22 漆黒の闇
彼らが連れてきたのは、セイリュウー大陸の女だった。
真っ直ぐな光沢のある胡桃色の髪に、濡れたような紺碧の瞳。切なげな表情は、希望通りだった。歴代の女の中でも群を抜くほどの逸材で髪と瞳が黒であれば完璧だった。
髪は染料で黒くし、瞳は紺碧のため光加減によっては黒にも見えた。
女との付き合いは十年ほど、長く行動を共にすれば情も移るもの。
かなり、気に入っていたのに。突然壊れてしまった。
「嫌よ!来ないでっ」
涙を浮かべながら、わたしを見ている。その瞳には明らかに拒絶の色が見える。
「どうしたのかい?わたしだよ、忘れたのかい?」
ベットの隅で身体をまるめ小さく蹲る彼女にゆっくりと近づいていく。
隣に座り、優しく、優しく髪を撫でる。ビクッと震えた身体はそれっきり動かない。
日も陰り室内には小さな淡いオレンジの明かりだけになる。涙で濡れた瞳は、闇のように黒かった。黒く艶のある長い髪が艶めかしい女の白い肌を際立たせる。
「美しい.......」
頬を流れる涙を手で拭い、瞳を見つめる。紺碧の瞳からは感情が消え失せ、身体は人形のようにピクリとも動かない。女の腕は、だらんと投げ出されたままだった。このまま、永遠にわたしの側に置いておこうか?動かない人形として。こんなに、気に入ってしまったのならば。
しっとりした肌からは体温が伝わる。
この狂ほすような甘い香りも気に入っている。
柔らかな唇の輪郭を指でなぞり、唇を重ねる。
自由になった手は、赴くままに白い肌を愛おしむ。
「あ、なた?」
不思議そうな顔が向けられる。状況が把握できていないのだろう、きょとんとしている。無表情だった顔が徐々に人間味を帯びていく。白い肌が色づき始め、伏し目がちな瞳は逸らされる。
「駄目だよ?わたしはそんなの君の顔も好きなのだから」
囁く言葉に、女は更に頬を染める。
次第に息遣いが荒くなり、切なげなそれに変わっていく。
細くて白い腕が首元へ絡みついて、ゆっくりと身を寄せてくる。
幸せそうにうっとりとした顔が向けられる。
「綺麗だよ...」
女の耳元で囁く。
女は、はにかみながら何かを口にしようとするが伝わることはなかった。
直後、耳を劈くような悲鳴が響く渡る。
瞳は、恐怖と恥辱の色に染められていた。
悲鳴は狂気へと変わり号泣したかと思えば楽しそうに微笑む。
奇行を繰り返しても、罵声を浴びせられても、そんなことはどうでもよかった。いくらでも、理想のかたちへ上塗りしていけばいいこと。幸運なことに私にはその力があった。だが、上塗りしても追いつけないほどに女が崩壊していたことに気付いていなかった、もしくは自分の力を過信しすぎたのかもしれない.......。
女は多くの信奉者の前で羽織っていた黒い衣服を脱ぎ捨て、心臓にナイフを突き立て高らかに笑い始めた。左の白い乳房に深紅の血が滴り始める。悲鳴をあげる者、泣き叫ぶ者、胸の前に手を合わせ祈り始める者。異常な光景に身を置いた人々は縋るように女、漆黒の女神を見上げる。
女神は滴る深紅を人差し指で掬い口に咥えた。舌舐めずりしていくと唇が鮮やかな深紅に染まる。妖艶な眼差しを浮かべ女神は信奉者を魅了していく。歓喜が爆発する。ドクドクと溢れ地面に落ちる深紅を人々は手に触れるために競い合う。女はそれを一瞥し嘲笑う。
歓声の中、ふらふらとこちらに歩いてきた女は抱きつき耳元で囁いた。
「愛している」と。それが女の最期だった。
彼らから連絡が来たのはその一ヶ月ほど後のことだった。
「希望通りの素材を見つけたので来てほしい」という内容だった。
そう簡単にアレと同等、もしくは越えるものなど在るわけがない!
