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産業医面談室の記録 ―小さな変化の話―

産業医面談 第二話 遅刻の理由

作者: 寺西志穂
掲載日:2026/04/13

午後の産業保健室は、少し静かだった。


「先生、少しよろしいですか」


 保健師の星野ゆいが、ドアの隙間から顔をのぞかせた。


「どうぞ」


「現場の上司の方から相談がありまして」


 手元のメモを見ながら、言葉を選ぶように続ける。


「ほぼ毎日、電車の遅延を理由に、15分ほど遅刻してくる社員がいるそうなんです。何度か注意しても改善しなくて…こういう場合、面談ってお願いしてもいいものなんでしょうか」


 少し迷いが混じっていた。


 “どこまで踏み込んでいいのか”という種類の迷いだ。


「業務に支障が出ているのであれば、関わること自体は問題ありません」


 そう答えながら、少しだけ間を置く。


「その支障が病気のせいかどうかを確認するのは、産業医の役割です」


 保健師が顔を上げる。


「ただ、ご本人がどうしても面談を希望されない場合は」


 言葉を選ぶように続ける。


「いきなり面談を無理強いするのも難しい問題です。その時にまた、一緒に考えましょう」


 保健師が、静かにうなずいた。



 数日後、その社員が産業保健室に来た。


 二十代後半くらいの、少し硬い表情の男性だった。



「産業医の寺西です。初めまして、齋藤浩一さんですね」


「はい」


「保健師の星野さんが同席しますね。今日はどんなことで面談になったかお伺いしてもいいですか?」


「さあ。上司に受けてこいと言われただけだから」


その物言いに、保健師は少し固まる。産業医は静かに頷く。



「そうですか。最近、遅刻が続いていると聞いていますが、齋藤さんとしてはどうですか?」


 そう切り出すと、すぐに言葉が返ってきた。


「電車が遅れるんです。僕のせいじゃないですよね」


 少しだけ強い口調だった。


 責められることを、あらかじめ防いでいるようにも見えた。


「たしかに、電車の遅れはコントロールできませんね」


 そう言うと、彼は少しだけ表情を緩めた。


 それ以上、責任の話には進まず、寺西は問いを重ねた。


「電車が遅れた日って、どのくらいありますか」


「週に2回くらいです」


 齋藤は迷いなく答える。


(週に4日くらいだって聞いたけど)


保健師はそう思いつつ、もちろん口には出さない。


「では、その頻度で遅れる路線だとして」


 少しだけ視線を落としながら続ける。


「同じ路線を使っている人は、同じくらい遅刻していますか」


 彼は一瞬、言葉を止めた。


「……いえ、してないと思います」


「もし、その頻度で上司の方が遅刻してきたら、どう感じますか」


 少しだけ間があいたあと、


「……困ります」


 小さく、そう言った。


(素直な人なんだな)


硬い表情は頑固そうな印象を与えるが、根は真面目で素直なのだろう。保健師は決めつけていた自分を心の中で嗜めた。


「上司が遅刻してきたらあなたが困るのですね。あなたが遅刻してきたら、周りはどう感じるでしょうか」


「…困ると思います」


素直な答えに、寺西はわずかに表情を緩めた。


「電車が遅延しても遅刻していない人たちは、どう工夫していると思いますか?」


 静かに続ける。


「わかりません」


産業医はうなずいた。


「もし遅延が多い路線ならば、遅れることを前提に、出る時間を決める、という考え方もあるかもしれません」


 彼は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ視線が動いた。



いくつか生活の様子を確認して、その日の面談は終わった。



 数週間後。


「この前の方、その後どうなりましたか」


 産業医が、ふと思い出したように保健師に聞いた。


「最近、少し遅刻が減ってきているみたいです」


「そうですか」


「電車は相変わらず遅れてるみたいですけど」


 少しだけ笑いながら言う。


「間に合う日が増えて、現場でも問題にならない程度になってきているそうです」


 その言葉を、静かに受け取る。


 何かが大きく変わったわけではない。


 電車も、きっとこれからも遅れる。


 それでも、少しだけ、間に合う日が増えていた。


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