいつも鼻が詰まっていて、今は成長してマシになりましたけど、当時は口呼吸しか出来なくて。だからいつも口の中は乾燥してて、その所為で雑菌が繁殖しているのか口が臭いと言われたこともありました。しかし鼻は詰まっているので口呼吸しか出来ません。ティッシュを箱ごと学校に持ってって、鼻がひりひりするまでかんでも治らないんです。
それに喘息がありますから、少し運動しただけでも息が荒れてしまって。通学路を歩いて登校して疲れて、無意識のうちに息を吸っているだけなのに、ハァハァうるさいと言われたこともあります」
「車で送ってもらうのは無理だったの?」
「そこまでではなかったんです。ただひどく疲れて呼吸が荒くなるというだけで、命に関わるほどではないんです。体力をつける目的もありましたし、毎日送り迎えが必要なほど症状が重いわけではありませんでした。日常生活自体は普通に送れるんです。周りより負担が少し大きくて、その所為で何をするにもワンテンポ遅れてしまうだけで」
姫宮の質問に対する四谷の返答は早い。
それだけ自問自答を繰り返して来たからだろう。
自分が周りより劣っていることについて考え続けたからだろう。
「けど、一番嫌だったのは・・・・」
言いながら四谷は涙を流す。生来的に彼女が泣き虫だからなのか、それだけ悲しく感じた出来事だからなのか。
おそらく両方だろう。
「嫌だったのは、肌について言われることです。アトピーの所為で私の皮膚はとても弱い。汗をかけばあせもが出来て、その部分が荒れていく。だから夏場は酷いことになります。ランドセルを背負い通学路を歩いていると、特に背中と肩のあせもがどんどん広がっていく。風通しが良くないから、背中のランドセルで挟まれた服の下が汗で蒸れて、肩のベルトが密着する両肩も歩くうちに痒くなっていって。生まれつき汗っかきな方なんです。
そしてそれは冬場でも同じなんです。乾燥のせいで弱い肌は常に刺激にさらされることになりますが、かといって、ランドセルと密着する背中とか肩とか、通気性に欠ける場所が汗で蒸れることは変わりませんから。どれだけ寒くても、運動すれば汗はかくんです。冬でも夏でも、さっき言ったところとか、パンツのゴムが食い込むところとかは、大して変わりません。あせもが酷くなると患部は赤く腫れて、痒くて痒くてかきむしってしまう。そうなるともうダメです。皮膚の下の赤い身の部分が見えるようになって、血も出て、膿でぐずぐずになってしまう。薬が手放せない。
そしてそのぐずぐずが治っても、傷の痕は残ります。周りの皮膚と全然色合いが違うから分かるんです。シミのように黒ずんだ部分。掻きむしった場所が治って新しい皮膚ができた、真新しいピンク色の部分。触るとざらざらする、ぷつぷつとかさぶたが入り混じった部分。
そういったものが、私は肩から背中にかけてと――腰からお尻を超えて、太ももの裏にかけて大きく広がっています。あとは、膝関節とひじ関節の裏に、股関節も、汗が溜まるのであせもの跡は残っています」
ぎゅっと黒ローブが握り締められ、極力肌を見せないための衣装に皺が寄る。黒いがために、その皺は細部まで克明には見えなかったが。
「座り続けていると、下着の裏でお尻も蒸れるんですよ。特に卒業式とかの式典がきつかったです。あのパイプ椅子の座る部分は風通しが悪いですし、木の椅子以上に湿気を吸ってくれない。蒸れてお尻も太ももの裏も痒くなって、けど式典ですから掻こうにも掻けなくて。それで先生にごそごそするなと怒られて・・・・」
その先を、あまり言いたくないのだろう。彼女にとって、辛く楽しい思い出ではないのだろう。
だから少しでも言葉を重ねて、時間を先延ばしにしている。
けど、それでも、知ってほしいのだ。自分のコンプレックスを。
「小学校の、まだ男女一緒になって着替える頃。体育の時、体操服に着替える際に男の子たちから言われたんです。“肌がきたない”って」
「―――――――」
姫宮はもし自分がそう言われたらを想像し、目を閉じて、何も言えなかった。
「・・・・・・・」
和成はただ無言でいた。
―――腐ってるんじゃない?
―――病気?
