第49話 経済とは?
「BernardMandeville (バーナード・マンドヴィル)の著書、『蜂の寓話』の一説。後に経済学の基礎を作ったアダム・スミスや、古典派経済学を完成に導いたと言われるデイヴィッド・リカードにも大きな影響を与えた、経済という概念の本質を一言で表した言葉です」
―――あ、スイッチが入った。
和成の語りはじめを耳にして直ぐ、三人は覚悟を決めた。
彼の長話には全員が何度か付き合わされている。
「私悪こそ公益につながる。一言で言うと、自己の利益を追求することが経済の発展を促すということです」
「当たり前やろ。自己の利益を追求せん商人が大成功するわけがない。したとしても、そんなんは極めて稀な例外や」
「そうですね。しかし、その中においては犯罪者すら経済発展の一端を担っている、ということにまで考えを広げたことはありますか?」
「泥棒がおるから鍵屋が儲かる。盗賊がおるから冒険者に仕事が来る。犯罪者がおるから騎士団が働ける――みたいなことか」
「その通りです。そういった悪徳により確かに経済が回っている事実があるのは間違いない。経済活動の活性化という観点でのみ見た場合、犯罪すらも善行です。と言うより、そもそも経済というものがそういう性質を持っているんですよ」
「経済の持つ性質?」
「それをアダム・スミス―――経済学の祖と言われる偉人は、見えざる手と呼びました」
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しかし、この見えざる手の概念について説明するには、先に哲学の話をしなければなりません。
それがsympathy、同感の概念です。観測者が行為者の行為に対して客観視し、それに同情したり感情を共有すること。
ただ、客観視をするには公平性が必要です。行為者と利害関係にない第三者の同感が、この場合は最も重要なんです。
それが「公平な観察者」。
利他的、誰かのための行為は「公平な観察者」の同感によって是認され、利己的、自分勝手な行為は「公平な観察者」の同感によって非難され、規制されます。そうして社会秩序が維持されるわけですし、経済活動もまた維持されるわけです。
ただし、利己的な行動には、同感によって是認されるものもある。
歴史や経験の積み重ねによって構築される、「道徳の一般原則」の内側にある利己的な行動がそうですね。商人ならーーー経済競争に勝利して富を獲得し、「公平な観察者」の同感による是認を受けることでしょうかね。お金持ちとして称賛され、尊敬されること。
これをアダム・スミスは、「自然の欺瞞」であると言いました。
お金というものはそもそも自らの生活を向上させるための手段にすぎないわけです。
道端で寝転がり満たされている乞食と大国の王を比べた時、乞食の方が満たされていることだってあり得るわけです。
けどほとんどの人族は、王様の方でいることを欲します。
それが――
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「――公平な観察者の同感が欲しいから、お金持ちとして称賛されたいから、っちゅうことか」
「そうです。よく聞く“自分を犠牲にする真面目なやつよりも、要領がよく自分の利益を優先する者から出世して行く”という現象も、経済という枠組みの根幹が利己心であるなら寧ろ当然のこと。――だから人間の方が商売が上手いのは、偏に利己心の強さと、同感に対する関心の高さによるものであると思います」
「なるほどなぁ・・・・まぁ確かに、竜人族は基本的に個人主義っちゅうか、他の奴からどう思われるかよりも自分がどう思うかの方を重視するからな」
「元々かなり“強い”種でもありますからね。あくまでそういう傾向にある、という話ではありますが、あまり大きなコミュニティを必要としていなかった。人族とは対照的に。――だからこそ人族の同感に対する関心の高さは、群れること団結することで生き残ってきたからというのもあるんでしょう。群れで不公正に利益を得る者を放置すれば秩序が乱れ、群れの協力体制が崩壊する。それは群れそのものの崩壊に繋がり、個々の生存率や利益も結果的に減る。だから生物というものは、多かれ少なかれ不公平に対する本能的な嫌悪を持っている。
