第5話「遥先輩と図書室の約束」
放課後の図書室は、いつも静かだった。
外では女子たちの笑い声が響いているのに、扉一枚隔てたこの空間だけは、まるで別世界のようだった。
「来たわね、光くん」
窓際の席で本を読んでいたのは、三年生の神崎遥先輩。
いつも凛としていて、髪の毛をまとめた横顔がどこか大人びて見えた。
「今日もここに来ちゃいました」
「いいのよ。ここは誰の場所でもないもの」
そう言って微笑む先輩の笑顔は、女子の群れに怯える僕にとって、唯一の「避難所」だった。
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◆図書室の日々
それから毎日のように僕は放課後、図書室に通うようになった。
遥先輩と一緒に並んで本を読み、時々お互いにおすすめを教え合う。
「この小説、意外と泣けるのよ」
「へえ、先輩が泣くなんて想像できません」
「失礼ね。泣くときだってあるのよ」
そんな他愛もない会話が、僕の心を少しずつ癒していった。
他の女子と話すときは、いつも「どう思われるか」ばかり気にしていたのに、
遥先輩といるときだけは、自然体の自分でいられた。
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◆男子としてのプレッシャー
この世界では、男は珍しい。
だからこそ、政府は「男子の保護」や「婚姻制度」なんかにうるさい。
中学二年になると、クラスでは「将来のペア制度について」なんて授業も始まった。
男子は十五歳になると、優先的に相手を選ばされるらしい。
その話を聞いた女子たちはざわついた。
「光くんは誰を選ぶんだろう?」
「絶対、わたしだよ!」
冗談半分でも、僕には冗談に聞こえなかった。
“普通でいたい”僕にとって、それはまるで逃げ場をなくすような制度だった。
その日の放課後、僕はいつものように図書室に駆け込んだ。
「……僕、もうどうすればいいかわかりません」
机に突っ伏す僕を見て、遥先輩は静かに本を閉じた。
「光くん。あなたは、誰かに選ばされるんじゃない。
――自分で、選ぶのよ」
「でも、僕が選んだら、他の人が傷つきます」
「そうね。でも、誰かが泣くことを恐れて何も選ばなかったら、
一番傷つくのは“あなた自身”じゃないかしら」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
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◆約束
翌日、遥先輩は僕に一冊の本を差し出した。
古びた革表紙のノートのような本。タイトルはない。
「これ、なにかの本ですか?」
「私の“記録帳”。大したものじゃないけど、ここには私が学んだこと、感じたことを全部書いてあるの。
あなたが困ったとき、これを読めば少しは助けになると思う」
僕は大切に受け取った。
「でも、いいんですか? これ、先輩の大事なものじゃ……」
「いいの。代わりに、約束して」
遥先輩は少しだけ照れたように笑った。
「いつか、あなたが“普通”を掴めたら、その時教えて。
どんな形でもいいから、『僕は普通になれました』って、伝えて」
僕は真剣にうなずいた。
「……約束します」
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◆別れの日
それから数週間後。
卒業式の日、図書室の前で僕は遥先輩を見送った。
「光くん、もうすぐ高校生ね」
「はい。まだ全然、自分が何者かも分かってませんけど……」
先輩は笑って、僕の頭を軽く叩いた。
「それでいいのよ。悩むうちは、まだ成長できる証拠」
そして、少しだけ寂しそうに呟いた。
「私ね、来月から首都圏の特別高等教育機関に行くの。遠いから、もう会うことはあまりないかも」
胸が締めつけられた。
けれど僕は、笑って言った。
「……また、いつか会いに行きます」
「ええ。あなたが“普通”を見つけたそのときに」
桜の花びらが舞う中、遥先輩は背を向けて歩き出した。
その背中を見送りながら、僕は強くノートを握りしめた。
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◆残されたノート
家に帰って、そっとそのノートを開く。
最初のページに、きれいな字でこう書かれていた。
『世界がどう変わっても、自分を見失わない人間になれ。
それが“普通”という言葉の本当の意味。』
ページの端に、優しく笑うような文字が添えられていた。
『――光くんへ。遥』
その夜、僕は泣いた。
寂しさと同時に、胸の奥に確かに灯った希望の炎を感じながら。
“普通である”という夢は、まだ遠い。
でも、遥先輩との約束があれば、僕は歩き続けられる。