―――触ったらうつるぞ。
―――ばっちぃ!
―――えんがちょ!
「その時に庇ってくれた女の子が、私の初恋の相手だったと思います」
泣きながらも四谷は、微笑んでいた。
辛かった。けど、嬉しかった。
そんな内心が透けるようでもあった。
「結局、その子に告白することはできませんでした。女の子同士での恋愛なんて当時の私の常識にはなかったですし、そもそもそれが恋愛感情だと分かったのも、中学を卒業してからですし。・・・・けど、部長は言いましたよね。性というものはそもそも微妙なものなんだって」
「そうだな。思春期の時期には、異性より同性に惹かれやすい時期、というものがあるらしい。俺だって女子と恋愛するよりは、男子と遊んでる方が楽しかった気がする。今も楽しい気がする」
「それは少し違う気もします」
「そうか。まぁ俺には柔らかい女体の乳房と、硬い男の胸筋の違いは分からんからな。何をもって恋愛感情と呼ぶべきなのか、俺には分からない。恋愛というのは繊細で微妙なものであるように思う――ぐらいのものだ。いわんや、恋心も欲求も、性も、だ」
「・・・・男女の境界なんてそもそも胡乱なもの。その言葉は私にとってすごく受け入れやすかったです。心の中に、まるでストンと落ちていくでした」
何故そこでその話を聞いたのか、傍で聞く姫宮には分からなかった。
だからそこから続いた彼女の告白に、ひどく驚いた結果となる。
「ごめんなさい、姫宮さん。私はどうやらレズビアンではないようです。女の子が好きなんじゃなくて、ただ男の子が怖かったから、自分は男の子に好かれないっていう思い込みがあったから、消去法で女性を恋愛対象に見てただけみたいです。部長の話を聞いて、自分を見つめ直してそう思いました」
誰かに認めて欲しいという承認欲求。
それは誰しもが持つ根源的な欲求だった。
「私は、男子にモテたかったんです。女子からもモテたかった。みんなからキャーキャー言われたかった。みんなの注目を一身に集めたかった。人気者になりたかった。そしていつか自分にも恋人ができて・・・・みたいなことを、恥ずかしながら想像してました。
けどその時に思ったんです。
ワタシのことを好きなってくれる人なんているのかなって。
口が臭い。汗臭い。肌がきたない。鼻は詰まっていて、性格も暗い。
自分の体も心も酷く汚れているように思えて、そんな私を誰も好きになってくれないんじゃないかって、私と恋愛してくれる男子なんて誰もいないんじゃないかって、思ったんです。だから私はあの時、私のことを庇ってくれた、“女の子”を好きになった。個人を好きになるのと同時に、“女の子”という分類を恋愛条件に加えたんです。そしてその裏では、男の子は誰も私のことを好きならないんじゃないかって恐れていた。女の子なら、私のことを好きになってくれる人もいるかもと思ったから、“女の子”を好きになったんです」
そして四谷は、姫宮を見つめた。
「ごめんなさい、姫宮さん。私があなたに贈った、あなたを好きになった理由をつづったラブレターには、ひとつ書いていない理由がありました。健康なあなたがまぶしかったことも、誰にでも優しいあなたに惹かれたことも、私の肩を支えながら保健室に連れていってくれて嬉しかったことも、その時に汗もたっぷりかいていたのに嫌な顔1つしないでいてくれたことも、あなたの隣に居たいと思った理由なのは間違いありません。
けど、そこにもうひとつ理由を加えさせてください。
姫宮さんが男子にも人気があったから、私はあなたを好きになったんです。
私の恋愛感情には、男子は私を好きになってくれないという消去法と、そんな男子が好きになる女性への憧れがありました。
あなたのようになりたい。健康的な体になりたい。綺麗な肌が欲しい。自分で自分の体を鍛えられる、体力と筋力が欲しい。自信が欲しい。注目が欲しい。頑張って努力して、その結果みんなから認められるような成功が欲しい。臭くない清々しい汗を流してスポーツを楽しみたい。色んな人と積極的に話せる自分になりたい。みんなと仲良くしたい。積極的に人に優しくできる人になりたい。おどおどと下を見ずに、真っすぐに前を向ける人間になりたい。
