第102話 スライムパニック前編
学術都市エウレカの中央機関研究棟の一室にて。
和成が来訪初日に充てがわれた部屋で、今日のスペルの研究に備え詠唱の文言の暗記を行っていた朝。
昨日と同じように過ごせると、そう思っていた朝のこと。
「『――ヒラ、大変な事態だ!君はそこから動くな!今そっちに、慈さんと姫宮さんと剣藤さんとが向かっている!!』」
緊迫した親切の声が、焦り混じりに『伝達』の魔道具から響き渡った。
「!!」
その直後、最初にそれに気付いたのはメルだった。
「平賀屋様!窓です!」
言われた先をとっさに見ると、窓のガラスが溶けていた。
そしてそこには、透明な緑色のゼリーが水饅頭の形でへばりついている。
不定形の体を持つ、粘液の生物。
スライムだ。
ジュウウウウゥゥ
不安を掻き立てるような消化音と共に、白い煙が上がっていた。
目に入れば失明してしまうかも――という恐れが湧き立ち、慌てて和成は窓から離れる。消化とガラス、そして発生した白煙。何をどう考えて有毒性がありそうだった。目が使えなくなれば当然、『観察』のスキルも使えなくなる。
この緊急事態に手札を失うわけにはいかない。
そう方針を定めているうちに、スライムが窓ガラスを溶かし、部屋に入り込んでくる。
(ここは二階だぞ…いや、粘液で壁に貼り付けばそれぐらいは登れるか)
そんなことを考えながら、和成はスライム図鑑に記された情報を記憶底から引っ張り出す。集中によって起きたそれは、図鑑に描かれていた文言がそのまま、目の前に浮かんでくるかのようだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『グリーンスライム』
スライムの突然変異種。
通常のスライムと違い、衣服や『武器』を捕食する。Sランク以上の『武器』は捕食できないが、それ以下のランクの『武器』は容易に食べられる。このスライムを相手にする際は、多かれ少なかれ何かしらの被害を覚悟しなければならない。
また、その性質から婦女子たちの天敵でもある。スケベ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その最後の一文の俗っぽさは著者の趣味なので切り捨てるとして、衣服を食べるというのは困る。
今現在和成が来ている学生服は、クラスメイト達を除けば彼にとって、日本を思い返せる唯一の品と言ってもいい。愛着があるからこそ、なるべく普段から着るようにしているのだ。
それを食われたら泣く自信があった。
などとそんなことを考えている内に、スライムが何匹か部屋に侵入し和成とメルに這い寄って来ている。
「メルさん! 今のうちにドアを開けておいてください!」
「既に開けております! 早くこちらへ!」
たとえ人肉が主食でなくとも、スライムが危険であることに変わりはない。
服を捕食しようとするスライムに纏わりつかれれば身動きが取れなくなり、もしもそれで顔を覆われようものなら息は出来なくなる。そうでなくとも和成はそのステータスの低さから、下手なスライムの一撃だけで簡単に死亡してしまう可能性が高いのだ。
そしてスライムたちは、慌てて和成がメルの背後に回ろうとしたタイミングで、体を水風船のように弾ませて彼女を狙い動き出した。
「お前ら飛び跳ねるのかよ!」
予想外の動きに愚痴を叫びながらも、即座に和成はベッドの布団を剥ぎ取り、スライムたちへ被せてしまう。もごもごと奴らの動きがまごつき始めた。
そのまま布団を捕食し始めたので、このまま数秒は時間が稼げるだろう。
ともかく、今は逃げるべきだと判断する。足手まといな自分がいる時点で、まともな戦闘をメルに行わせることすら難しいのだから。
「よしっ!」
そんな風に呟いてから、和成は廊下へと向かった。
「うわ、」
そして呻いた。
何故なら、廊下のあちこちで緑のスライムが蠢いていたからだ。所々から、ジュウウウという壁や床が溶けている音がする。
つまりは消化音であり、スライムにとっての咀嚼音であった。
足の踏み場もないとは言わないが、走り抜けるには苦戦しそうな密度で、広範囲にわたって何匹もいる。群れて蠢くその姿から和成は、哺乳類よりも昆虫や細菌に近い印象を受けた。
「オダ、そっちの様子はどうだ?」
それはそれとして、一先ず緊急の連絡をよこしてくれた親友に状況を尋ねる。
今何が起きている?
