カモミロ、闘牛やめるってよ
鐘が響き渡る。
正午の強い日差しは今日も一分の隙もなく石畳を焼いていく。
煙草工場からは女工たちがお喋りに花を咲かせながら踊るように出てきた。
さて、室内に視線を戻すと私はエプロンを結ぶ。
太陽が高く昇って、街が気だるげに緩むこの時間から、私の仕事は忙しくなる。
ドレッサーにかがみ込んで軽く髪を整えて、引き出しから紅を取り出す。
薬指で唇をなぞったとき、ふと鏡の中の自分と目が合った。
唇をすり合わせて紅を馴染ませると、まばたきをひとつして軽く息を吐き出す。
今日で最後か……カモミロの闘牛が見られるのは。
◇
カモミロは、いつも半分眠っているような、つかみどころのない男だった。
私が闘牛場のアリーナを囲む数多くの酒場のひとつ『ベルガモット』の給仕として働きはじめたときから、カモミロの評判は風景の一部のように街中に浸透し、彼の話を聞かない日はなかった。
稀代のマタドールである彼について、ミーハー的な好奇心が全くもってなかったというわけではないが、私ははじめ彼についてはやや否定的な見方をしていた。
カモミロは、およそ闘牛士という言葉の持つ美しくも猛々しいイメージからはかけ離れた人物だった。
なにしろ、いつも寝ぼけているのだ。
あくび混じりにアリーナに現れて、興奮した闘牛を前にしてもとぼけたような緩慢な動きでムレタを構え、それでいて圧倒的な強さで牛を降す。
この落差が熱狂を呼び、彼は瞬く間に当世一のマタドールへと昇りつめた。
寝ぼけながら牛を刺す。
それは一種の演出というか、他の闘牛士との差別化をはかるための戦術……それも、やや誠実さを欠いたもののように感じられて、うさんくさく思ったものだ。
まあ、一介の給仕がどんな感情をもったところでカモミロには何の影響もなかっただろうし、この街一番の花形である彼にとって私なんて石畳を掃いていく鳥の羽根と同じくらいには取るに足らないものであるに違いない。
そんな『向こう側』の存在だったはずの彼が、なぜ私の心にこうも深く入りこんで、いまだに胸をざわつかせるのか。
あの日……時間にしたらほんの短い間。
重なったのだ、私の日常とカモミロが。
それも、圧倒的な熱と重みを持って。
◇
闘牛場の酒場で働く給仕にはふたつの資質が求められる。
ひとつは闘牛に熱狂しないこと。
なにしろ鉄製の格子を挟んだホールの向こう側はもうアリーナで、マタドールの勇姿はもちろん、巻き上がる砂埃や牛の鼻息まで間近に感じとることができる。
闘牛好きにとってはまさに特等席、アリーナに背を向けて酒を運ぶなどとても我慢できないだろう。
つまり、闘牛狂はここで働くことはできない。
給仕たるもの、いつでもお客さまの方を向いていなければいけないのだ。
その点においては、私は条件をよく満たしていたといえる。
もともと闘牛は好きでも嫌いでもない。
田舎から出てきたとき、たまたま女工の空きがなくてここの給仕になっただけだ。
そんな私でも、働いているうちに闘牛の面白さはそれなりにわかってきた。
日常ではまずお目にかかることのない猛獣……人間の倍以上も重量がある牛に、身ひとつで立ち向かうマタドール。
きらびやかな衣装とは裏腹に、常に死と隣り合わせの厳しい世界を生きている彼らは確かに魅力的だった。
そのなかでも、やはりカモミロは群を抜いていた。
ムレタで獲物を翻弄しながら、不意に両の角の間に立って伸びをしてみせたりする。
張り詰めたような緊迫感と、それがふっと緩む一瞬。
そして最後の瞬間は美しく、いつだって一撃で牛に引導を渡す。
この世の音が消えてしまったかのような静けさのあと、ぐらりと、絶命した牛が横たわったときに歓声の上がらない日はなかった。
場内のすべてを支配するような、独特の華が彼の闘牛にはあった。
闘牛の話が長くなったが、給仕に求められるもうひとつの資質、それはムレタをひるがえすマタドールのごとく、酔客の誘いをかわすこと。
猛獣とマタドールの戦いを間近にして、その熱を直に受けた興奮に加え、酒まで入ってしまえば紳士でいられなくなる男のひとりも出てくる。
一晩の温もりを商いにする女性と酒場の給仕との区別がつかなくなるのも無理からぬことなのだ。
そして悲しいかな、私はその資質を十分に備えているとは言いがたかった。
あの日もそうだった。
「おい姉ちゃん、こっちで一緒に飲もうぜ」
プログラムが終わり、客もようやく引けはじめた時間、背後から聞こえた陽気な声に私は片づけの手を止めた。
