第314話 天使の子の空腹 前編
両性具有の天使の子、二コラチェカ。少女にして少年でもある空の妖精との生活は、湯治からの数日間安定していたといっていい。
ニコラチェカの傷は完治し、自由に砦のような竜車の中を歩けるようになった。魔力を食材に変換する『豊穣』の加護の魔法陣。毛布やシーツが保管されたリネン室。竜車に備え付けられた専用のバスタブ。
竜車内の案内だけでなく、それらを利用したかくれんぼ遊びなど、結果として和成と共にいることが最も多い。
子どもが苦手な山井や体力がもたない四谷には踏み込めない一線が存在したからだ。そして子供好きな和成もまた可愛がり、無表情だが人懐っこいニコラチェカはよく懐いた。
1人で寝なさいという和成の言葉を守れたのは結局一回だけ。それから毎晩、人肌が恋しいのか1人で夜眠るのが怖いのか、天使の子は頼れる保護者の布団に潜り込んできた。
だが、湯治から一週間目を迎えようという前日の朝。決定的な異変が起きる。
「おなか空いた……」
朝食が終わり、いつも以上におかわりを繰り返したにもかかわらず、ニコラチェカがそう呟いたのだ。
にもかかわらずそのお腹はパンパンに膨れ、薄手のシャツに近い天使の衣服を押し上げている。線の細いニコラチェカの、うっすらと浮かぶあばら骨と対比するかのごとく、膨張した胃袋がぽっこりと浮き上がっている。
その上で彼ないし彼女は、お腹と口元を抑え苦しげにうつむいていた。
「いや、あなた……どう見ても満腹じゃない。それ以上食べたら逆に吐いちゃうでしょ?」
「――けど、おなか空いた……」
「ええと、じゃあニコラチェカちゃん、私の分も食べちゃう?」
「ちがう……そうじゃない……」
山井と四谷には訳がわからない。『医者』の『診察』を用いても『死霊術師』の『生命感知』を用いても、ニコラチェカが何を訴えているのか分からない。
あくまでそれらは肉体的な情報を見ることは出来ても、心の中までは覗けないからだ。
しかし、確かに分かったことがある。
「何これ、HPがちょっとずつ減少してる!?」
「これってもしかして、『飢餓状態』!?」
それはニコラチェカが飢えているということであり、栄養失調状態であり、生命力が弱まっているということだった。
「おかしい、昨日は特に異変はなかった。いや、さっきまで何の違和感もなかった。今この瞬間、唐突にニコラチェカは急激に消耗している。なんなんだこれは」
「うう……」
そのまま顔色を悪くしたニコラチェカは、全身に倦怠感を抱えた様子で元気がない。和成たちは一斉に駆け寄った。
「だ、大丈夫!? ニコラチェカくん!」
「ちゃんと食べてたのに、平賀屋!」
「今『観察』してるところだ。これはもしかすると食材が悪かったか?」
「アレルギーってこと? じゃあ私たち、間違って食べさせちゃいけない食材を食べさせたの」
「いや、そうじゃないだろう。妖精族の半分は実体化した自然現象だから食べ物の成分とかは毒になりにくい。大気に満ちる『自然』のマナを取り込めば生きられるから、料理の栄養すら妖精族には必要ないんだ。
ならなんで食べるかというと、料理に含まれている栄養ではなく魔力を吸収しているから。カスミを食って生きていけるのも、マナで満ちた空気そのものが妖精にとってのエネルギー源であるからだ。
逆に言うと、含まれるマナが少ないのなら、空気を食っていける訳ではない。妖精族の生息域が点在しているのは、力の源であるマナが濃い場所がバラバラだからだ」
「てことは食べ物の成分とかじゃなくて」
「俺たちはもっとマナがたっぷり含まれた食材を食べさせるべきだったということだろう」
「けど、じゃあ何で今まで無事だったの!?」
「温泉で『自然』属性の神秘の力を吸収してニコラチェカは完治してみせた。それと同じように、雪山の冷気から少しづつマナを取り込んで栄養にしていたのだろう」
視線を窓に移した向こう側では、吹雪が雪山に更なる雪を積もらせている。そして更に視線を移し、和成は『豊穣の加護』を与える女神の魔法陣を指さした。
「竜車に刻まれた『豊穣』の魔法陣にマナを注ぐことで俺達は食材を得ている。しかし本来、人はマナだけを食べて生きてはいけない。だからあの魔法陣は注がれたマナを、食材という消化・吸収ができる状態へ再構築するものだ。
女神の『豊穣の加護』とは、通常栄養として摂取できない魔力を摂取できる状態へ組み替えるものだと言える。つまりあの魔法陣はマナを全部人族用の栄養に変えてしまうから、マナが必要な妖精が食べるとどれだけ食べても身にならないんだ」
「おなかいっぱいなのに、おなかすいた……」
「こんなことを見落としてしまうなんて、恥ずかしいッ!」
「あまり自分を責めないるな、山井さん。恥じる気持ちは俺も、そして四谷さんも同じだ。そしてまだ間に合う、決して取り返しがつかないわけじゃない」
見てみればニコラチェカに元気はない。体力が尽きたかのように竜車のコタツでへたり込み、机に突っ伏し立ち上がる気配もない。
ただ逆に言うと、座位を保ち続けるぐらいの力は残されている。つまり今すぐ入院が必要なほどの極限の飢えではないく、これから栄養を適切に摂れば回復するはずだ。
「ちょっとまってろ、ローズ姫からもらった人魚の食材の中に、何か良さそうなものがあるか調べてみる。『探』」