わざわざ『ミームワード』を使わなくとも、その意図は伝わった。
「『正直苦戦中だね。スライムはレベルに比例する高い魔法抵抗力と物理攻撃無効化に加えて、ウンザリする再生能力を持っている。レベルが低ければ今のヒラでも倒せる雑魚だけど、レベルが高くなれば無茶苦茶強くなる。そういうタイプの厄介なモンスターだ』」
「このスライムたち、俺でも倒せるか?」
「『たぶん無理だね。僕たちが苦戦しているスライム相手に、今のヒラが使える攻撃は何の意味もない』」
「そうか。今の俺では不可能か…一番やり込んでいるお前でも無理…いや、今それは関係ないのか」
「『ああ、上級魔法をぶっ放すことさえできれば楽勝なんだよ。研究棟の中じゃ、どうあがいても不可能だけどね。威力があり過ぎる』」
「了解だ、じゃあ」
「平賀屋様っ!」
不意に、メルの緊迫した声が響いた。
「どうしました!メルさん!?」
「上を見てください!」
そう言ってメルが見据える天井を、和成もまた見上げる。
そこにもスライムが蠢いていた。
ボトッ
タイミング良く、或いは悪く、丁度その時にスライムが落ちてきた。
上を向いた和成の頭へ。
「――――!」
何とか自力でその一匹を交わすことには成功したが、その際に床を強く踏みしめてしまった。
スライムの知覚方法は大きく2つ。魔力と地面から伝わる振動の感知だ。
より大きい魔力へ引き寄せられ、振動の強い部分へ触れようと襲い掛かる。
それを知っていた和成は、既に魔力増量のアクセサリーをステータス画面を経由して道具袋へ送っていたのだが、それはそれとして和成の踏みしめてしまった右足へ、スライムが群がり始めた。複数のスライムが一時的に混ざり合い、合体し、バケツに詰めた緑のゼリーのように変化する。
そのまま靴とズボンの裾が泡に包まれた。
「―――」
慌ててメルが和成の体を引き寄せたことで、ちゅぽんという音と共にスライムの群らがりから足を抜くことには成功した。しかしその時には既に、和成の右足は裸足になっていた。ズボンの裾にも穴が点在し、ボロボロになってしまう。
「ああぁ…学生服が……」
割と本気で落ち込んだ。
和成は生来のものとして物持ちがいい。すぐに愛着を持ち、その愛着が強い。
以上のことから、もしもこの学生服が全部溶かされてしまえば自分は大泣きして数日はへこむ、と和成は自己分析を導き出した。
そしてその不安により動きが鈍くなったタイミングで、上から幾つものスライムが落下し始めた。
ただし、これはあくまで『攻撃』ではない。ただの自然落下である。もしもこれが『攻撃』であったなら、敏捷のパラメータの差から和成に回避は不可能であったはずだ。
「つかまっててください」
――了解しました。
その一言を口にする前に和成の視界が揺れる。
メルの言葉に反応して和成が体を掴んだ瞬間に、彼女がそ和成を抱きかかえて高速移動を行ったからだ。首が急加速や旋回で振り回されては危険なので、特に頭が胸に押し付けられる形で強く固定されている。
壁。床。天井。
メルは上下左右へ飛び跳ねながら、スライムのいない限られた部分をつたって脱出を試みる。
そんなジェットコースターにも等しい――しかし安全面でははるかに劣る――速度と移動の中では、和成に出来ることは、目に薄く涙を浮かばせながら全力で彼女に抱き着くぐらいであった。
「――――!」
☆☆☆☆☆
和成を救出するため、三人のクラスメイトが彼のもとへ走っていた。『姫騎士』姫宮・『聖女』慈・『侍』剣藤である。パーティメンバーの中でも特に機動力に長け、いざという時の回復技まで備えているメンバーだ。和成が現在室内にいて、その状況では『最上級魔導士』親切の魔法や『魔獣使い』熊谷が使役するモンスターの攻撃が使えない以上、この人選が最も適切なものであると考えられた。
