第3話:初めて見る“異常”
日曜日の十四時。
私は、和也と美羽ちゃんが暮らすマンションのインターホンを押した。
都心から少し離れた、ファミリー向けの真新しいマンション。
外観は清潔で、幸せな家族が暮らすにはおあつらえ向きの箱に見える。
「はーい! いらっしゃい、姉ちゃん」
ドアが開くと、和也が満面の笑みで出迎えてくれた。
部屋着のスウェットは有名ブランドのもので、髪も整っている。
私の知る「明るく爽やかな弟」そのものだ。
「お邪魔するわね。はいこれ、湊くんへのプレゼント」
「おー、サンキュ! 上がってよ。コーヒー淹れるからさ」
和也に促され、リビングへと通される。
室内はモデルルームのように片付いていた。
雑誌一冊、リモコン一つ、テーブルの上には置かれていない。
(……片付きすぎている)
乳児がいる家特有の、あの雑多な温かみが一切ない。
まるで生活感を徹底的に排除しようとしているかのような、息苦しいほどの整然さだった。
「……あ、お義姉さん。いらっしゃいませ……」
キッチンから、美羽ちゃんが姿を現した。
その姿を見た瞬間、私は看護師としての仮面が外れそうになるのを必視で堪えた。
最後に会ったのは出産直後だったが、その時とは別人のように痩せ細っている。
頬はこけ、目の下にはコンシーラーでも隠しきれない濃い隈がある。
何より気になったのは、その挙動だ。
私と目を合わせようとせず、視線は常に床か、あるいは和也の顔色を窺うようにさまよっている。
「美羽ちゃん、久しぶり。急に来てごめんね」
「い、いえ。とんでもないです。あの、お茶を……」
彼女がお盆を持って近づいてくる。
カチャ、カチャ、と小さな音が鳴っていた。
カップが震えているのだ。彼女の両手が、小刻みに痙攣しているせいで。
彼女がテーブルにカップを置こうとした、その時だった。
ほんの少し、コーヒーがソーサーにこぼれた。
「あ……っ! す、すみません、すみません!」
美羽ちゃんは火がついたように謝り、慌てて布巾を探そうとポケットをまさぐる。
その顔色は蒼白で、まるで劇薬でもこぼしたかのような狼狽ぶりだった。
私は「大丈夫よ」と言おうとしたが、それより先に和也の声が降ってきた。
「あーあ。またやったの?」
怒鳴り声ではない。
呆れたような、出来の悪い子供を諭すような、優しく湿った声だった。
「ほら姉ちゃん、見てよこれ。最近ずっとこうなんだ。注意力が散漫っていうかさ」
「……」
「美羽、お客さんの前で恥ずかしいよ。ちゃんと謝って、拭いて」
和也はソファに踏んづり返ったまま、指一本動かそうとしない。
美羽ちゃんは「申し訳ありません」と私と和也に深々と頭を下げ、震える手でソーサーを拭き始めた。
私は冷え切った紅茶を飲み込むような気分で、弟に尋ねた。
「和也。美羽ちゃん、すごく顔色が悪いけど。ちゃんと眠れてるの?」
「寝てる寝てる。俺より寝てるよ。俺は仕事で疲れてるけど、美羽は昼間、湊と昼寝できるじゃん? これでも俺、気を使って家事のレベルを下げてやってるんだぜ」
和也は、心底自分が「理解ある夫」であると信じている口調で続けた。
「美羽ってさ、元々要領悪いところあるだろ? だから俺が管理してやらないと、すぐダメになるんだよ。今はリハビリみたいなもん。俺が厳しくチェックしてやることが、こいつの成長に繋がるからさ」
成長。リハビリ。管理。
家庭内で使われるべきではない単語が、次々と飛び出してくる。
私は美羽ちゃんの手元を見た。
赤切れだらけの指先。爪は短く切り詰められ、皮膚はボロボロに荒れている。
対する和也の手は、白く滑らかで、結婚指輪がピカピカに光っていた。
(――これは、共倒れじゃない。一方的な搾取だ)
美羽ちゃんの自尊心を削り取り、罪悪感を植え付け、思考能力を奪って、自分の都合のいいように作り変えようとしている。
加害者に自覚がない一番タチの悪いケース。
美羽ちゃんが、怯えたような目で私を見たあと、和也に向かって小さな声で言った。
「あの……夕飯の支度、そろそろ始めますか……?」
「おう。今日は姉ちゃんいるから、いつもの手抜き料理じゃダメだぞ。ちゃんとしたの作れよ」
和也のその言葉に、美羽ちゃんの肩がビクッと跳ねた。
呼吸が浅くなっている。過呼吸の一歩手前だ。
限界だった。
これ以上、観察を続ける必要はない。
これ以上放置すれば、彼女の心は完全に壊れて戻らなくなる。
私は静かに立ち上がった。
「美羽ちゃん」
キッチンへ向かおうとする彼女の腕を、強めに掴む。
彼女の腕は、折れそうなほど細く、そして氷のように冷たかった。
「え……お、お義姉さん?」
「キッチンに行かなくていいわ。エプロンを外して」
私は彼女の目を見て、できるだけゆっくりと、けれど有無を言わせないトーンで告げた。
「今すぐ荷物をまとめましょう。貴方と湊くん、今日からうちに来なさい」




