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誰のおかげで飯が食える」が口癖のモラハラ弟を、看護師の姉が『医療的判断』で完膚なきまでに叩き潰す話  作者: 品川太朗


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2/10

第2話:沈黙の亀裂


 帰宅後、家族との夕食を終えた私は、ダイニングテーブルで一人、冷めたハーブティーを啜っていた。


 リビングのテレビからはバラエティ番組の笑い声が聞こえてくるが、私の意識はスマホの画面に釘付けだった。


 美羽ちゃんとのトーク履歴を、指先で遡る。


『和也さんはお仕事が忙しいので』

『私がもっと要領よくできれば』

『和也さんには何も言わないでください』


 何度読み返しても、胸のざわめきが収まらない。


 私は職業柄、精神的なDVやモラルハラスメントの事例をいくつか見てきた。

 被害者に共通するのは、「自尊心の低下」と「加害者への過度な配慮」、そして「思考の硬直化」だ。


 今の美羽ちゃんの反応は、その初期症状……いや。

 もしかすると中期段階に入っているかもしれない特徴と合致する。


(――まさか、和也が?)


 あの人好きのする、明るい弟が?


 信じたくない気持ちと、プロとしての冷徹な判断がせめぎ合う。

 私はもう一度だけ、美羽ちゃんに鎌をかけてみることにした。


 今度は、もっと日常的な、断る理由がないような軽い質問を投げる。



『そういえば、湊くんの出産祝い、まだ渡せてなかったじゃない? 郵送しようかと思ったけど、やっぱり顔も見たいし、今度の日曜にちょっとだけ寄ってもいい? 玄関先で渡すだけでもいいから』


 これなら、「家が散らかっているから」という言い訳は通用しない。


 既読はすぐについた。

 しかし、返信が来ない。


 「入力中」の文字が出たり消えたりを繰り返している。

 迷っているのだ。たかが義姉が祝いを持ってくるというだけの話に、何をそこまで迷う必要がある?


 五分後。

 ようやく届いたメッセージを見て、私は息を呑んだ。


『すみません。和也さんに確認を取らないと、勝手に人を家に入れることはできない約束になっているので……。また後でお返事します』


 ――黒だ。


 私はスマホをテーブルに叩きつけそうになるのを、寸前で堪えた。


「約束」?

 夫の許可なく、実の義姉すら家に上げられないルールがあるというのか。


 それは夫婦間のルールではない。

 看守と囚人のルールだ。


 美羽ちゃんは今、完全に和也の支配下にある。

 彼女にこれ以上連絡を取っても、和也の顔色を窺って萎縮させるだけだ。


 私は即座に作戦を変更した。

 外堀から埋める。相手が「良き夫」を演じているなら、それを利用するまでだ。


 私は美羽ちゃんとのトークルームを閉じ、弟・和也の連絡先を開いた。

 深呼吸をして、努めて「能天気な姉」の仮面を被る。


『おーい、和也! 仕事お疲れ。今度の日曜、暇? 出産祝い持って遊びに行こうかと思って。美羽ちゃんにも連絡したけど、和也に聞いてみるって言ってたからさ』


 弟からの返信は、驚くほど早かった。

 そして、その軽さが私の神経を逆撫でした。


『お、姉ちゃん久しぶり! 日曜? 全然いいよー。むしろ来てやってよ』


 スタンプ付きの明るい返信。

 しかし、続くメッセージに本性が滲み出ていた。


『美羽のやつ、最近育児でテンパっててさー。家の中も全然片付いてないし、飯も手抜きばっかりなんだよ(笑) 姉ちゃんから少し指導してやってくれない? 俺が言っても「やります」って言うだけで全然成長しないんだわ』


 体温が、すうっと下がるのが分かった。


「指導してやってくれない?」

「成長しない」


 自分の妻を、まるで出来の悪い部下か、壊れた家電のように語る言葉。


 生後三ヶ月の乳児を抱えた母親が、家事を完璧にこなせるわけがない。

 睡眠時間だって削られているはずだ。それを「手抜き」と断じる想像力の欠如。


 何より許し難いのは、彼がそれを「姉への愚痴」として、なんの悪気もなく送ってきていることだ。


「俺は困っている被害者だ」とでも言いたげな態度。


 確信した。

 この男は、自分が何をしているのか全く理解していない。


 美羽ちゃんのあの怯えようは、この無神経な怪物が日常的に撒き散らす「正論という名の暴力」によって作られたものだ。


『分かった。じゃあ日曜の十四時頃に行くね。楽しみにしてる』


 私は短くそう返すと、スマホの電源を落とした。


 画面に映った自分の顔は、能面のように冷え切っていた。


 美羽ちゃんを救い出さなければならない。

 けれど、ただ連れ出すだけでは終わらないだろう。


 この根深い「勘違い」を骨の髄まで叩き直さない限り、和也はまた同じことを繰り返す。あるいは、美羽ちゃんを一生飼い殺しにする。


「……上等じゃない」


 静かなリビングに、私の呟きが落ちた。


 看護師として、そして家族として。

 腐りかけたこの家の膿を、私がメスを入れて出し切ってやる。


 決戦は日曜日。

 私は手帳を開き、赤いペンでその日付を強く丸で囲んだ。

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