しかし後々に冷静になって考えると、それが案外そうでもないことに気づく。
何故なら彼女たちは全員が女子で、服を捕食するグリーンスライムの数が異様に多かっためだ。これが熊谷が使役するモンスターであれば、そもそも服など来ていないのだから関係なかっただろう。
足の踏み場のない床、壁、天井の全てが緑の粘液に覆われた廊下を、彼女たちは通れないでいた。
そんな中、姫宮は1人果敢にも挑戦し突っ込んでいったのだが、あえなく返り討ちに会い悲惨な目に会っていた。一刻も早く和成の元へ行くことへの焦りから、彼女は周りへの注意が疎かになっていたためだ。
普通に足元のスライムで滑ってこけて、スライムの群れに突っ込んだ。
「いやあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待ってぇ!!!鎧に入り込まないで下着溶かさないでヌルヌルしないでぇぇぇ!!うわああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!いや、ちょ、まっ、あっははははははははははは!!!!やめろくすぐるなぁ!!脇はダメそこ弱い!おへそもダメ!ムリムリムリムリムリムリダメダメダあっははははははははははは!!!!助けてぇ!誰か助けてぇ!!このままじゃ私変態だよ!下着なしで粘液まみれで悶えてる変態だあっははははははははははは!!!」
「一から十まで克明な説明するんじゃない!」
「姫宮さん冷静になって!」
まとわりつかれたのなら弱めの技を使って吹き飛ばしてしまえばいい。
自分の『装備』は『破壊不能』の効果があるから問題ない。
そう考えた彼女の挑戦は失敗に終わった。
なにせ粘液が触れるだけで衣服が溶けるのだ。もはや面の状態であるスライムの群体へ果敢にも突入したが、その本体ではない分泌した体液が『姫騎士』専用の鎧の隙間から入り込むだけでも、下着を溶かしてしまう。彼女の場合、下着は『装備』の範囲外だ。姫騎士のパンツに破壊不能属性はない。
おまけに彼女はスライムに群がられるということを甘く見ていた。子どもの頃に遊んだ科学実験教室のスライムと同じか、或いはたとえ不快でも泥にまみれるのと同じぐらいだと考えていた。
しかし違う。自分の意思で触れることと、自分の意思とは無関係に触れられることの差は大きい。
スライムが好き勝手に鎧の隙間から入り込み、肌の上を這いまわり、同時に肌着と下着を溶かしていく。その感覚は全身を蟻が這いずり回る感覚と似ていた。何せ向こうは捕食しようと襲い掛かるのだ。ゾワゾワゾワと、溶かした捕食物をなめとり吸収する、極小の見えない舌が全身を這いまわる。
5秒ももたなかった彼女を、誰も責めることは出来まい。
しかしその嫌悪感から、咄嗟に彼女が『光』属性の攻撃技『シャイン・バーン』を使用したことは、慈と剣藤に抗議の権利があるのではなかろうか。
炸裂する光によって相手を物理的に吹っ飛ばすその技で、服を喰らうグリーンスライムとその粘液が内部から爆散し、彼女たちにも飛び散ったのだから。
それも盛大に。
「うぐっ、えぐっ、ひぐっ……下着食べられちゃったよぉ……私今、ノーパンノーブラなんだよぉー……」
「言わんでいい」
「説明しなくていい」
三人の眼が絶望に染まっていた。
「ううぅぇぇ……」