そんなあなたを好きでいれば、少しだけ自分があなたみたいになれている気分になった。何時しか自然とあなたを視線で追うようになっていたのは、恋愛感情とは他に、ああなりたいという羨望があった。
だから私はあなたが好きだった。そんな自分本位な考えが根底にあったんです」
だからごめんなさいと、そう彼女は口にした。
「あの告白は撤回します。ラブレターも、破くなり捨てるなり、好きにしてもらって構いません」
もう一度私は、自分の恋を見つめなおしたいと思います。
四谷は姫宮にそう告げた。
「つまり四谷さんにとって、姫宮さんは“なりたい自分像そのもの”だったってことだ。彼女に向けられた恋愛感情は同時に、憧れと尊敬でもあった」
「――はい、そうです。けど、部属性や性別が個性の上にくることはないと部長が言ったのを聞いて――少し、自分の個性を見つめ直してみたいと思ったんです」
「そうか」
和成の問いに対して四谷の答えがそう返されたとき、2人の目線は合致していたままであった。
「私は“姫宮未来”さんじゃなくて、“四谷綺羅々”なんですよね」
「そうだな」
「もう一度――いえ、初めてになりますけど私は、四谷綺羅々について考えてみたいと思います」
「――そうか。なら、敬語をやめるとこから始めたらいいんじゃないか」
☆☆☆☆☆
そして、図書館にはいつも通りの静寂が戻ってきた。
既に四谷は頭を下げて一礼してから退室している。
そんなひどくうるさく聞こえる静寂の中。
怒涛の展開に呆然としていた姫宮は尋ねた。
「・・・・ねぇ和成くん。どこまで計算してたの?」
その静寂がうるさいのは、穴の開いた喪失感を覚える胸の内で、どこか虚無的な興奮の火がぼんやりと灯っているからだ。
呆然としたまま、結局殆ど口を挟めなかった和成と四谷とのやり取りに、姫宮は感動すら覚えていたからだ。
「計算なんかしていない。俺には恋愛なんてものは分からない。俺はただ四谷さんと、出来る限り真っすぐ向き合っただけだ。彼女が――いうなれば勝手に――自分の悩みに答えを出しちゃっただけのこと。俺は、単なるきっかけにすぎない。まさか告白を撤回するなんて思わなかった。分かってたのは、彼女の中には男性性に対する不信と、女性性に対する憧れがあったってことぐらいだ。それも強烈な、な」
「それだけ分かってたら十分だと思う・・・・」
姫宮はへたり込んでいる。体に力が入らないからだ。入れる気にもならない。
「そうでもないさ。結局、膨大な情報を伝えられる言葉であっても、伝えられるものは高が知れている。四谷さんの憧憬も不安も葛藤も、俺たちにはその一部しか理解できていないんだろーぜ。所詮は分かった気にしかなれない。だからこそ彼女が自分の葛藤について、自力で応えまで辿り着けたのが素晴らしい訳だが」
「けど、男性性に対する不信を和成くんが取り除いたからこそ、キララちゃんは自分を見つめなおすことが出来たんじゃないの?男の人にもいろんな人がいる。キララちゃんを好きになる人も当たり前にいるって信じさせられたから、あの子は前を向けたんだと思うよ」
「――だと良いんだがなぁ」
ふと、姫宮は思った。
「・・・・ねぇ、和成くんにとって恋愛って何?」
唐突にそのことを聞きたくなったのだ。
「恋愛って、和成くんは何だと思う?」
「俺は恋愛なんぞ分からんて」
「いいよそれでも。私だって分かんないもん。取り敢えずのでもいいからさ、和成くんの答えを聞かせてよ」
そう言われて和成はへたり込む姫宮を一瞥し、一瞬口を堅く結んでから、口を開いた。
「――四谷さんが姫宮さんに、姫宮さんが四谷さんにしたこと、かな」
つまりどういうこと?と、わざわざ姫宮は聞かなかった。
「相手を思いやること。つまりは相互理解のための努力だ」
「・・・・なるほど」
そしてほぅ、と姫宮は、熱に浮かされたような息を吐く。
「きれいだねー・・・・」
彼女は『ミームワード』を使えない。だからその言葉が何を指してのものなのか、和成には分からなかった。
何であれ、例外なんていくらでもいる。
それをどこまで掬い取れるか。
難しいですね。