こういう思考ゲームがあるんですよ。AさんとBさんの二人で100枚のお金を分けるんですけど、どういった比率で分けるかはAさんしか決められず、Bさんがそれを拒否すれば両方ともお金は一枚も貰えない。ジェニーさんがAさんならどうしますか?」
「そりゃあ、50対50を基準にして、交渉で6:4から7:3、8:2までもっていく感じやな」
「しかしメリットのみで考慮した場合、Aさんは99:1で交渉するのが理想なんですよ。なんせBさんはそれを拒めば1枚すらも貰えないわけですからね」
「いやしかし、そんなん余程のお人よしやないと受け入れんやろ。多少自分が損してでも相手の利益にならん行動をしたろうと思うんが普通とちゃうん」
「そうですね。だからそういう、自分が不利益を被っても相手が利益を得るのが許せない、といった復讐や報復にもつながる発想の根源が、その不公平に対する本能的な嫌悪なんだと思います」
「群れを壊さんため。つまりは、団結するため・・・・・か」
「一騎当千のステータスを持つ者には十把一絡げで吹き飛ばされる。しかしそこまでの力を持たない相手ならば、個人では太刀打ちできなくとも数の力も効きますからね。結束することで、立ち向かえる相手は増えます。つまりは理不尽を許せない気持ちと、相手を引きずり下ろしたいと思う気持ち。その二つの根っこはある意味では同じ、ということです。社会が安定した世の中では、また話は変わってくるでしょうが。
ああ、あと団結するためという言葉で思い出しました。
アダム・スミスは更に、【分業】と【節約】が経済を発展させるとも言ってました」
「分業に、節約なぁ・・・・」
「えーっと確か・・・・そう、ジェニーさん。富、とは何だと思います?アダム・スミスは、何が富であると考えたと思いますか?豊かさとは、何だと思いますか?」
「そらぁお金やろ・・・・と言いたいところやけど、違うんやろな。そもそも自らの生活を向上させるための手段にすぎない――わけやし」
「そうですね。お金ではありません」
「心・・・・みたいな、数値で表せられんような奴か?」
「いいえ。ちゃんと数値として客観視できるものになります」
「つまり、豊かとは何か、か・・・・・・」
瞳を閉じて、ジェニー・モウカリマッカは考える。
豊かさとは、何か。
そんなことを明確に考えるのは、思えばこれが初めてだったかもしれない。
「あぁ、なるほど――物か」
「ほぅ」
「衣食住みたいな生活必需品。酒とか煙草みたいな嗜好品に、この折り紙みたいな娯楽品。あとは薬とか本みたいな便益品に、その他諸々の消耗品。つまり豊かさとは、どれだけ物を消費しよるかっちゅうこととちゃうん」
「――正解です。アダム・スミスは、国民が年々消費する消費財こそが富であるとしました。つまり、国民の労働を通じた生産こそが富の源泉である、ということ。農業作物や工業製品などですね。それを更に発展させるのが、さっきも言った【分業】と【節約】なります。
例えば、明国の労働者と未開の国の労働者。文明国の労働者以上に能力があり、意欲にも勝る未開の国の労働者よりも、文明国の労働者の方がより大くを生産し豊かな暮らしを送っているでしょう。
一人で生産する人は、一から十まで全てを自分だけで作らなければなりません。
しかし、一を作る人、二を作る人、三を作る人・・・・・・・と作業を十人で分業して行えば、十人全員に一から十まで個人だけで作らせるよりも、より沢山の製品をつくれます。更に個々人の作業が専門的になれば技術の向上も望めるでしょう。なんせ自分の作業だけやればいいわけですから。
狭い範囲で孤立し自給自足の生活を行うよりも、誰もが自分の得意分野に専念し技能を磨き生産性を向上させれば、その成果を更に交換し合うことができ、個人の能力や才能が社会の共有財産になる。そうなれば、自然と社会全体が豊かになりみんなの生活も豊かになるでしょう」
