第379話 心世界 後編
グリンはあの衝撃的な出会いを思い返す。肌を熱が焼き、眼を明かりが突く火事の中、和成が仲間の焼死体を背負っていた。
夜の帳を照らす火災を背景に、逆光もあって遺体の煤で汚れた全身は真っ黒で。
そんな黒煙のような闇の中で、和成の皮膚に刻まれた赤い刺青だけがギラついていた。それもあって、グリーンは最初、和成を角なしの鬼人と感違いした。
(焼死した遺体に忌避感を抱くことなく、躊躇なく背負い救出した。その所業がどこから来たのか、別れてからもずっと考えていた)
今、ようやく分かった。
生と死に明確な違いを見出す特殊な眼が、和成という男をそれができる存在にした。彼にとって死体は死体、ただの物。物質であり、物体でしかない。だから嫌悪がない。だから触れられる。
そして、だからこそ尊重する。
無感動に生と死を見つめるフラットな交差点。彼は初めからそこにいた。
(何という壮絶な世界認識だ。さぞ生きづらかろうに)
この世の全ては塵芥。原子分子の集まりに過ぎない。
よって諸行無常、色即是空。価値に価値なし、意味に意味なし。
――和成の言葉の意味が、ようやくちゃんと分かった気がした。
いいも悪いもなく、世界はただそれだけ。
それが和成の世界観だった。
無意味も無価値も、彼が足を止める理由になりえない。
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二コラチェカは多くの悲劇を見た。多くの死を見た。
それは和成が確かに見ていた戦場の記憶。人族連合の兵士たちに犠牲者は多く、視野の広い和成はその姿をしっかり認識していた。
死の瞬間をトラウマとする和成は、誰にも明かさず一切表に出さなかったというだけで、その多くを脳裏に刻みつけている。
そして、和成自身も多くの命を奪って来た。魔獣、悪魔、魔王軍七大将。
同時に、和成もまた死んで来た。ブラディクスの不死性がなければ、何度命を落としていたか分からない。死より酷い状態になったことも珍しくない。
だからこそ彼が傷ついていることが、二コラチェカにはよく分かった。
(おにーさんは、人の心が見えるから人の痛みが分かる。それも見えるだけじゃなくて、聞こえて、嗅げて、肌で感じてしまう。その心を、痛みを、自分のものとして感じてしまう。共感、しちゃうんだ)
「いいや、主観だよ。俺が見ている景色は絵を見ているのと変わらない。画家が絵にどんな思いを込めようと、それを読み取るのは俺の主観だ。俺というフィルターを通した時点で、それは元の思いとは別物だ。俺の痛みは俺の痛みであり、相手の痛みは相手の痛みだ。どんな苦痛であろうと、それは他人のもの。俺が奪っていいものではない。だからこれは、俺が勝手に傷ついてるだけなのさ」
二コラチェカには分からない。
ハピネスやルルルと違い、戦場に立ったこともない天使族の子どもには。誰よりも幼い無垢なる存在には。
和成が負った傷がどれだけ深く複雑か、分かるはずもない。
「そもそも人殺しが被害者ぶるなど、ちゃんちゃらおかしい話だろうて」
だから和成の自嘲に対する反論も、分からなかった。
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和成は『ミームワード』を使いこなし過ぎていると、以前からレディ・ローズは感じていた。
歌声に魂の一部を込めることで、記憶や感情といった内在する情報を他者へ伝達する魂の歌。それこそが人魚族の特別な歌であり、魂同士で一方的に会話する話術『ミームワード』はここから派生した。
しかし人魚族がこの力を普段使いすることはない。声に魂を込められると言っても、それを日常会話でまですることはない。
情報を込める際の難易度が極めて高いからだ。
そもそも感情というものはグラデーション。
心に途切れなどなく、人の心に内在する情報は全てが繋がり、連動している。
欲と願いに境などなく、表層に浮かぶ人の意識はあくまで氷山の一角。かと言って、深層心理こそ真実という訳でもない。
全ては表裏一体。
心、思考、記憶、感情。全ては不可分であり、全てが脳神経のように複雑に絡み合い、相互に影響を与えている。
言葉に魂を込める時、思考だけ、記憶だけ、感情だけと、本来都合よく切り分けられるものではない。強い思いを込める時、細かい調整などできるはずがない。
何かひとつ伝えようとするだけで、それに紐づけられた他の情報まで伝えてしまう。知られたくない思考、伝えたくない記憶、墓場まで持っていきたい感情。
それらが些細な失敗で伝わってしまうのなら――言葉に魂なんて込めない方がいい。
魂に響く言葉を日常的に使うということは、伝えるべき情報と伝えるべきでない情報を、話の内容と共にリアルタイムで選別し続けるということ。白熱した会議、政治的な交渉、緊迫した現場であろうと一貫して、言葉に込める情報を調整し続けなければならない。
そうなると、もはや全ての会話が脳をすり減らす苦行である。
そんな人魚族でも使いこなせない力を、なぜ和成は使いこなしているのか。
ようやくレディ・ローズは理解した。
(情報を視覚等で物理的に識別できるのなら、切り分けられるのは容易か)
