メイド服を着た不審者
鳶田と二人でかけそばを食べていると、外から絹を裂いたような悲鳴が聞こえてきて飛び上がるほど驚いた。
ここは私の私有地で、離島で……人なんて居ない筈なのに。
いたとすれば、その人間は必然的に不法侵入者か遭難者だ。
不法侵入者だった場合、鳶田の反応が怖い。堅気相手に変なことはしないだろうけど、とてつもなく心配だわ。
でもよく考えたら、引っ越して早々不法侵入なんてありえない。どこのB級映画よ。
猿か鳥のどちらかに決まってるわ。
私がそう思い直したところで、難しい顔をした鳶田がおもむろに立ち上がった。
「お嬢はここにいてください。様子を見てきます」
そういった鳶田が手に取ったのは、猟銃と縄。
家業のせいか嫌な予感しかしない組み合わせだった。
「待って鳶田、鳥か何かに決まってるわ。山なんだもの、生き物くらいいるわよ」
「いえ、あれは間違いなく若い女の悲鳴です」
そう言いながら、鳶田は慣れた手つきで猟銃に弾を込める。
何故若い女の悲鳴だと断定できるのかはこの際置いておくとして、わかった上で猟銃と縄を手に取るって……まさか……。
私はサッと血の気が引き、思わず鳶田の腕にしがみついてしまった。
「ダメよ殺しちゃ!」
「大丈夫ですお嬢、殺しはやりません。ちょっと会って話を聞くだけです」
「えっ? じゃあその銃は……」
「これは猪用です。万が一にもお嬢の大事な島にサツが来るような真似はしませんから安心してください」
ニッコリと笑った鳶田の顔を見て、私は鳥肌が立った。
この顔は、ガレージで見せてくれた笑顔とは種類が違う。
絶対に鳶田だけで行かせてはならないと、私の勘が告げている。
「私も行くわ」
私は迷わず、テーブルに置いていたスマホとキーケースをジーンズのポケットに押し込んだ。
もし悲鳴の主が鳶田の言う通り若い女の子なら、鳶田を見て怯えるに違いない。
女の私がいなくては、きっと話にもならないだろう。
……ただし、警戒はするに越したことはない。
私はせめてもの武器にと、傘を手に取った。
「お嬢」
私の言動を咎めるように鳶田が言う。
顔に多くの傷を持つ鳶田に凄まれたら、普通の女の子は恐怖で何も言えなくなるだろうけど、私は違う。
産まれてからずっと、その筋の人間に囲まれて育ってきた。
それに、鳶田にこうして凄まれたのも一度や二度ではない。
少なくとも、そのへんの若衆より私の方が肝が座っていると自負している。
「行くったら行くの。不法侵入者だろうと、同じ女として怖がってる女の子を放っておけないわ!」
鳶田の怖い顔を真正面から見つめ返して啖呵を切った私に、鳶田は狼狽の色を浮かべる。
「ですがお嬢……」
「私の頑固さが父親譲りなのは、貴方もよく知っているでしょう?」
最後に不適に微笑んで見せると、鳶田は深い溜め息を吐き、額に手を当て天を仰いだ。
「まったく……今回だけですよ」
「嫌よ、次があれば次もこうするわ。ほら、早く靴を履いて。行くわよ鳶田」
「お嬢……」
今度は勘弁してくれと言わんばかりの声色だった。
少しだけ良心が痛んだけれど、こればっかりは譲れない。
文句があるなら「できない約束はするな」と口を酸っぱくして私を育てた父に言ってもらいたいと思った。
完全に毒気を抜かれた様子の鳶田を引っ張り玄関を出て、戸締まりをしていたところでまた悲鳴が上がった。
「鳶田!」
「裏山の方です」
言うが早いか、縄と猟銃を肩にかけて走り出した鳶田を慌てて追いかける。
裏山は小さい頃に何度か迷ったこともあるほど深く、その日の内に大人に見つけてもらえる程度には狭い。
島の中で特に人の手が入っていない裏山は基本的に舗装されておらず、獣道がいくつかあるだけだ。
「ふんっ」
鍵を開けるのも面倒だったのか、鳶田が門をサッとよじ登り、そして躊躇なく飛び降りた。
その間、僅か数秒。
揺れるポニーテールと鋭い視線が忍者を彷彿とさせた。
門に戸惑う私を一瞥したのにも関わらず、すぐさま走り出したところから察するに鳶田は私を撒くつもりらしい。
仮にも雇い主を置き去りにしようだなんて、相変わらずいい度胸してるじゃない。
っていうか、目算二メートルちょっとの門を数秒で越えてしまうなんて、本当に現役を退いたのか疑わしいわ。
