暁の少年・1
世界は三つの界から成ると言われている。
蒼月、華月、王月。
そう称される界を行き来しあうには特別な場所と魔法が必要で、皆が使えるわけではなかった。簡単に往来ができないものとされていた。
蒼月は六つの大きな大陸と大小様々な大きさの島が百近く存在する。
そのうちの一つ、暁と呼ばれる大陸に雷霧はいる。冬には極寒の地と化し、夏はさほど暑くもならない最北の大陸だ。
とれる穀物は少なく、農業よりも鉱業で生活を成り立たせている土地であったが、長く戦火が収まることなく国土は疲弊していた。民の半数は逃げ出し、残り半数は戦いに巻き込まれることを恐れながら、あるいは自ら戦いながら暮らしている。
大陸南西部、ユームという小さな街の外れに兵士たちが詰める砦がある。雷霧はここで一人の戦士として日々を過ごしていた。
今年雷霧は十六になる。
ユーム砦を本拠地としている自由解放軍に所属してからすでに半年。何度か戦場にも出て、雰囲気というものを理解できるようになっている。
同じ年頃の兵士も、雷霧よりもずっと年上で経験豊富と言われる兵士も、そして雷霧自身も、常に死と隣り合わせのこの世界で生きることを選び、ここにいる。
生き残れなかったものも当然数多くいる。時にはその犠牲の上、生き残ることもある。
昨日まで隣にいた仲の良い兵士が死んでも、悲しみを振り切って戦場に出なければ自分が同じ目に会う。
この手で人を斬った回数などもう覚えてはいない。斬った相手だって死にたくはなかっただろう。仲間も家族もいただろう。それでも生き残るために剣を振るってきた。
すべて納得していたはずだった。
側にあった太い幹の木を拳で思い切り殴りつける。当然木が倒れるはずもなく、痛んだのは自らの手だ。
頬を涙が伝う。
拳の痛みのせいではない。加減などしなかったせいで手の甲はじんわりとにじんできた赤い血に染まっていた。
痛むのは胸の内。
雷霧は今日、大切な友人の死を知らされたのだった。
戦場では何があってもおかしくはない。隣を行く人が倒れても不思議ではない。
それでも彼が死ぬはずはないと信じていた自分がどこかにいた。
自分とは比べられないくらいに強くて、頭も良くて、いつも穏やかに微笑んでいる人だった。戦場で命が失われるなんて想像もしなかった。今もそこに笑って立っていそうな錯角を覚えるほどに、現実味のない話だった。
けれどどれだけ否定しても、嘘ではないのだと納得している自分が同時に存在していた。
ずっと探していた。
「一年後にまた会おう。……そんな顔するなよ。一年なんてすぐだよ」
暁のユームで会おうと約束をして、別れたのは一年と半年ほど前のこと。
彼に遅れて一年、この地を踏んで入軍し、すぐに探し求めた姿。幾人にその所在を聞いたことだろう。
見つかるはずなどなかった。彼はそのときすでに生きていなかったのだから。
まさかそんなはずはないと青い顔で問い詰めた相手は、そんな冗談など言うような人物ではなく、静止を振り切って雷霧は砦を飛び出した。
ずるずると殴りつけた幹に背を押し付け座り込む。どんよりとした空模様。分厚い雲は灰色がかっていて、今にも雨が降りそうだった。
風が緩やかに吹き抜けて、雷霧の濡れた頬を撫でて行った。短く切り揃えられた茶の髪が揺れる。同じ色合いの瞳は生気が無く、普段の雷霧を知る人たちが見れば絶句したに違いなかった。
この辺りは遠くまで目を向けても人影は見当たらない。一人になりたくて誰も居なさそうな場所を選んで来たからだ。
兵士たちのいるユームの外れ。町の外と言った方が早い場所。この辺りに民家はない。