わたしは憤慨していた。あんなモノにもう二度と会うことが出来るわけないとも思っていた。それでも彼らは諦めず説得を続けるものだから仕方なく足を運ぶことにした。部屋に籠りきりだったため外の空気を吸いたい衝動に駆られていたところでもあったからだ。顔だけ見せてすぐに立ち去るつもりでいた。
均衡が乱れ始めた今、唯一の神に人々は疑問を抱く。
疑問は確信となって人々は失望する。
今しかない。
そんな時わたしは彼と出会った。『楽園の翼』を立ち上げた直後に彼はわたしにあの女を連れてきた。それが彼の率いる『楽園の翼』との協定の始まりだった。彼らの後ろ盾により『漆黒の闇』の信奉者は驚くほどのスピードで増加しつつある。でも、まだ足りない。漆黒の女神は、あの方の使いであり、崇めるべき存在はあの方だ。朱い小娘を倒しあの方の時代を蘇らせる。それが、私のすべて。
抽象的な思想を普及するためには象徴となる像を作り上げ分かりやすく表現する必要がある。
それには、漆黒の女神は美しく魅力的な存在でなければならない。そんなに簡単に見つかってたまるかっていう気持ちはあったが、逸材と言われる人物にも会ってみたいとは思った。ただ、それだけだった。
「約束通り、立ち寄らせて頂いた」
大きな劇場の裏口に線の細いひょろっとした頼りない雰囲気の男が佇んでいた。不機嫌を隠すこと無く現れた私わたしに苦笑しつつ、「では、見るだけでも.......」と、控えめな口調で頑丈で重そうな鉄のドアを片手で軽々と開けていた。一見、ひ弱で風が吹けば飛んでいってしまいそうな男だが実際はそうではないらしい。
案内された小部屋のモニターに映し出された女に目を奪われる。瞳は閉じられているが、それでも分かる。内に秘める禍々しき力、それはあの方と同じ系統のものだった。
「.......素晴らしい...」
横で反応を静かに傍観していた男はニヤリとした。
「これは解毒剤です」と言うなり包み紙を手に握らせる。
どうやら女は猛毒に侵されているらしかった。死んでしまったら困る...。女の元へ駆けつけようとした直後、女の体が光りに包まれた。『癒やし』を施してもらっているようだ。ならば、毒の廻りを遅くすることができる、か.......。モニターを再度見る。隣の黒髪の少年に目が留まる。心配そうに隣に佇み女の手を大事そうに握っている。少年の持つ朱い双眸が腹立たしさを倍増させる。こんな穢らわしい手で触れるとは.......。
唐突にそれは起きた。
モニターが真っ暗になり、映像が完全に途切れ、次に劇場のあらゆる照明が次々に消えていく。男女の騒がしい悲鳴が響き渡る。隣にいた男は「失礼します」と一言を残し、軽快に走り去っていった。少しの間、消えたモニターを見ていたがわたしも男の後を追うことにした。
舞台上で、顔を覆い隠している二人の人影が見知った『楽園の翼』の手練れ達と大立ち回りをしているところだった。そこには先程まで自分を案内してくれていたひょろったした男も加わっている。彼は、氷の魔法と投擲武器を組み合わせて器用に操っている。魔法のランクはピンからキリまであるが彼のはピンの方だ。本当に彼が集めた仲間は優秀な者が揃っている。だが、彼の手練れ達は一瞬の隙を突かれてしまった。敵方の方が一枚上手だったようだ。このままだと、あの女が居なくなってしまう.......。わたしは駆け出していた。奴らが逃げるルートを予測し先回りし、いかにも一緒に逃げてきたかのように装い話しかける。
「これでは、早くは走れないでしょう。わたしが代わりに彼女を運びましょう」
すぐにでも触れている穢らわしい腕を薙ぎ払い女を奪いたかったがその衝動を抑える。焦って行動に移し逃してしまったら、二度と好機は訪れない。上手くいったとしてもそんな賭けが出来るほど軽い存在ではないのだ。
慎重に事を進めていかなければならない。
少年の女を抱えている腕に力が入る。どうやら疑われているようだ.......。
朱い瞳を見据え微笑む。瞳から輝きがみるみる失われていく。焦りは禁物。ゆっくりとゆっくりと心を操作していく。そして、ついに少年は女を腕から離した。
女を受け取りすぐに立ち去るつもりだった。だが、一度預けてしまった視線を女から離すことが出来なくなった。瞳が閉じられているとはいえ、顔立ち、体つき全てにおいてモニターで確認したものよりも美しい。陶器のような白い肌に発色のいい、形のいい唇がやたらと強調されている。吸い寄せられるように空いている片方の手で顎を持ち上げ気が付くと唇を奪っていた。
「な、何をっ!?」
少年の怒りを伴った声が聞こえた。もう立ち去っているとばかり思っていたのだが、すべてをそこで見ていたらしい。とは言え、体は動かせないようだった。額に指を押し付け、少年の記憶から自分の存在を消し去ろうとしていた時、遠くの方から声が響いた。
「おい、小僧。置いて行かれたくなかったらとっとと来やがれ!」
これはこれは.......。
役者が揃いつつ在る現状に口元が緩む。でも、今はまだ早い。まだ途中だったが姿を隠すことを優先する。
「行け...」
ゆらりと方向を変え、少年は真っ直ぐに駆け出していった。
女をベットに寝かす。
長い前髪がバサリと顔にかかる。髪を整えるために触れた頬は驚くほど冷たい。顔色も先程より明らかに悪い。女の呼吸はかなり弱々しく力ない、命の灯火が残り少ない事を知らせていた。
窓の外は真っ暗で陽はすっかり沈んでいた。
朝から出突っ張りだったせいか、かなり長い一日のように思われる。女の手の甲に口付け、髪に触れる。艶やかで真っ直ぐな髪がさらさらと流れる。短いままでは勿体無い、長くしよう...。女の上体を起こし、ひょろひょろした男から貰った例の白い粉末を口に含ませ水を流し込む。水が口から無くなったことを確認してベットの傍らに腰掛けて様子を見る。
不意に女の胸元がもぞもぞ動いているのに気づく。
これは、また...。胸元から顔を出したソレに向かって手を差し伸べる。
「さあ、おいで。怖がらなくていい」
動かない。
「おいで」
動かない。が、ソレに頭を撫でることに成功する。
「お前は、誰だ...?」
予期しないところからその声はした。その声音に心躍らせる。低いけれど心地の良い不思議な声だった。そこには、本物の漆黒の闇があった。潤んだ瞳は艷やかで、瞳を向けられるだけで心を奪われてしまいそうだ。黒い光が女の全身を包む。
「...おぉ.......!素晴らしい!」
「なに訳の分からないことを...。質問に答えろ...」
「その深い闇も、威勢の良いところも気に入った」
「何度も言わせるなよ?お前は、、、」
女の首がガクンとなる。
「わたしはルピナスと申します。漆黒の女神様...」
深々と頭を下げ、ルピナスは瑠璃色の瞳を輝かせた。腕の中には先ほど手に入れたばかりのソレが心地よさそうに蹲っていた。『ム〜ム〜』甘えるような声でルピナスを見上げる。
「あ、あの.......、私...」
「心配しないで下さい、大丈夫ですから。ずっと側にいますから」
困惑しながらも顔を上げる女にルピナスは笑顔を向けた。