私もすぐに鍵を開けて門をくぐったのだけれど、そのときには既に鳶田は木々の奥へと消え、足音も聞こえなくなっていた。
鳶田が進んでいった方向はわかる。獣道に入っていったのは見ていた。
けれど、私を撒くつもりなら獣道からすぐに外れたと思って良いだろう。
「……みてなさいよ」
いとも簡単に撒かれてしまった事が悔しくて、逆に私の心に火がついた。
絶対、鳶田より先に声の主を見つけてやるわ。
傘を握り締め、お腹の底でメラメラと沸き上がる炎へ酸素を送り込むように深く息を吸い込む。
目を閉じて思い起こすのは小さい頃。
まだ若かった右山さんが護身のためにと教えてくれた、逃走術―――。
「きゃぁぁあっ!」
本日三度目の悲鳴が聞こえた瞬間、私は強く土を蹴って山へ踏み込んだ。
傘を盾に枝葉を避け、茂みを飛び越え、岩を踏み台にぐんぐん進むと、少し開けた小道に出た。
悲鳴が聞こえたのはこの方角だと思ったのだけど、少しずれていたかしら。
そう思うが早いか、右手から土を蹴る音が近付いてくる。
慌ててそちらを見ると、黒いフードを被った人物が物凄いスピードでこちらに向かってきていた。
「ひゃっ、ど、どいてくださぁぁぁい」
声から察するに、女の子で間違いなさそうだ。
その後ろからは大きな猪が怒り狂ったように土埃をあげて迫っている。
念のために傘を持ってきていて本当に良かったわ。
私は彼女と同じ方向へ走り出すと、傘のホックを外した。
「お姉さん、なに――」
「口を閉じて!」
女の子が私に追い付く瞬間、私は猪に向けて放り投げるように傘を開き、女の子を抱きしめて近くの茂みへと飛び込んだ。
「っ!」
大きな音をたてて茂みの枝葉が身体中に当たり、あちこちがチリチリと痛む。
女の子の頭を庇うような姿勢を取る為に自分のことを疎かにしているから尚更、受け身も上手くとれなかった。
痛みに耐えながら茂みの向こうを確認すると、傘は転がっているが猪がいない。
慌てて周囲を見渡すと、一目散に逃げ帰っていく猪の背中を確認することが出来た。
計算通り傘に驚いてくれたようでほっとしたけれど、まだ油断はできない。
このまま猪が見えなくなるまで動かずにいよう……と考える間に猪は完全に見えなくなった。
今度こそ、私は安堵のため息を漏らした。
本当にうまくいって良かったわ。
最悪数ヶ所を打撲するくらいは覚悟していたつもりだったけれど、あのサイズが迫ってくる様にはさすがに恐怖を覚えたもの。
学生の頃に遭遇した猪って、小さいサイズだったのね。一度撃退したことがあるからって調子に乗っていたかも……ちょっと反省。
それにしても、普段臆病な猪を何故あんなに怒らせていたのかしら、この子……。
ていうか、よく走って逃げて追い付かれなかったものよね。
普通あんなに大きな猪に追いかけられたら、恐怖で体が上手く動かないと思うんだけど……火事場の馬鹿力ってやつかしら。
私なんて、ほんの一瞬対峙しただけで呼吸まで小刻みに震えているっていうのに……。
心臓は耳元でこれでもかと早鐘を打ち、震えた手で額をぬぐうとじっとり汗をかいていた事に気が付く。
……頭に血が上っていて考えが及ばなかったけど、ここに来るまでの間猟銃を持った鳶田に誤射されなかったのは幸運ね。
あちこちに小さな傷もできているし、バレたら鳶田に怒られそう。
けど、いいわ。私の気も済んだし、怒られたときは、鳶田が私を撒くからいけないのよって開き直りましょう。
私が現実逃避をしていると、私に抱き締められたままの女の子が苦しそうに呻きながら動きだしたので、慌てて開放した。
「大丈夫? 怪我は――」
私は思わず続きの言葉を飲み込んだ。
私の目の前で、天使のように可愛らしい女の子が琥珀色の大きな瞳を潤ませていたからだ。
走って逃げていたせいか、その頬はピンク色に染まっている。
可愛すぎる。こんなに可愛い女の子、テレビでも見たことがない。
「……あ、あの……危ないところを助けていただいて、ありがとうございます。私、もうだめだとばかり……」
大きな瞳から、大粒の涙がはらりと零れ落ちる。
ー彼女が慌てて涙を拭おうと動いた拍子に被っていたフードが外れ、緩くウェーブしたピンクベージュの髪が露になった。
か、かわいい……。
こんなに可愛い子が不法侵入……?