振り返ると、声をかけてきたのはよく日に焼けた体格のいい男だった。
ここ最近急に増えた、山師とも傭兵くずれともつかない流れ者だ。
今日は平和に終われると思ったのに……心の中でため息をつく。
「仕事中ですので」
なるべく感情を乗せない声を出すと、男は口の端を片側だけ上げて笑った。
「そんな堅いこと言わずにさ、ちょっとくらいいいだろう? ほら横、座りなよ」
『ちょっとくらい』いいかどうかを決めるのは、お前ではない。
「あの、本当にダメなんで……」
うつむきがちに言ったとき、強い力で腕を掴まれた。
ざわっと肌が粟立つ。
このあと、男が使う言葉は決まっている。
「いいじゃねえか、減るもんじゃないし」
ああ、なんで私は女工にならなかったんだろう。
酒場の仕事は嫌いではなかったが、こんな時はつくづく思う。
減るのだ。
何がなのかはっきりはわからないけど、確実に。
こうやって無遠慮に体を触られる度に、私の中のなにか……きっと本当は、いつか出会うかけがえのない人のためにある、温かくて優しいような……少なくともこんな場所で不当に消費されていいはずがないものが、どんどんすり減っていくのを感じる。
煙草工場の女工だったら、指先を真っ黒にして神経をすり減らすことはあっても、こんな思いをすることはなかっただろう。
じわりと、額に嫌な汗がにじむ。
「ここはもういいから、貯蔵庫を見てきてくれ」
横で聞こえた低い声に顔を上げると、支配人が立っていた。
男はしらけたように掴んでいた手を離す。
助かった。
いまだにこんな客のひとりもあしらえないのかと呆れ顔の支配人に背を向けて、私は逃げるようにホールから離れた。
◇
それで終わっていれば、この日はただの……ちょっと仕事で嫌な思いをしただけの普段通りの一日だった。
でも、その日はまだ終わらない。
長い夕暮れが終わると、あたりは急激に夜になる。
遠い空で妙に小さい月が光っていたのを覚えている。
夕方までの喧騒が嘘のように静まり返った街を早足で歩く。
雲が月を隠したときだった。
「よお」
路地から聞こえた声に心臓が冷える。
苦い記憶と結びついた、あまり聞きたくない声。
「仕事は終わっただろ? 俺と遊ぼうぜ」
目の前に立ちはだかったのは酒場で私を誘った男だった。
足元から恐怖が上がってくる。
どうしよう、逃げないと……でも、どこへ?
アパートを知られるわけにはいかない。
いや、そんなことを考えてる場合じゃない、とにかくここを離れるんだ。
走り出そうときびすを返したとき、両手で腰を掴まれた。
そのまま形を確かめるかのように手のひらがわき腹を撫であげる。
ぞわっと、大量のアブラムシが一斉に這ったような感覚に背中が跳ねる。
「ふふ、お高くとまったところで所詮は酒場の女だな」
恐怖と嫌悪で体が動かない。
大声で叫ばなければいけないのに、こわばった唇はまるで声の出し方を忘れてしまったみたいだ。
「なあ、いいだろ? 一緒に楽しもうぜ」
耳元でいやに粘っこい声が聞こえて、生温かい息が首すじにかかる。
わき腹にあった手が、ゆっくりと体の前に回された。
嫌だ……こんな男に体を好きにされるなんて絶対に、絶対に嫌だ。
ぎゅっと強く下唇を噛む。
「なにやってんの?」
のんびりした声が聞こえたのはその時だった。
◇
私は置かれている状況も忘れて現れた男を見つめた。
夜に馴染む浅黒い肌に、半分しか開いてないような細い目。
見覚えがあるはずなのに、どこで会ったのか思い出せない。
再び顔を出した月が辺りを照らしたとき、彼はふうっと息を吐いて伸びをした。
そのとき、私の中でぼやけていた線が一本につながった。
カモミロだ。
きらびやかな衣装でアリーナに立つ姿しか見たことがないからすぐには気づかなかった。
間違いない、目の前にいるのはこの街一番のマタドールだった。
「見ての通りお楽しみ中だ。邪魔しないでもらえるか?」
男の言葉にカモミロは肩をすくめた。
「それはすまなかった……と言いたいとこだけど、俺にはお姉さんが楽しんでるようにはとても見えなくてな」
チッと男が舌を鳴らす。
「ああ? そんなに邪魔したいなら、まずはお前に相手してもらおうかな」
片手で突き飛ばされるようにして私は解放された。
よろよろと壁にもたれる。
昼間の熱を吸った煉瓦がざらりと温かく背中に触れた。
「やめておいた方がいい。いま俺は金刺繍を着ていないし、お前は角の一本さえ持っていない。手加減なんて出来ないぞ?」
間のびしたような独特の声は何故なのか、どこか誘ってるようにも聞こえる。