姫宮は鎧の下が全裸である。すっ裸である。鎧そのものは『破壊不能』の効果によって無傷だが、肌着と下着は全滅した。靴は鎧の一部なので無事だったが、靴下は完全に捕食された。カチャカチャと動くたびに直で肌に触れる金属の冷たさに、ヒうッと変化声が出るのを我慢する瞬間がたまらなく惨めであった。なお、溶かされないというだけで、鎧には冷たいスライムの粘液が付着したままだ。
心と体がみるみるうちに冷えていく。
暖かいシャワーを浴びたかった。
「…ちなみに、私はサ、サラシが切れて正直少々まずい事態だな…」
剣藤はまろび出る胸を片手で抑えながら答える。現実逃避だ。このままの格好で和成の――男子の救出に向かうわけにもいかず、さりとて帰ることも出来ず、人に見られては恥なので身動きも取れない。
サラシはその構造上、一部が切れるとどうしても解けてしまう。当然そうなれば剣藤の豊かな胸はモロ出しだ。今現在必死になって両手で抑えている状況であるが、動くたびにさらしはズレ、もはや捨ててしまった方がよさそうな状態である。
更にその着ている羽織は半分が溶け、着物にも袴にも大穴が点在し白い素肌が露出している。
下着である褌は無事だったが、彼女が褌を履いていることが見て分かる程度には袴に穴が開いていた。『侍』の装備は、褌も含めた状態で『装備』として扱われる。
「あと慈、透けてるぞ。下着も溶けかけている」
「えぇ!?」
そして意気消沈した口調で、剣藤は慈の阿鼻叫喚な様子を伝えた。常時の彼女であれば、事故であれそのような淫らな格好には強めの苦言を呈しただろうが、今の彼女にその覇気はない。
ちなみに、慈が着る『聖女の衣』は、清楚な印象を与える白が中心の貫頭衣だ。
それが、水に濡れて肌に貼り付き透けてしまったシャツのように透けて、下着とプロポーションが丸分かりになっていた。しかも染み込んだスライム液の溶解が進んでおり、徐々にその下着も溶けていく。
ぶるん。
下着の肩紐が溶けて千切れ、慈の支えられていた巨乳が大胆に揺れた。
「キャアァァァァ!!」
スライムの少ない別ルートを駆け抜けたメルと、彼女に抱えられた和成が彼女たちと合流したのは、丁度そのタイミングでのことだった。
☆☆☆☆☆
「おれはなにも見ていない」
ただし、和成は彼女たちの痴態を目に納めてはいない。
メルに抱かれていた時は頑なに目を瞑り続け、合流してからも空気を察して瞑り続けていたためだ。
肉体に防御力のパラメータによる補正がかかっていない彼からしてみれば、狭い廊下を縦横無尽に自分より背の低い――そこまでの差はないが――女性に抱えられたまま、ジェットコースターも顔負けな速度の中にいたのだから。
怖くない筈がない。
平衡感覚がぐちゃぐちゃになり、目が回り過ぎて今現在、彼は膝が震えてメルの補佐が無ければ満足に立てないでいる。仮に目を開けていたとしても視界は回り、彼が満足に彼女たちの状況を克明に把握することは不可能であっただろう。
なお、そのメルであるが、スライムの粘液から和成を庇ったために背面のメイド服は粗方溶かされてしまい、足首を隠すまであったロングスカートも半分以上溶かされている。ガーターベルトが露出し、一部下着の本体もちらちらと見える状態であった。
一応、顔の眼鏡とメイドのヘッドブリムは残っている。
だからなんだという話だが。
そして問題がもうひとつ。
蠢くスライムの壁が、明らかに大きく肥大し始めていた。
何故なら、突如として浮かんだ魔法陣より湧き水のように粘液があふれ出したからだ。
メルが渡って来た通路の飛び石のように点在していた足場も、スライムの大群にすっかり埋もれてしまう。
「――あれは、『召喚術』です!」
ただ、そのメルの緊迫した声がどれだけ女子陣に届いたのかは定かではない。