いいえ、きっと何かの間違いだわ。
猪の餌食にならなくて本当に良かった――。
そう思った瞬間、大きな発砲音が山に響き渡った。
「ヒッ! な、なんですか今の音は……!?」
一気に警戒を解いてしまいそうだった私を現実に呼び戻したあの音は、十中八九鳶田の猟銃。
方向からして、さっきの猪に向けて撃った可能性が高い。
結構近かったし、大声で呼べば鳶田が迎えに来てくれそうね。……呼ばないけど。
「大丈夫、私の仲間よ。一緒にここに住んでいるの」
とりあえず怯える女の子を落ち着かせようと、彼女の肩に優しく触れる。
「貴女の名前を教えてくれる?」
私が努めて優しい声色で微笑みかけると、ようやく女の子の震えが治まってきた。
「わ、私は……ミーシャと申します」
彼女の口から出てきた言葉に、私はまったく驚かなかった。
そのビジュアルで日本名を語られた方が衝撃だっただろう。
「私は茉莉よ。よろしくねミーシャちゃん」
「は、はい。よろしくお願いします、マリー様」
日本語が話せるだけに、名前の発音が気になる。
だけどまぁ、外国人みたいだし、きっと発音しにくい名前もあるわよね。
「それでミーシャちゃんは、何処からどうやってこの島に来たのかしら?」
私がにこりと微笑むと、ミーシャちゃんは決まりが悪そうに目を泳がせ、俯いたかと思うと再び涙を流し始めた。
「私は、……ランドルスから、ここに送られて来たんです……」
「送られてきた……? ランドルスって、地名? 人名?」
「私の祖国、です……」
「まぁ、国が貴女をここへ?」
私の問いかけに、ミーシャちゃんは悲しい顔で頷いた。
こ、これは……もしかして本当に不法侵入? ていうか、不法入国? いや、悲しそうだから誘拐の可能性もある。
スパイや工作員の可能性も頭を過ったけれど、それなら地名や名前を簡単に話さないだろうとすぐに思い至った。
それ以前に、そもそもランドルスって何処かしら。
ミーシャちゃんの顔立ち的に考えて、西洋か北欧の方だと思うんだけど。
「ええと、ランドルスって何処にあるの? 何大陸のどの辺りかしら」
「えっと、ランドルスはエボルシア大陸の南西にある王国です。一応、世界コルベルム連盟にも名前を連ねる国なんですが……ご存知有りませんか?」
エボ……エボルシア大陸?
世界コルなんとか連盟っていうのも聞いたことないんだけど……もしかしてこの子、嘘をついて私を煙に巻こうとしている――ようには、見えないわね。
家庭環境が家庭環境なだけに、私は結構他人の嘘や野心を見抜くのが上手いんだけど……ミーシャちゃんの目も仕草も、声の抑揚も、この言葉は真実ですと語っている。
薬物をやっている顔でもない。
「ごめんなさい、知らないわ」
「そうですか……それじゃあやっぱり、ここは……」
急に顔色を曇らせたミーシャちゃんに、私は首をかしげる。
ミーシャちゃんの様子を観察する限り演技ではなさそうなんだけど、だからこそ彼女の言動の背景が気になる。
私が、外国から来たというわりに流暢な日本語を話す彼女の言葉を信じる気になったのは、野生の猪から生身で逃げ続けていた事が引っ掛かっているからだ。
私の記憶が正しければ、猪って車と変わらないスピードで走れたはずなのよね。
こんな可憐な女の子がスカートとパンプスで逃げ切れる道理もないし……。
私は小さな顔を小さな手で覆って泣いているミーシャちゃんの手首に、そっと自分の手のひらを重ねた。
「何か訳がありそうね。もし良ければ私の家に来て、詳しい話を聞かせてくれないかしら?」
「で、でも……私……」
「大丈夫、私嘘を見抜くのは得意なの。だから貴女の話を信じるわ」
ミーシャちゃんの手を握って出来るだけ優しい顔を作ると、彼女は涙で顔をくしゃくしゃにしながら小さく頷いてくれた。
泣いているミーシャちゃんを宥めながら茂みから立ち上がると、どこからともなく「ミーシャ!」と切羽詰まった女性の声が聞こえてくる。
