第4話:救出
「医療的判断……? は? 姉ちゃん、何医者気取ってんの?」
和也が半笑いで鼻を鳴らした。
その目は笑っていない。予期せぬ事態に苛立ち、不機嫌さを隠そうともしていない。
「気取ってるんじゃないわ。事実を言ってるの。美羽ちゃんの今の状態、見て分からない?」
私は美羽ちゃんの肩を抱き寄せながら、努めて冷静に言葉を紡いだ。
「著しい体重減少、手指の振戦、表情の強張り、そして過度な自責感。適応障害か、鬱の初期症状が出てる。今すぐ環境を変えて休ませないと、取り返しがつかないことになるわ」
姉としてではなく、医療従事者としてのトーンで告げる。
しかし、和也にはその言葉の重みが全く届いていないようだった。
彼は面倒臭そうに頭を掻き、大きな溜息をついた。
「大げさだって。あのさ、育児が大変なのは分かるよ? でも世の中の母親はみんなやってるわけじゃん。美羽だけ特別扱いするのっておかしくない? それこそ甘やかしだよ」
「甘やかし?」
「そうだよ。俺だって仕事でプレッシャー抱えてるけど、鬱だなんだって逃げたりしないぜ? 美羽はちょっとメンタルが弱いだけ。それを姉ちゃんみたいに周りが騒ぐから、本人も『自分は可哀想なんだ』って勘違いして、余計に弱くなるんだよ」
めまいがした。
これが、モラハラ加害者の論理だ。
相手の苦痛を「甘え」や「弱さ」に変換し、あまつさえ「俺の方が大変だ」とマウントを取る。
そこには共感のかけらもない。
美羽ちゃんが私の腕の中で、小さく震え声を上げた。
「す、すみません……私が、弱いから……和也さんに迷惑ばかりかけて……」
「ほら見ろよ。本人もそう言ってるだろ?」
和也が得意げに顎をしゃくる。
その瞬間、私の中で何かがプツンと切れた。
「いい加減にしなさい!」
リビングに、私の怒号が響いた。
和也がびくりと肩を震わせ、美羽ちゃんが息を呑む。
私は美羽ちゃんの両肩を掴み、無理やり彼女の顔を上げさせた。
「美羽ちゃん、よく聞いて。あなたは悪くない。弱くもない。これは病気なの。足を骨折した人に『走れ』って言う人がいたら、おかしいと思うでしょ? 今の和也が言ってるのはそういうこと」
私は強く頷く。
「だから、逃げていいの。治るまで、逃げなきゃダメなの」
私の目を見つめ返した美羽ちゃんの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
今まで必死にダムでせき止めていたものが、決壊した瞬間だった。
「う……うぅ……あぁぁ……!」
彼女はその場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣き始めた。
その泣き声は、悲しみというよりは、限界を超えた魂の悲鳴だった。
「おい、美羽! 泣けば済むと思ってんのか!」
和也が立ち上がり、威圧的に歩み寄ろうとする。
私は素早く二人の間に割って入り、弟を睨み据えた。
「近づくな」
「なんだよ姉ちゃん! これは夫婦の問題だろ! 部外者が勝手なことすんなよ!」
「部外者じゃない、家族よ。あんたが壊そうとしてる家族を、私が守ってるの」
私は和也を睨みつけたまま、泣き崩れる美羽ちゃんに声をかけた。
「美羽ちゃん、湊くんの最低限の荷物だけ持って。オムツとミルクだけでいい。あとは全部、実家で買うから」
「は、はい……はい……!」
美羽ちゃんは這うようにして寝室へ向かい、マザーズバッグを掴んで戻ってきた。
その腕には、状況が分からずキョトンとしている湊くんが抱かれている。
「行くわよ」
「待てって! ふざけんなよ!」
和也が私の行く手を阻もうと手を伸ばす。
私はその手を思い切り振り払った。パァン、と乾いた音が鳴る。
「……っ!」
「今、美羽ちゃんを止めたら、私はあんたを一生軽蔑する。そして二度と、うちの敷居は跨がせない」
私の気迫に圧されたのか、和也が一瞬ひるんだ。
その隙を逃さず、私は美羽ちゃんの背中を押して玄関へと走った。
「おい! じゃあ俺の飯はどうすんだよ! 明日の着替えはどこにあるんだよ! 美羽!!」
背後から聞こえる和也の叫び声は、最後まで「自分のこと」ばかりだった。
◇
三十分後。
私たちは実家に到着した。
リビングのソファに美羽ちゃんを座らせ、温かいお茶を出した時だった。
ブブブブブ……。
私のポケットの中で、スマホが重低音を響かせた。
画面を見るまでもない。
ディスプレイに表示された文字は――『和也』。
まだ、終わっていない。
むしろ、本当の戦いはここからだ。