人の感情が目で見える。味や形、匂いで細かく把握できる。
だから自分の感情も詳細に分析、分類できるし、自分の内側にある感情以外の記憶や思考も切り分けられる。
和成の場合、あとは言葉に伝えたい情報のみ込めるだけだった。
(特殊な共感覚のため感覚の許容量が大きく、情報の処理能力も高い。五感が得る膨大な情報量の整理に異常なまでに長けている。だから伝えたい情報だけを細かく言葉に込められる。それが『ミームワード』をここまで使いこなせる理由。そして――)
そしてそれは偶然ではない。
和成にその素質があったからこそ、GODシステムは召喚時に『哲学者』の『天職』を『装備』させた。多くの情報を拾い上げる『観察』眼も、『思考』による情報処理能力も、和成が備えていた能力を補助より発展させたものだった。
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恋と愛と情。愛欲と性愛と下心。
少なくとも和成の視界において、それらに境などなかった。
(なんや恥ずかしいわ。――ぜぇんぶ見透かしはって、趣味のよろしいことで)
白龍天帝はその生い立ちからから、基本的に他人を信用しない。誰にも心を許さない。己の内心を察して欲しいのに、踏み込まれることは恐ろしいという矛盾を抱えている。
そういう意味では、和成は彼女にとって理想的な相手だった。
察してくれるのに、踏み込まないでいてくれる。その塩梅が絶妙で、距離感こそ彼女が和成にのめり込んだ一番の理由と言えるだろう。
そしてその距離感の正体こそ、特殊な共感覚という和成の五感だった。
和成の眼を通して、ハクは自分の感情を見る。
恋慕と下心、そして執着。ほのかに性欲もある。
――ひどくみっともない姿だと、自分でも思う。
浅ましい女の顔だ。
表情は隠しているつもりだったが、彼女の内心は和成に筒抜けだった。
故にこそ、当の和成が恋や性愛の実感に欠けていることは救いだった。
(心を読まれとるような感覚は、てっきり『観察』のスキルによるもんやと思とった。けどちゃう。そう誤解されるよう、うまいこと誤魔化されとっただけや。和成はんは何ひとつ嘘はついとらん。ホンマのことも全く話しとらんかっただけで)
気持ちは分かる。何故なら自分もそうだから。相手のことを信じていない訳ではないが、疑いを捨てられる訳でもないのだ。
信じることと、その上で疑うことは矛盾しない。
信じたいからこそ疑うのだ。疑うことこそが誠意なのだ。
盲信は尊重から最も遠いところにある。相手を理解したいからこそ、自分を知って欲しいからこそ、ビクビクと怯えながらも歩み寄り、疑心を残しながらも信じようとする。
それが2人の主義。根底のところで、ハクと和成の価値観は一致していた。
2人はどちらも疑い続ける。例え全幅の信頼を寄せる相手だろうと、まったく疑わないなどということはしないし、出来ないし、するつもりもない。
することが正しいと思っていないから。
それがこの2人の、最も揺るがない共通点だった。
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良くも悪くも自己完結してる。
親切が和成をそう称していた理由が、サファイアにもようやく理解できた。
自分は自分、人は人。他人と自分との間に超えられない一線を和成は引いているが、この共感覚の存在を知れば納得できた。
(ひとりひとりが異なる存在で、違うものは違う。――これだけ主観に隔絶があれば、そんな主義にも至るだろうさ。和成氏の視界からしてみれば、この世に同じ命はひとつとして存在しない。そして彼は普通なら見えないものが見え、感じないものを感じる。つまり他とは違うのは確かに事実で、そして、ただの事実以上の意味を持たない)
どうせ勝手に自分で救われるだけだとも親切は言っていたが、確かに和成ならばそうなるだろう。
(感覚の許容量が大きいため、そもそものストレス耐性が高い。感情を切り分けることに長けているから、不要と判断した情報を切り捨てることにも長けている。ストレスも怒りも憎しみも切り捨てられる。だから
自分の気持ちに、自分で答えを出して決着を付けられる。これなら確かに、我々が何をせずとも和成氏は自力で立ち直れる)
だがそれでも、たとえ助けがいのない相手だったとしても。
自分が彼の助けになりたいと思ったから、彼女はここにいる。
そしてそれは、きっとみんな同じだった。
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和成はすでに恥をかいた。隠していた秘密を暴かれ、その内心を多人数から覗かれた。ならこれは、最低限のマナーである。ここまでのことをしておいて、今更自分が恥をかくことを恐れるなど――そちらの方がよほど厚顔で恥ずべきこと。
そもそも彼女たちはこのために来た。
魂の会話を一方的に『ミームワード』で行う和成に対し、自分たちの真意を正面からぶつけるために来た。
――魂を込めて、愛の告白をするために来た。
「和成くん。私は、和成くんのことが好き」
今更恥ずかしがることなど、何もなかった。