一面の緑の草原。そう遠くない向こうに街が見え、反対側、雷霧が背を向けている方には小さな森がある。小さいとは言っても外周をぐるりと回れば結構な距離になる。こちらから向こう側を見ようとしてもどの程度続いているのかはわからないくらいだ。
街からそう遠くないのに、ここに誰も来ないのはこの森のせいでもあった。
魔の森とも呪いの森とも呼ばれる、正式な名称は誰も知らないが、そう言えばここのことだと通じる、一見何の変わったところもない森。
だがこの森は人の侵入を拒む。
中に入ろうとすると何故か理由もなく不快な気分になり、その場を離れたいという衝動にかられるのだ。
それを振り切って中に入ろうとすると、見えない壁にぶち当たる。文字通り、目に見えない壁のようなものがあって、行く手をさえぎるのだ。
手で触れると確かに何かの存在を感じるのだが目には映らない壁。
どうしてそんなものがこんなところにあるのかはまったくわからないが、どうにかしようにも、誰にもその手段がわからず、すでにかなりの期間放置されたままになっている。とりあえず近づかなければ害はないのだが、気味が悪いと言う者もいるので子供たちもあまり近寄らない。
この存在は雷霧にとって救いになった。
誰も近づかないようなところだから、一人になるにはもってこいの場所なのだ、こんな時には。
見つけたのは噂を聞いて湧き上がった好奇心から。そして噂どおり中には入れないと知って、浮かんできたのは恐怖でなく探究心。
以前にも何度か足を運び、探索したが、未だ人を拒むこの森の原因は発見できない。
今の雷霧には誰かと挨拶をすることすら億劫でしかなかった。何もしたくない、何も聞きたくない。放っておいて欲しい。
ここはそんな雷霧にとって理想的な場所だったのだ。
半端な慰めの言葉など欲しくは無かった。きっと親しい人たちは今頃事情を知っているに違いない。間違いなく優しく迎え入れてくれるだろう彼らに、どれほど暖かい言葉をもらおうが辛さが薄れることはないだろう。自分以外の誰にもこの気持ちが分かるはずがない。
声には出さず、言えなかった非難の言葉を繰り返す。
認めなければいけない現実を、簡単に認めてしまえるほど雷霧は大人ではなかった。わかっていても、割り切ることができなかった。
ここでくどくどと泣き言を並べても何も変わらないし、進めないことは分かっているのに、いつも通り振舞う気分になれない。
ただ一人のことだけが頭の中に浮かび、消え去ることがない。
振り払っても振り払っても思い出は雷霧に悲しみを突きつける。
遠い昔に同じようなことがあった。
あの時居なくなってしまったのは両親と兄だった。
人はこんなにも容易く居なくなってしまう。
「待ってるよ。一年」
信じていた。
その時は当たり前のように訪れるものだと疑っていなかった。
自分の迂闊さを呪う。
ここは戦場だ。誰かの命が常に失われていく場所なのだ。自分にも、親しい誰かにも、知らない誰かにも、等しく死が訪れるところなのだ。
そうしてどれだけの時間が過ぎたのだろう。
ぼんやりとしながら空を見つめ続ける目が変化を捉える。先ほどより雲が黒っぽくなって来たような気がする。
そういえば朝、家を出るときに、生意気な年下の、口が達者な同居人に今日は夕方から雨が降りそうだと言われていたことを思い出した。
もちろんすっかり忘れていた。ぼんやりとしていたし、ぐるぐると悲しみを掻き立てられていたからだ。
まだ離れたところに見える雲は、遠目にも嫌な感じがする。大雨になりそうな感じが。
動かなければひどく濡れるだろう。分かってはいても動くのが億劫だった。
雨に打たれていたら彼が迎えに来てくれはしないだろうか、いつかのように。
体を起こそうという気すら起きない雷霧の服に水滴が落ちてきた。
はじめは不規則にゆっくり濡らし始めたそれは、あっという間に勢いと量を増した。