「マタドールだかままどおるだか知らねえが、畜生としか戦えないような優男はさっさと家に帰ってお寝んねしてな」
「いや、そうしたいのはやまやまなんだが……」
カモミロはふぁ、とあくびをするとニヤリと笑った。
「なるほど俺が普段相手にしてる奴らは畜生だ。だって、嫌がる女の子を無理やり誘ったりはしないからな」
その言葉が開戦の合図になった。
「てめえ!」
まっすぐ繰り出した拳がカモミロの頬にぶつかる。
痛々しくて思わず目をそらす。
視界の端、カモミロは少しよろけたように見えた。
胸がはらはらする。身の置き場がわからない。
続けざまに打ち出された2発目の攻撃を半身でかわして、カモミロは男の襟首をつかんだ。
そのまま体を半回転させると、次の瞬間には男の顔面が壁に叩きつけられていた。
ゴリッと、硬い音がした。
男はそのままずるずると崩れ落ちた。
カモミロはふうと息をつくと、壁にはりついたまま動けない私に目を向けた。
「大丈夫?」
相変わらずのんびりした声だったけど、少し息が上がっていた。
この『大丈夫』が何をさすのかはよくわからなかったけど、とりあえず頷く。
私と動作を合わせたようにカモミロは2度頷くと、あくび混じりに言った。
「家まで送るよ」
夜の風に混ざって、砂埃とも煙草ともつかない独特のにおいが通り過ぎる。
この街に来たばかりの頃は思わず顔をしかめたにおいも、今ではすっかり馴染んでしまった。
「女工?」
ひとりごとのように、小さい声でカモミロが言った。
「いえ、給仕なんです。ベルガモットっていう、酒場の」
「ああ、あそこか」
納得したようにカモミロは視線を空に向ける。
もともと職場からそれほど離れているわけではない、アパートにはすぐに着いた。
階段を上がった先、ドアの前で私は頭を下げた。
「あの、今日は、本当にありがとうございました」
何かお礼をしたほうがいいんだろうか、店に来てくれたらワインの一杯くらい私の給料からでも出せるけど……いや、かえって迷惑かもしれない。
そのときはたと気づいた。
そういえばカモミロは殴られていた。
「あの、手当とかしたほうが」
顔を上げると、カモミロは面倒くさそうに頭を振った。
「ああ、そんなのいいから、大したことないし」
あまりにとってつけたような言葉だったと、自分でも恥ずかしくなる。
だいたい素人の私になんの処置ができるというんだろう。
「それよりさ、もう眠くて限界なんだ」
カモミロはふわぁと大きくあくびをした。
「悪いけど、君のベッドで……寝かせてくれない?」
心臓がどくんと鳴った。
にわかに体の芯が熱く震えて落ち着かなくなる。
それは、当世一のマタドールとも思えない、使い古された陳腐な口説き文句だった。
あるいは、彼にとってそれ以上の言葉なんて必要なかったのかもしれない。
大抵の場合、答えはもう言葉を発する前に出てしまっているものだ。
そのときの私もそうだった。
ベッドと小さい机のほかは何もない部屋。
シーツに押さえつけるかのように、カモミロの体が覆いかぶさってきた。
闘牛士の例にもれず、カモミロは男性にしては小柄だったが鍛え上げられた体は重く、私の動きは完全に封じられていた。
いや、それ以前に私にはもう抵抗する気もなかった。
私は混乱していた。
いつも間近でカモミロの姿を見ていながら、それまでの私にとって彼はどこか別世界の人間というか、格子を隔てた先のアリーナにのみ存在する闘牛士という生き物のように感じていた。
そんな彼がいきなり私の世界へ現れて、私を悪漢から救い、そして今、こうして私をベッドに組み敷いている。
激しく鳴っているのは、彼の胸か、私の胸か。
カモミロの肌の温度に触れるたび、高揚感にも似た抗いがたい熱が体の奥からあふれだしてくる。
きっと、こうなってしまったらもうどうしようもないんだろう。
私は自分の体のあまりにも素直な、そしてはじめての反応に身をゆだねることにして、そっと目を閉じた。
ふと、自分がすっかり自由を奪われて、とどめを刺されるのを待つだけの獣になったような感覚に陥る。
喉の奥が狭くなったように苦しくて、頼りなくて、不安で、でも、決して嫌な気分ではなかった。
体の上にいるはずの男からは、整髪料の甘い香りに混ざって、汗と土埃のにおいがした。
この人は、太陽みたいだ。
ふっと口もとをゆるませたとき、耳元で規則正しい呼吸が聞こえた。
それと合わせて、カモミロの体がゆっくりと上下するのが伝わってくる。
夜半の風が窓を揺らしていったとき、頭の中に小さな違和感が生まれる。
