日常
買い物袋を提げ、男は住宅街を歩いていた。
窓の向こうから、笑い声が漏れてくる。
別の家からは、怒鳴り声と、何かが床に叩きつけられる鈍い音。
壁一枚。
それだけで、世界はまるで違う。
男は何も考えないようにして、階段を上った。
自室へ続く廊下を進み、鍵を開け、扉を閉める。
部屋は簡素だった。
余計な物はなく、一人で生きるには十分な広さだ。
買い物は、いつも同じ店。
同じ道、同じ棚、同じ時間。
「いつものかい?」
男は小さく頷くだけだった。
部屋に戻ると、決まった順序で動き始める。
まず、音楽。
スピーカーから流れるのは、
ショスタコーヴィチ《交響曲第5番》第一楽章。
それは弔いであり、祈りだった。
死者のためであり、次の仕事のための儀式でもある。
次に、武器。
グロック19。
分解し、清掃し、注油する。
手順は、考えなくても体が覚えている。
最後に、ナイフ。
どこにでもある、果物ナイフ。
刃は丁寧に研がれ、無駄な傷一つない。
使い道は、誰にも分からない。
そのとき――
扉が、二度、叩かれた。
男は音楽を止め、銃を手に取る。
足音を殺し、ドアに近づく。
「誰だ」
低く問いかける。
「俺だよ。仲間の声も忘れちまったのか?」
聞き慣れた声だった。
男は鍵を開け、扉を開く。
立っていたのはクリフ。
――逃し屋だ。
男が殺さなかった人間を、別の場所へ逃がす役目を持つ男。
クリフは持ってきた食べ物を勝手に広げながら言った。
「今回も、ちゃんと逃がしてきたよ。
愛する彼女も一緒にな」
前回の仕事の報告だった。
「彼さ、彼女の顔を見ただけで泣き出してさ。
真っ当に生きるって、何度も誓ってた」
少し間を置いて、続ける。
「……昔の俺を思い出したよ」
クリフは肩をすくめ、男を見る。
「なあ、前から思ってたんだけどさ。
あんた、愛する人間がいるってだけで、なんで殺さないんだ?」
問いは軽いが、核心を突いていた。
男は答えない。
代わりに、淡々と口を開く。
「報告は以上か」
「なら、仕事の話は終わりだ。また依頼をかける」
寡黙で、自分のことを語らない。
クリフもそれには慣れていた。
「はいはい」
両手を上げ、立ち上がる。
「また呼んでくれよ。
……もう少し、あんたのこと知りたかっただけなんだけどな」
少しだけ寂しげに言い、玄関へ向かう。
ふと立ち止まり、振り返る。
喉が渇いた。
そう言おうとした、そのとき。
「――よかったら、ビールがある。持って帰るか」
男の声が背中に届く。
クリフは一瞬目を丸くし、すぐに笑った。
「ああ、もらっておくよ。ちょうど喉が渇いてたんだ」
ビールを受け取りながら、付け加える。
「しかし、ほんと不思議だよな。
いつも俺の思考を読んだみたいなタイミングだ」
クリフは上機嫌のまま、部屋を後にした。
扉が閉まる。
その直後――
男の携帯が、短く震えた。
新たな依頼の着信だった。




