産業医面談 第二話 遅刻の理由
午後の産業保健室は、少し静かだった。
「先生、少しよろしいですか」
保健師の星野ゆいが、ドアの隙間から顔をのぞかせた。
「どうぞ」
「現場の上司の方から相談がありまして」
手元のメモを見ながら、言葉を選ぶように続ける。
「ほぼ毎日、電車の遅延を理由に、15分ほど遅刻してくる社員がいるそうなんです。何度か注意しても改善しなくて…こういう場合、面談ってお願いしてもいいものなんでしょうか」
少し迷いが混じっていた。
“どこまで踏み込んでいいのか”という種類の迷いだ。
「業務に支障が出ているのであれば、関わること自体は問題ありません」
そう答えながら、少しだけ間を置く。
「その支障が病気のせいかどうかを確認するのは、産業医の役割です」
保健師が顔を上げる。
「ただ、ご本人がどうしても面談を希望されない場合は」
言葉を選ぶように続ける。
「いきなり面談を無理強いするのも難しい問題です。その時にまた、一緒に考えましょう」
保健師が、静かにうなずいた。
⸻
数日後、その社員が産業保健室に来た。
二十代後半くらいの、少し硬い表情の男性だった。
「産業医の寺西です。初めまして、齋藤浩一さんですね」
「はい」
「保健師の星野さんが同席しますね。今日はどんなことで面談になったかお伺いしてもいいですか?」
「さあ。上司に受けてこいと言われただけだから」
その物言いに、保健師は少し固まる。産業医は静かに頷く。
「そうですか。最近、遅刻が続いていると聞いていますが、齋藤さんとしてはどうですか?」
そう切り出すと、すぐに言葉が返ってきた。
「電車が遅れるんです。僕のせいじゃないですよね」
少しだけ強い口調だった。
責められることを、あらかじめ防いでいるようにも見えた。
「たしかに、電車の遅れはコントロールできませんね」
そう言うと、彼は少しだけ表情を緩めた。
それ以上、責任の話には進まず、寺西は問いを重ねた。
「電車が遅れた日って、どのくらいありますか」
「週に2回くらいです」
齋藤は迷いなく答える。
(週に4日くらいだって聞いたけど)
保健師はそう思いつつ、もちろん口には出さない。
「では、その頻度で遅れる路線だとして」
少しだけ視線を落としながら続ける。
「同じ路線を使っている人は、同じくらい遅刻していますか」
彼は一瞬、言葉を止めた。
「……いえ、してないと思います」
「もし、その頻度で上司の方が遅刻してきたら、どう感じますか」
少しだけ間があいたあと、
「……困ります」
小さく、そう言った。
(素直な人なんだな)
硬い表情は頑固そうな印象を与えるが、根は真面目で素直なのだろう。保健師は決めつけていた自分を心の中で嗜めた。
「上司が遅刻してきたらあなたが困るのですね。あなたが遅刻してきたら、周りはどう感じるでしょうか」
「…困ると思います」
素直な答えに、寺西はわずかに表情を緩めた。
「電車が遅延しても遅刻していない人たちは、どう工夫していると思いますか?」
静かに続ける。
「わかりません」
産業医はうなずいた。
「もし遅延が多い路線ならば、遅れることを前提に、出る時間を決める、という考え方もあるかもしれません」
彼は何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線が動いた。
いくつか生活の様子を確認して、その日の面談は終わった。
⸻
数週間後。
「この前の方、その後どうなりましたか」
産業医が、ふと思い出したように保健師に聞いた。
「最近、少し遅刻が減ってきているみたいです」
「そうですか」
「電車は相変わらず遅れてるみたいですけど」
少しだけ笑いながら言う。
「間に合う日が増えて、現場でも問題にならない程度になってきているそうです」
その言葉を、静かに受け取る。
何かが大きく変わったわけではない。
電車も、きっとこれからも遅れる。
それでも、少しだけ、間に合う日が増えていた。




