第10話(最終話):新しい家族の形
あれから、一年数ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、また柔らかな日差しが降り注ぐ春が来ていた。
私は、あの日と同じように和也のマンションのインターホンを押した。
「はーい! ちょっと待ってて、今手が離せなくて!」
インターホン越しに聞こえてきたのは、和也の声だ。
以前のような「作られた愛想の良さ」もなければ、不機嫌な怒鳴り声でもない。
生活感のある、少し焦ったような声。
数分後、ドアが開いた。
「ごめん姉ちゃん。湊がスープこぼしちゃってさ、大惨事だったんだよ」
出迎えた和也は、ヨレヨレのTシャツにエプロン姿。
そのエプロンには、オレンジ色のニンジンのペーストがべっとりと付いていた。
髪は無造作で、少し汗ばんでいる。
けれど、その顔は以前よりずっと健康的に見えた。
「いらっしゃい、お義姉さん」
奥から美羽ちゃんも顔を出した。
彼女は今、パートタイムで復職し、週に数回働いている。
今日は休日で、リラックスした表情を浮かべていた。
その顔に、かつての隈や、怯えたような強張りはもうない。
「お邪魔するわね。……ふふ、随分と賑やかそうじゃない」
リビングに入ると、そこは「適度に」散らかっていた。
おもちゃが転がり、洗濯物がソファの端に積まれている。
かつての異常な綺麗さも、ゴミ屋敷の不潔さもない。
人が生き、子供が育っている、当たり前の「家庭」の風景がそこにあった。
「ほら湊、あーんして。こぼすなよー」
和也がダイニングテーブルで、一歳半になった湊くんに食事をさせている。
湊くんがスプーンを払いのけ、再びスープが飛び散った。
「あーっ! おい、これ着替えたばっかりだぞ!」
「ふふ、ドンマイ和也さん。洗濯機、もう一回回しておいてね」
「鬼かお前は! ……分かったよ、やるよ」
和也は口を尖らせながらも、手際よく布巾で汚れを拭き取り、湊くんをあやしている。
その一連の動作には、迷いがない。
美羽ちゃんが、私にお茶を出してくれた。
「どう? 最近の調子は」
私が尋ねると、美羽ちゃんは湊くんと格闘する和也の背中を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「大変ですよ。相変わらず和也さんは不器用だし、洗濯物の干し方で喧嘩もします。先週なんて、『靴下が片方ない』って大騒ぎして、結局自分のカバンに入ってたんですから」
「あはは、あの子らしいわね」
「でも……『怖い』と思うことはなくなりました」
美羽ちゃんは、私の目を真っ直ぐに見て言った。
「言いたいことを言って、喧嘩して、謝って、また笑う。そういう普通のことが、今はすごく幸せです」
「私は何もしてないわよ。きっかけを作っただけ。変わろうと努力したのは、あの馬鹿弟自身だし、それを許して受け入れたのは美羽ちゃんの強さよ」
私は本心からそう言った。
和也が変われたのは、彼自身が「孤独の痛み」を知り、美羽ちゃんという存在のかけがえのなさを痛感したからだ。
「おい姉ちゃん! さっきから俺の悪口言ってないか?」
和也が顔中をご飯粒だらけにした息子を抱いてこっちに来た。
「褒めてたのよ。少しはマシな父親になったってね」
「『マシ』は余計だろ。……ま、これくらい当然だろ」
和也はぶっきらぼうに言いながら、湊くんの頬についた汚れを指で優しく拭った。
その指先は、水仕事で少し荒れ、ささくれができている。
それは、彼が家族のために手を動かしてきた勲章だった。
「お義姉さん、今度お義母さんも呼んで、みんなで温泉に行こうって話してるんです。和也さんが企画してくれて」
「へえ、あのケチな和也が?」
「うるさいな! ボーナス出たんだよ。迷惑かけたお詫びと……感謝の、印だよ」
和也が照れ隠しにそっぽを向く。
美羽ちゃんと私が顔を見合わせ、声を上げて笑った。
リビングに、温かい空気が満ちる。
私はバッグの内ポケットに手を触れた。
そこには、あの日書かせた「離婚届」が入ったままのクリアファイルがある。
(……もう、必要ないかもしれない)
でも、私はそれを捨てることはしなかった。
和也がいつまた調子に乗るか分からないから。
この幸せを守るためには、抑止力の目は光っていたほうがいい。
「じゃあ、そろそろ帰るわね」
ドアが閉まる。
春の風が、ふわりと私の髪を揺らした。
スマホを取り出し、母に短いメッセージを送る。
『異常なし。むしろ、幸せすぎて胸焼けしそう』
既読はすぐについた。
『それは重畳。でも、油断大敵よ』
母からの返信に、私は思わず吹き出した。
私は青空を見上げた。
雲ひとつない空。
美羽ちゃんの未来も、こうであってほしいと願いながら、私は軽やかな足取りで駅へと歩き出した。
(了)
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!
無自覚な怪物だった弟が、自らの生活力のなさに絶望し、ようやく「家族」の一員として歩み始める物語。玲子の「医療的判断」による強行突破が、結果として全員を救う形となりました。
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それでは、また別の物語でお会いしましょう!