なんだろう……なんか変だ。
この静けさが、これから行われる行為に際しての自然な流れではないことは、経験のない私でもなんとなくわかった。
深く呼吸をして、閉じていた目をゆっくりと開く。
ぼんやりと、月明かりに浮かび上がってきたのは、私をベッドに押し倒したまま熟睡する、あまりにも無防備な寝顔だった。
◇
話はそれで終わりだ。
いつの間に眠っていたのか、私が目を覚ましたときカモミロはすでにベッドから降りてあくび混じりに身支度をしていた。
私はどうするべきかわからず、考えた末にコーヒーを淹れて少し固くなったバゲットと共にカモミロに差し出した。
コーヒーカップはひとつしか持っていなかったので共同の台所から拝借してきた。
私達は言葉を交わすこともなく質素な食事を済ませた。
「うまいな」
コーヒーを飲んだとき、驚いたようにカモミロが目を開いた。
コーヒーはその都度ミルで挽いている、小さなこだわりが認められた気がしてなんだか嬉しかった。
「今日はありがとうな」
「いえ、こちらこそ」
形式通りのような挨拶を交わして、カモミロは朝焼けの中に消えていった。
アパートのドアを閉めるとすっかり気が抜けてしまって私はベッドに座り込んだ。
いったい、なんだったんだ。
しばらくベッドの上で放心していたけど、ふと枕元に真っ赤なスカーフが残されていることに気づいた。
私のものではない、カモミロの忘れ物だ。
燃えるような赤……にわかに鼓動が早くなる。
どうしよう、追いかけようか。
立ちあがろうとして思いなおす。
今すぐに追いかけなくても、カモミロは闘牛士だ。
職場に行くついでに闘牛場の見習いにでも渡せば彼のもとには届くだろう。
そもそも忘れていくくらいだし、それほど大事なものでもないのかもしれない。
いろいろ考えた末、私はそれを部屋に置いておくことにした。
忘れ物を取りにカモミロがこの部屋を訪れることをまったく期待していなかったと言えば、それは嘘になる。
しかし、そんな私のわずかな希望をよそに、カモミロが格子のこちら側に現れることは二度となかった。
それからというもの、カモミロがアリーナに立つ日は高揚と少しの優越と、その裏に貼りついた寂しさと、形容しがたい感情が押し寄せてどうにも落ち着かない気分になった。
ダメだとはわかっていても、つい彼の姿を目で追ってしまう。
カモミロとのことは、助けてもらった感謝と共に、女性としての尊厳を傷つけられたような怒りを感じることもあったし、その実、どうしようもなく甘い記憶として思い返すときもある。
あの夜の出来事、カモミロから何の沙汰もないこと、そして心を乱していく整理のつかない感情さえも、そういうものだと受け入れられるようになるのに、ひと月ほどの時間を要した。
私はあの日、カモミロにベッドを貸した。
きっと、それ以外のことは考えるだけ無駄なんだろう。
真っ赤なスカーフは、今でも机の上にある。
◇
「八百長してたのがバレて追放されるんでしょ?」
「ええ? あたしが聞いたのは、実は高名な貴族の生まれで家督を継ぐために帰るって話だけど」
「ゆっくり昼寝したいからじゃないの?」
「ああ、カモミロさまの勇姿がもう見られなくなるなんて……」
髪に結び跡をくっきりとつけたままお喋りに興じる女工達の中、ひとり黙り込んでいる少女がいた。
ワインにも口をつけず、静かな目でアリーナをまっすぐに見ている。
もしかしたら、彼女もカモミロにベッドを貸したことがあるのかもしれない。
カモミロの最後の舞台をひと目見ようと観客がひしめく酒場と対照的に、無人のアリーナは不気味なほど静かで、時おり乾いた風が砂を巻き上げていく。
カモミロは闘牛場を去り、ひとつの時代は終わる。
でも、この街も酒場も変わらない。
きっと、明日も私はエプロンを結んで、ワインを注ぎ、グラスを磨き、酔客を適当にあしらって……そうやって日々をつないでいくんだろう。
格子の向こう側に、カモミロの姿がなくても。
そして、いつしか人々の熱狂は新しいスターへと移っていく。
スライスしたバゲットにオリーブとトマトを挟んでいたとき、ホールで歓声が上がった。
どうやら、始まるらしい。
ちらりとアリーナに目をやると、ちょうど正面の扉が開くところだった。
引いてきた男達を振り払うようにしてうなり声を上げた猛獣は、強い日差しに照らされて黒々と輝いていた。
おしまい
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