驚いて辺りを見回すと、茶色い塊を担いだ白髪の老紳士――もとい鳶田と、縄で縛られている女性を見つけた。
切れ長の目と青い瞳が詰めたい印象を与えるその人は、川にでも落ちたのか、頬に張り付くパールグレーの髪からいくつも雫を滴らせている。
服も濡れていて重そうだし、濡れて寒いのか顔色も悪い。
「フェルシアさんっ!」
思わずと言った様子で声をあげたミーシャちゃんを、あろうことか鳶田が睨み付けた。
「あんた、この女の仲間だな?」
ぎらりと目を光らせた鳶田に、ミーシャちゃんが押し黙る。
その体は小刻みに震えていて、家を出る前の私の懸念が正しかった事を物語っている。
私有地に不法侵入しているとはいえ、こんなに可愛い子に容赦しないなんて鳶田は本当に良くも悪くもブレないわね。
「ねぇ鳶田、私に何か言うことがあるでしょう?」
「お嬢、すみませんが少し黙っててください」
ミーシャちゃんたちだけでなく、私に対しても時々すごくシビアなのはなんとかならないのかしら。
「ええ、良いわよ。貴方がその人を縛り上げている理由に、きちんと納得できたらだけど」
ミーシャちゃんを威圧する鳶田に、視線で訴えかける。
ずぶ濡れの女の子を縄で縛って引き摺るなんて何事かと。
「この女は私を見るなり攻撃してきました、そんな人間を捕縛しないなんざ――」
「勿論その時貴方は銃を構えていなかったし、彼女を威圧してなかったのよね?」
「……」
「放してあげて、鳶田。もし縄を解いてその子が暴れたなら、その時は貴方が何をしようと口を挟まないから」
私の言葉に深いため息をついた鳶田が、背負っていた毛の塊を地面に降ろして縄を解きにかかる。
よく見ると、毛の塊だと思っていた物が猪だったことに気付いた。
やっぱりあの発砲音はこの猪を仕留めるときのものだったのね。
それにしてもこのサイズの猪を一人で抱えるって、鳶田は本当に現役を退いているのかしら?
ここまでくると本当に人間なのかも怪しいわ。
「ミーシャ!」
「フェルシアさん!」
縄を解かれるなり、パールグレーの髪の女性……フェルシアさんが心配そうな顔でミーシャちゃんに駆け寄る。
ミーシャちゃんもまた心配そうな顔でフェルシアさんに駆け寄り、二人はお互いの無事を確認しあっているようだ。
「ああ、ミーシャ……貴女の悲鳴が聞こえた時は心臓が止まるかと思ったのよ」
「私は平気です。そこのお方、マリー様に助けていただいたので」
「この人が?」
「それよりフェルシアさん、ずぶ濡れじゃないですか! 私のローブを使ってください」
「ありがとうミーシャ」
フェルシアさんは着ていたローブを脱ぎ、ミーシャちゃんのローブを羽織り直すと私に向き直った。
フェルシアさんは切れ長の目を訝しげに細めて、私を観察する。
不躾ね、と少しムッとしたけれど、鳶田が彼女にしたことを思えば当然かもしれないと思い直した。
「……確かに、さっきは私の事も庇ってくれたみたいね。裏にどんな思惑があるかは知らないけれど」
「フェルシアさんっ」
「ミーシャを助けてくれたことにはお礼を言うわ。だけど貴女、私達が何者かを知っていても助けたのかしらね」
「やめてくださいフェルシアさん! 失礼ですよ!」
私に刺々しい態度をとるフェルシアさんを、ミーシャちゃんが必死に止める。
猜疑心を持たれるのは慣れているから別に構わないけど……なんだかこの子、手負いの猫みたいで庇護欲が湧いてくるわね。
「貴女達が何者かは知らないけれど、知っていてもきっと助けたわ」
「何を根拠に……っ」
尚も噛みついてくるフェルシアさんと、彼女を再度捕縛しようと動き出した鳶田に向けて、私はにっこりと微笑んだ。
「生半可な覚悟で人助けするほど俗に落ちぶれちゃいないのよ。ねぇ鳶田?」
ミーシャちゃんとフェルシアさんが固まる横で、名指しされた鳶田は深いため息をついた。
「精々、お嬢のご厚意に感謝することだ」
鳶田も諦めてくれた事だし、詳しい話を聞くためには山を下りないとね。
また猪に追いかけられるのはごめんだわ。