和成はマーメイドより贈られた、巨大な二枚貝の『玉手箱』を対象に即興魔法を発動。中身を調べ、妖精属性の力の源、大自然の神秘のマナを多く宿す食材を探索する。
「一応、良さげなものがあるにはあるんだが」
結果、複数の食材が見つかった。
当然、その全てが海産物だ。
しかし空に住まう天使族に海の生物を食す文化はない。地上の獣肉も、森の昆虫食も、海の生物も、天使にとっては受け入れ難い食材たちだ。
テーブルに載せられた新鮮な海産物の、ほのかに漂う生臭さと潮臭さ。和成たちからしてみれば、それらは調理によって気にならなくなる程度のもの。むしろこれこそ魚の臭いだと、懐かしさで食欲をかきたてられもする香りでもある。
しかしニコラチェカからしてみれば、顔をしかめたくなる悪臭でしかない。
「これ、食べなきゃダメ……?」
「他に食べ物がないなら、そうなるわね」
「やだ。絶対ヤダ」
「まぁそうなるよな。天使族にとって地上の食べ物は基本、竜巻とかで空に飛ばされたものばかり。大半は傷んでいて食べられたものじゃない。特に魚介は腐りやすいから、食べ物としてより汚物としてみてしまうだろうよ。どいつもこいつも、臭くて味が悪そうなものばっかに見えるだろうさ」
うまく説明できないままに拒絶するニコラチェカを、和成が知識で補足する。これまでの生活で言葉を交わし、互いの価値観を擦り寄せていたからこその説明だ。そして山井はしゃがみこみ、天使の子と目線を合わせ優しくさとした。
「ニコラチェカ、嫌なのは分かる。私だってそれしか食べるものがないからって、そこらへんの虫をとって食べるのは難しいわ。だけど、それを食べないと空に帰れないのよ?」
「……じゃあ帰らない」
「ち、違うよ、そうじゃないよ。そうじゃないんだよニコラチェカくん。食べないと死んでじゃうんだよ?」
四谷も説得に参加するが、それでも天使の子の食べたくないという意思は変わらない。魚介の青臭さで瞳に涙がたまるニコラチェカは、天使の服の裾をギュッと握り、いやいやとばかりに首を振っている。
当然だろう。身につけた習慣とはそういうもの。大人でも先入観はそうそう拭えるものではなく、子どのわがまま食わず嫌いと切って捨てていいものではない。
こうなる予感がしていたから、みんな魚料理を食べる時はニコラチェカのいないところで食べていたのだ。
「どうしようかしら。確かに私たちだって、これが薬だ食べなきゃ死ぬって言われて、目の前でさばかれた野良ネコを食べられるかというと」
「ぜ、絶対無理、断固拒否する。……無理やり食べさせられるか、それしか食べるものがないぐらいまで追い詰められたら話は別だけど」
だから和成は決めた。
「よし、分かった。俺が他の食材をとってこよう」
「どこからよ。……まさか外に出るつもり!? あんなに吹雪いてるのが見えないの!?」
「そのまさかだ」
心配から怒り出す山井は窓の外を指し、その向こうで舞う吹雪を指摘する。だが和成はその忠告をたった一言で終わらせた。
そのうえでニコラチェカと目線を合わせ語りかける。
「ニコラチェカ、好き嫌いは別に悪いことじゃない。食文化の違いによる嫌悪だろうが、単なる食わず嫌いだろうか、どっちも環境に影響を受けた主観的な好き嫌いだ。どんな理由で嫌いになろうと大差はないし、別にどんな理由で嫌ってもいい。嫌いなものは嫌いなままでいいんだ。
だから悪いことがあるとすれば、それは食べ物を残すことだ。嫌いだから残すのも、好きだけど食べきれないから残すのも同じこと。食べられないのであれば先に食べられないと伝えるべきで、出された以上、皿の上のものはなるべく食べきるべきなんだ。そして――」
和成は立ち上がり、ステータス画面から『黒竜装甲』を装備。刺々しい鎧に身を包み、外に出る身支度を整えていく。
「ニコラチェカはちゃんとそれをした。食べられないものがあると、理由も含めちゃんと伝えた。ならそれを気遣い工夫するのが俺のすべきこと。子供が腹を空かせているのなら、それを食わせてやるのが大人がすべきことなんだ。
食べられない食材ばかりなら、そうでない食材をとってくるべきだろう」
そしてその足は外へ向き、扉の方へ歩き出した。
「もっとも、それしかないなら食べてもらうしかないがね。食べなきゃ死ぬ以上、ニコラチェカには今あるものを食べさすのが保護者としてすべき事だ。
だからもしも俺が間に合わなかった場合、ニコラチェカが限界を迎えて何も食べられなくなる前に、嫌でもこの魚介類を食べてもらう」
「………」
「できる限りのことをしよう。嫌悪感が少しでも軽くなる料理と、大『自然』のマナをロスしない調理法を模索するとかで。どうか食べて欲しい。生きるために」
「……ん。わかった」
「という訳で山井さんと四谷さん、ニコラチェカを頼む。ついでにニコラチェカでも食べられそうな料理を試してみててくれ。俺もギリギリまで探した後、なさそうだったら料理の方に参加する」
「……分かったわよ、やれるだけやってやるわ。
ただし平賀屋、絶対に無事で帰ってきなさいよ」
「む、無理だけはしないでくださいね、部長」
「当然、ニコラチェカに血なまぐさいのを食わすわけにはいかんからな。だからそんなこんなで、行ってきますだ」
そのまま和成は竜車の外に出た。
天使の子の食材を求め、吹雪の中へ飛び込んだ。