どしゃ降りという表現が的確なのだろう。
これならすぐにびしょ濡れになれそうだと思っていると強い力で腕を引っ張られた。
何だ、と引っ張られた方向に目を向けて息を止める。
淡い枯葉色の髪をこの雨で濡らした少年がそこに立ち、両手で雷霧の腕を引っ張っていた。
「何してるんですかっ、濡れますよ!」
雷霧の行動が理解できないと言わんばかりに不快そうな表情をして、まだ幼さの残る声がした。
それが少年のものだと理解するまでにしばしの時を要した。
何度も引っ張られては雷霧の足が動き、ずるずると少しずつ、体が森の領域へと入る。鬱蒼と木々が生い茂る森だけあって、少し踏み入れただけなのに打ち付けてくる雨の勢いがなくなった。葉が代わりに受け流してくれているのだ。
少年としっかり目が合った。怒っているように見えた。
「風邪を引きますよ」
まじまじと至極もっともなことを言われるが雷霧はぽかんとして言葉がでない。
誰もいないと思っていたのにこの少年はいつからここにいたのだろう。人が側にくれば気付くものなのに、ぼんやりしていたせいと雨の音とでまったく気付けなかった。
背丈は雷霧の方が少し高いくらい。同じ年頃の少年たちと比べると小柄な方で、雷霧にとって背の高さは悩みの一つでもあった。結構な力で引っ張られたのだが、少年の体つきはゆったりとした衣服の上からも華奢と窺えるほどで、改めて見ると少し驚いてしまう。それだけ必死に引っ張ってくれたということだろうか。
「聞こえていますか?」
何も言わない雷霧に不審そうな眼差しを向けてくる。その瞳も髪と同じ枯葉色だ。色素の薄さは北方に位置する暁の人間の特徴だが、手の甲の色合いの濃さは北国の人間の白さではなかった。
「どこから来たんだ?」
ぽつりと呟きが漏れた。
勢い良く降り注ぐ雨音は大音量だったが、少年の耳は正しく聞き取った。
「ここではないところから」
笑みもなく、眼差しは冷ややかではないがどこか突き放したような印象を受ける。
雷霧を引きずるときに少年もまた雨の直撃を受けていたようで、髪も服も濡れていた。肩のあたりで一つに結ばれた髪の先から水滴が落ちた。伸ばされた髪の長さから、一瞬女の子か?と疑問が浮かんだものの、冷ややかな目線を受けて即座に否定する。
「この雨しばらく止みませんよ。ここにずっといるんですか?」
軍に居る人たちの服装とも、街の人たちの服装ともどこか違う。強いて言えば旅装のような、くたびれた長いローブ。腰の辺りを子供の拳くらいの幅の布でゆるく巻きつけて、裾はふくらはぎのやや下まで届くほど。
異質な何かを感じ取るのだが具体的に何なのか説明がつかない。
「……帰る」
思わず口に出た言葉が妙な違和感を伴う。
帰るところ。
彼はもういない。
それでも雷霧にはまだ帰るところがある。彼ではなく、待っていてくれる人たちがいる。
ほんの少し、申し訳ないような思いが浮かんで胸が痛んだ。
掌に力を込めて立ち上がり、振り返らずに駆け出した。すぐに大量に雨に打たれて不快な感じがしたが、しばらく進むともうどうでもよくなった。
帰る先、あの家では今もきっと待っていてくれる。
大切な友の名を口の中で繰り返す。忘れたりはしない、絶対に。でも待っている人がいるからもういかなければ。
弁解のようだと思って口の端に笑みを浮かべた。彼の姿を思い起こすとまだ胸が苦しかったが、何か吹っ切れたような感じがした。
そうして前をまっすぐに向くが視界は悪く、恐らく家だろうという影がぼんやり見えるだけだった。
ふと肩越しに後ろを振り返った。
当然何も見えるわけはなく、森なのだろうなと思える影があるだけで、人影は見えなかった。
雷霧は一瞬考えて歩を踏み出す。
――再び森に向かって。