「当たり前のことやな」
「そしてその分業が、国家単位にまで広がっているのが文明国家なんですね。
で、何故これが自然と生まれたかというと、私たちが元々交換によって欲しいものを手に入れようとする性質を持っているからです。仲間の助力がないと弱い個が生きていくのは難しいですが、それを慈愛や博愛に求めて生きるのは無理があるでしょう。【我々が食事をできるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。】
それに生きる上で必要な全てを仲間内で分け合うのは、かなり難しいと言わざるを得ません。一生をかけて知り合える人は高が知れています。あぁ、もしかするとその辺りの寿命も経済活動の強弱に関わっているのかもしれませんね」
「・・・・確かに、ワテら竜人族は精神の在り様でかなり長くおれるし、寿命の長い森人なんかは経済っちゅうもんに興味を持っとらんしなぁ・・・・」
「鉱人は本から得た情報から推測する限り、割と自分の欲望に積極的な気はしますがね。ただ欲望に忠実だから【節約】という概念が薄い。まったくないって訳じゃないんでしょうけど」
「節約、なぁ・・・・」
「文明国の住人の大半は、自分たちの暮らしをよりよくしたいと考えて財産を増やすことに腐心する。そこで大体の人は目先のことに無駄遣いをすることなく、倹約や貯蓄を行います。そうすることで人々はより働き、労働者が増え、色々な生産が増え、国の富も増える。つまり、社会全体の利益や富を生み出す仕組みが育ち、生産が拡大していきます」
「それはそれで、竜人族には薄いもんやな。竜人族の大半は金に執着することをみっともないことやと嫌う。せやからワテらみたいな豪商は一段低く見られてまうし、あんさんの折り紙に大金をつぎ込むやつも出てくるっちゅうわけや」
「なるほど、金銭に対して興味、関心、執着を持たないことを潔しとしているのですか・・・なら、経済学なんてものは生まれないでしょうね。学問なんてのは必要としていない人にとっては無用の長物。あってもなくても同じ――どころか、あればあるだけ邪魔なものですし。さらに言えば、商人の立場自体あまり高いものではない、のですか・・・」
「まずは銭がなかったらどうしようもないとワテは思っとるんやけどな。金なしで発展しよる人族には勝てんやろ。今は兎も角、その内には負けるようになるやろな」
「それはそうかもしれませんね。何をもって勝ち負けを決めるかにもよるでしょうが。――まぁ私の国にもそういう時代がありましたよ。お金を持っている立場より、政をする人たちの方が強い時代が。その時は確か・・・膨大な借金を250年かけて無利子で返すことを約束されて、事実上踏み倒された人たちがいましたね」
幕末の薩摩藩と大坂の商人たちのことである。
「・・・・・・・・・・・」
そしてそれを聞いたジェニーの顔が心なしか青ざめ始めた。
「あ、もしかして、何か心当たりでも?」
「・・・・えっと、平賀屋和成やんったかな。ちょっとワテ、やらなあかん用事が出来たさかい、ここで失礼してもええやろか」
「折り紙の商談云々は・・・・」
「ああ、それはワテんトコが責任をもって売らせていただきます。細かい契約は後々に確認するとして・・・・これを渡しときます。もし他の商会に勧誘されたときは、これを見せたったらええ。言っとくけど、『哲学者』はんだけやないで。『料理人』と『医者』。それに『職人』の彼も、や。これからも他に売りたいもんがあるんやったら、是非とも『モウカリマッカ商会』を御贔屓に」
「「ありがとうございます」」
ジェニーから各々に渡されたのは、ハクから貰った龍の紋章に似た円盤である。材質と刻まれた文様以外の違いがないと言ってもいい。
「ほな、また」
慌ただしく席を立ったジェニーの退室を確認して、ようやく和成は肩の力を抜いたのだった。




